今は亡き貴女のためにできること
ひっそりとした葬儀の後、薫は清宗に、陽子の意思を淡々と伝えた。
清宗の瞳は、驚愕に見開かれたが、その後、諦めたかのように閉ざされた。
激昂されるだろうと覚悟していた薫は、やはり平坦な声で問うた。
「『親友の夫に擦り寄る非常識女』くらいは言われると思っていたのに」
「…其方が私を想っておらぬことくらい分かっておる。それどころか、私を心から憎んでいることも」
薫は、沈黙で肯定した。
「…いずれにせよ、私は後妻を娶らぬわけにはいかぬ。それならば、あの子のことを思えば、其方以上の適任者はおらぬ。陽子も、それを見越していたのだろう」
陽子、その名を聞いた途端、薫の胸は、軋んだ。きっと、ひどい顔をしている。それを隠すかのように、俯いて、唇を噛んだ。
「だが、本当に大丈夫なのか。…其方にいくら恨まれようと、私は、其方を妹のように思ってきた。其方が苦しみ、悲しむ様は…」
「やめて」
清宗の気遣わしげな声を遮り、空虚な目を向けて、薫はもう一度「やめて」と繰り返した。
「…貴方が憎い。心から憎い…!でも、それ以上に、私は陽子が大事なの。あの子が安らかに眠れるのなら、私は何でもする」
しかし、と反駁しようとした清宗を鋭く見据え、薫は更に言葉を次いだ。
「それから、私は、陽子みたいに甘くはないの。今に分かるわ。だから――」
――今すぐ籍を入れてちょうだい。
その凍てついた声音と、揺らがぬ瞳に、清宗は一歩後ずさった。
まだ十九歳の少女とは思えぬ程に、深く、底の見えない決意を抱いていた。そこには、恐れなどという感情は微塵も存在しなかった。
そして、その宣言通り、彼女は何者をも恐れぬ女主人となった。
あまりに突然、かつ非常識とも言える縁組に、当初、彼女への風当たりは強く、それは陽子の比ではなかった。
しかしそれを、彼女はただ冷めた目で見つめた。それから、まるで羽虫を潰すかのように何の躊躇いもなく、それらの家を潰した。
そのあまりの無感情さ、無慈悲さに、人々は唖然とするより他なかった。清宗ですら、背筋にぞっとするものを感じた。
間違いなく、彼らは見せしめだった。藤泉院家に仇なすものは、まるで紙屑のように屠られる。忘れかけていた掟を、人々は急速に思い出した。そして、前妻がいかに寛大であったかを、否が応でも悟った。
ここに、薫の狙いは成就した。
揺るぎない藤泉院家の力を、更に確固たるものに。何者にも付け入る隙を与えず、どんなものにも侵されない強さを。
何の力も持たない、あの子を、無月を、守るために。
家々に制裁を与えたその夜、薫は自室で震える手を握り合わせた。それだけでは足りず、震える体を自ら抱きしめ、涙を噛み殺す。
今日一日のうちに、この手は、一体、どれだけの人々を破滅へと追い込んだのだろう。
これで良い。覚悟の上でしたことだ。全て、背負っていくと、自分で決めたのだ。そう、自身に言い聞かせながら、薫は記憶の中、花々に囲まれながら穏やかに微笑む少女を思い描いた。
こんなに弱くては、いけない。強くなると決めたではないか。
今は亡き、彼女を守るために。
――――……
陽子の死にひどく取り乱す者は、いなかった。皆、多かれ少なかれ、その日が来ることを覚悟していたのかもしれない。
しかし、表情に現れないからといって、悲しみを抱いていないわけではない。むしろ、発散されることのない深い悲しみは、胸にとぐろを巻き、毒を煮立てた。
そしてそれが最も酷かったのは、まだ幼い無月だった。
「かなり衰弱しております。元より、感受性の豊かな子でしたからな。体が、悲しみに耐えきれぬのでしょう。…このままでは、危ないかもしれませぬ」
そう言うと、侍医は点滴を取り替えさせた。
「…どうすれば良い」
青白い娘の手をさすりながら、清宗は苦しげに眉を寄せた。
「環境を変えることでしょうな。さすれば気分も変わりましょうて」
「…清宗様」
それまで後ろに控えていた薫が、静かに呼びかけた。話がある、とその目が告げている。
清宗は頷き、薫に従い、別室へと移動した。
――――……
「…あの子を、草柳家に、預けましょう」
落ち着いた声だった。いや、彼女が落ち着いているのは常のことであった。陽子が息を引き取ったそのときでさえ、取り乱す周囲を宥めていた程だ。次に自分の為すべきことだけを、ひたと見つめて。
「しかし、それでは、其方がこの家に入った意味がないではないか」
いつになく強い声が出た。これまで、諾々と薫に従ってきた清宗が、初めて呈した反対だった。
「私のことを案じる振りをして、あの子を手放すまいとするなんて、卑怯だわ」
しかし、それも、薫はただ冷たく退けた。
清宗も黙るより他ない。
否定しきれなかったからだ。愛する我が子を、最愛の妻の忘れ形見を手放したくない、という弱さを。
「あの子は一度、この家から離れるべきだわ。全てを忘れるために」
「…陽子のことを、忘れさせるのか」
「でなければ、あの子がもたないのよ」
薫の声は、震えていた。
草柳家。陽子の生家。たった一人の娘を亡くし、今や年老いた夫婦が残るのみの、何の力も持たない、平穏な家。
そこでなら、きっと無月は心安く暮らせるだろう。藤泉院家の一人娘ではなく、断絶寸前の旧家の養子として。
いつまでもそのままというわけにはいかない。老夫婦はもう長くはないであろうし、あの子を守るには、あらゆる意味で心もとない家だ。幼いうちは良くとも、成長し、あの容姿に磨きがかかってしまえば、きっと望むと望まざるとに関わらず、あらゆる思惑に巻き込まれることだろう。
しかし今は、他に道もない。あの子を救う術だけを、考えるのならば。
清宗はきつく唇を噛んだ。
「…彼らは、受け入れてくれるだろうか」
陽子が死して後、草柳家は藤泉院家からの援助を一切断っていた。薫の事情は承知しており、月に数度、彼女と無月の身を案じる手紙が送られては来るものの、彼らは明らかに、清宗を許してはいない。
「私から、お話するわ」
「…しかし」
「清宗様、これは、罰なのよ」
「――罰…」
清宗は、きつく目を閉じた。そうか、これは、罰なのか。彼女が弱っていることも、強がっていることも知っていながら、それでも手放すことができなかった、罰。そうして、最愛の者の命を散らせてしまったことへの、罰。
薫もまた、涙を堪えていた。
これは、自身への罰でもあるのだ。あのとき、陽子を止めていれば。藤泉院家に刃向かう強さを持っていれば。異変を感じたときにすぐに連れ帰っていれば。彼女の意志を無視して、一緒に逃げる勇気を持てていたならば。
親友を殺したのは、この家でも、この世界でも、ましてこの男でもない。
誰より近くに居ながら、見殺しにした、自分自身だ。
だからこそ、薫は、陽子が息をひきとったその日に、共に自分を殺す決意をしたのだ。
「遅くとも、あの子は十六歳までには、この家に戻らないといけなくなるわ。だから、それまでに――」
そう、硬い表情で告げる薫の手を、清宗はそっと取った。
握られた強張った両手の指を、ゆっくり、一本一本開かせていく。そして、その手を、そっと包み込んだ。
「薫。私がやる。あの子が戻るそのときまでにしておかなければならないことは、全て私がやろう。これ以上、この綺麗な手を汚す必要はない。だから、これまで通り、彼女が生きていたときのように、笑っていてほしい……あの子のために」
薫は、急に喉のあたりに込み上げてくるものを感じ、俯いた。分かっていた。ずっと心配げな視線を向けられていることも、やろうとしていたことを、時折先回りして片づけられていたことも。
この地で暮らした五年間、まるで妹のように慈しんでくれていたことも、気を回してくれていたことも、全て薫には分かっていた。だからこそ、この男は、親友を死に追いやった憎い仇なのだと、強いて己に言い聞かせなければならなかったのだ。
己の意志も感情も全て捨て、彼女の忘れ形見のためだけに生きる自分に、日の差すような感情は不要だった。否、穏やかな感情など抱くわけにはいかなかった。
この地で苦しみこの世を去った親友を思えば、この家で残された自分が幸せを感じるわけにはいかない。そんなこと、できるはずもない。彼女を思えば思うほど、より深く傷つきたくなる。もっと暗闇を感じなければならない気がする。
傷ついている間、痛みに耐えている間は、罪悪感も、悲しみも、僅かに薄らぐからかもしれない。
「…勿論、清宗様……あなたにも、手伝ってもらうわ。だから、協力してね」
そのとき、薫の浮かべた微笑みに、清宗は自分の目を疑った。ぞっとするほど穏やかで、優しげで、優美で、まるで、人形のような微笑だった。
快活で、明朗で、負けん気の強く、裏も表も持たなかった薫。そんな彼女をこれほど深く傷つけ、変えてしまった。そのことに、清宗は内心、胸が押しつぶされそうだった。
そして悟った。自分では、彼女の傷を癒すことはできないのだと。妹のように慈しむことさえ、もはや許されぬのだと。それならば、果たして自分に何ができるだろう。
残された道は、彼女とともに突き進む茨の道だけではないか。
「…分かった。私は、何をすればいい?」
「あの子に、恨まれましょう」
清宗は、一瞬言葉を失ったが、あえて平然と問い返した。
「恨まれ役を買って出ようということか」
「…あの子は、生きるために必要な感情が希薄だわ。強い反骨精神も、負けん気も、何も持っていないの。だから、生きていくために、意志を培うために、私たちを恨んでもらうのよ」
確かに、憎悪は、時として強い生への執着となる。しかし、それは決して幸せな人生ではないはずだ。
「…あの子に、そんな苦しい道を歩ませるのか」
「死んでしまうより、ましよ」
薫は揺るぎない声音で断言した。
「…死んでしまっては、どうにもならないわ」
そう言われて、果たして清宗に何と言い返せたであろうか。
「…分かった。草柳家には、私から話そう……それから、春乃宮にも」
「春乃宮?」
陽子の葬儀の後、まだ彼らと直接顔を合わせてはいなかった。伊勢によると、ジュリアの気落ちが深刻で、容易に出歩ける状態ではないとのことだった。
「無月は彼を、春乃宮の子息を忘れるだろうが、子息には、無月のことを知らせておくのがいいだろう。あの子には、頼れる味方が必要だ」
「…そうね。それなら、草柳家から、話してもらいましょう。きっと彼からも、恨まれることになるけれど」
娘、息子のように可愛がってきた子供たちから恨まれる決断を、薫は僅か数秒の間に固めた。迷いなど、存在しなかった。無月を、親友の忘れ形見を守るためなら、文字通り、何にだってなれる気がした。
この先、何十年になるとも知れぬ長い年月を、愛する子に恨まれ続けたとしても、その先に、あの子の幸せがあるのなら。あの子が、全てを乗り越え、強さを手にし、未来を見据え生きていく勇気を得たそのときに、空の上で陽子が笑ってくれるなら。
薫は固く目を閉じた。
そして、心のうちで、そっと呟く。
きっと、貴女は、そんなことまでする必要はないと、案じてくれている。それでも、今、私にできることは、あの子を生かすことだけ。私は、大丈夫。だからどうか、そこから、あの子の生きていく姿を見届けてほしい。あの子の生きていく道を、照らしてほしい。
それだけが、今の私の生きる糧なのだから。




