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2章 1話 桃矢の日常

朝の空気は心地よかった。


灰色じゃないし、血の匂いだってしない。


ただ、すんだ風が頬をなでて、庭の木々がさらさらと揺れるだけ。


ここは鬼の世界じゃない。


東京都青梅市。


山に囲まれた静かな町。


こんなにも朝が気持ちいいものなんだって、あの頃の僕は知らなかった。


「桃矢君、また空見てる」


振り返ると、縁側に立つ紅羽さんが微笑んでいた。


白い道着に黒髪を後ろでひとつに結んでいる。


その姿を見るたび、胸が少しだけ痛くなる。


姉さんによく似ているからだ。


鬼界で紅羽さんに助け出されてから一年。


僕は鬼であることを隠し、人間――“桃矢”として暮らしている。


「ほら、始めるよ」


「はい。お願いします」


竹刀を握り直す。


一年間、毎日続けた朝稽古。


最初はまともに構えることすらできなかった。


でも今は違う。


僕だって、それなりに強くなった。


「いきます!」


地面を蹴る。


真正面から踏み込み、竹刀を振り下ろす。


カンッ!


紅羽さんは軽く受け流す。


そのまま返す竹刀で僕の肩を打つ。


「甘いよ」


「まだまだ!」


すぐに距離を詰める。


今度は右へ回り込みながら足を狙う。


竹刀の先が足首をかすめる。


紅羽さんが少しだけ目を細めた。


「へぇ」


紅羽さんが声を漏らしたのは初めてだった。


「よしっ」


「調子に乗らない」


紅羽さんの竹刀がするりと僕の竹刀を絡め取る。


気づけば体勢が崩れていた。


「うわっ!」


トン。


胸を軽く突かれ、尻もちをつく。


「はい、一本」


「……負けました。くっそー、勝てると思ったのに」


紅羽さんは楽しそうに笑う。


「ふふっ。もう一回やる?」


「もちろん。お願いします」


何度も踏み込む。


何度も打ち込む。


そのたびに、


「肩に力が入ってる」


「右足が流れてる」


「相手の目を見すぎ」


紅羽さんは一本一本、僕の悪いところを教えてくれる。


戦いながら教えられる。


これが一流ってやつなんだろう。


僕は渾身の一撃を振り抜いた。


「はぁっ!」


パシッ。


乾いた音。


気づくと、僕の竹刀は宙を舞っていた。


そして、喉元には紅羽さんの竹刀が止まっている。


「はい、終わり」


「はぁ、はぁ、まいりました」


僕は大きなため息をついて、そのまま砂利の上に大の字になった。


背中に当たる小石が、ひんやりとして気持ちいい。


「また負けちゃったよ」


「でも、今日はちょっと危なかったかな」」


紅羽さんはどこか楽しそうに、僕の顔を覗き込んだ。


「……うそつき。全然本気じゃなかったじゃないですか」


「ばれた? でも、桃矢君が強くなってるのは本当だよ」


「そうかな」


「最初は構え方も知らなかったのにね」


「それは忘れてください」


僕が視線をそらすと、紅羽さんは僕の頭をくしゃっと撫でた。


二人で縁側に並んで腰を下ろす。


見上げれば、どこまでも青い空。


鬼界では一度も見ることができなかった色だ。


しばらくしてから、僕は口を開いた。


「紅羽さん」


「ん?」


「僕を鬼狩り部隊に入れてください」


紅羽さんは困ったように眉を下げた。


「またその話?」


「僕は本気です」


「今の生活じゃ嫌?」


「そんなわけないじゃないですか」


むしろ逆だ。


ここでの暮らしは好きだ。


朝起きれば青い空があって、腹いっぱいご飯が食べられる。


夜になれば、安心して眠れる。


それに――紅羽さんがいる。


だけど、それでも忘れられない。


「僕は鬼を倒したいんです」


「どうして?」


一瞬、言葉に詰まった。


姉さんの最期が脳裏をよぎる。


「……鬼を全部殺したいから」


紅羽さんの表情が曇った。


「そっか」


紅羽さんは少し考えてから立ち上がった。


「じゃあ、一つ条件」


「条件?」


「私に一太刀入れてみて」


「え?」


「一本でも入れられたら、次の任務に連れていってあげる」


「本当に?」


「うん」


僕は勢いよく立ち上がった。


僕は一度も紅羽さんに勝てたことがない。


でも、一年間の修行を全部ぶつければ、一本なら取れるかもしれない。


紅羽さんは庭へ降りると、さっきまで使っていた竹刀を拾い上げた。


「ただし、今度は手加減しないから」


紅羽さんは、ただ立っている。


構えすら、さっきと変わらない。


なのに、怖い。


身体が勝手にそう感じていた。


これが最強の鬼狩り――神薙紅羽。


僕は竹刀を握りしめた。


負けるもんか。


「絶対に一太刀入れますから」


「うん。おいで」


一歩、踏み込む。


次の瞬間、紅羽さんが消えた。


「え?」


視界がぐるりと回る。


背中に衝撃が走った。


「がっ!」


何が起きた?


慌てて起き上がろうとすると、喉元に竹刀が突きつけられた。


紅羽さんが僕を見下ろしている。


「一本」


「今のなに?」


「終わりにする?」


「そんなわけないでしょう」


僕は歯を食いしばって立ち上がった。


今度は突っ込まない。


紅羽さんの動きをよく見る。


足。肩。視線。


どこかが動けば、絶対に分かる。


紅羽さんの右足がわずかに沈んだ。


来る――!


紅羽さんの姿を捉えた。


そう思った瞬間、手の中から竹刀が消えた。


カラン、と後ろで音がする。


「え?」


また、喉元に竹刀があった。


「二本目」


紅羽さんが強いのは分かっていたつもりだった。


毎朝こうして戦ってきたんだから。


でも、違った。


僕は今まで、本気の紅羽さんと戦ったことがなかったんだ。


それから何度も挑んだ。


日は高く上り、額から汗がぽたぽたと落ちる。


膝に手をついて息を整える。


紅羽さんはというと――ほとんど息すら乱れていない。


「はぁ……はぁ……もう一回お願いします」


「桃矢君、もう諦め――」


「容赦ないのね、紅羽」


聞き覚えのない女の声がした。


僕と紅羽さんは同時に振り返る。


門の前に、二人の男女が立っていた。


長い黒髪の女。


それに、大柄な男。


女は僕と目が合うと、面白そうに目を細めた。


「へぇ、その子が桃矢君?」


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