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バスの発車と共に、男の姿は瞬く間に視界の外へと追いやられる。千代は小さくため息をついた。男の何が心の琴線に触れたのか。千代には分からなかった。
バスを降り、電車に乗り換えて、運良く席に着くことが出来たというのに、千代は鞄からハードカバーの本を出して読む気にはなれなかった。
目の前のつり革にぶら下がるように立つ男性の薄いグレーのスーツを見ながら、男が着ていた鼠色のスウェットを思い出す。
口元に煙草を運ぶ筋ばった大きな手の甲。黒々としたやや硬そうな髪。色素の薄い唇。立ち上る煙を眺める切れ長の目。整っているといっていい顔立ちだろう男の顔を、手を、指を、タバコを吸う仕草を、千代は頭の中で描いていた。
(何を考えているの)
男の姿を打ち消すために軽く頭を振る。肩まで伸びた赤みがかった茶色い髪が頬をくすぐった。
行きつけの美容院で勧められるままに染めた髪は借り物のようでいつまでたっても馴染まない。周囲の人たちは似合っていると褒めてくれたが、千代は自分には合っていないと思っていた。
男の黒い髪を思い出して苦々しい気持ちで肩に乗った自分の髪を見つめた。
染めなければよかった。
細く柔らかい千代の髪は一度の染髪で毛先から艶が失われ始めている。
(あの人の髪なら一度や二度染めてもこんな事にはならなさそう)
男の事を脳裏から追いやろうとしたはしから、男の姿を思い出している事に気付いて苦笑すると、千代は膝に置いた鞄に手を滑り込ませて分厚い本を取り出すと文字を追い始めた。
昨日よりも幾分肌寒い中、千代はバスを待っていた。鞄の中には昨日と同じ頁にしおりが挟まれた本が入っている。結局昨日は1頁も本を読み進める事が出来なかった。本に目を落としても、気づけば男の姿を脳裏に描いておりちっとも内容が頭に入らなかったのだ。
どうかしていると思う。遠くから見かけただけの男の姿が頭から離れないなど。何故こんなにも男の事が気にかかるのだろう。
男が煙草を咥えなければ、男の指があとほんの少しでも短かければ、或いは男の髪が美しく整えられていれば、こうも心をしめることはなかったのかもしれない。
柔らかな春の日差しを浴びて、どこかぼうっとした寝起きのまま、美味そうに目を細めて煙を吐き出す男の仕草を思い出していた千代は、不躾な機械音と、続いて流れるアナウンスに我に返る。
目の前に緑の車体を認めて、千代は慌てて定期を取り出すと、所定の位置へと向かった。手すりを掴むとずり落ちかけた鞄を肩にかけなおして手で固定する。
前の座席に座るスーツ姿の男性が広げる朝刊のスポーツ欄には、今まさに球を投げんとしている投手の写真が大きく載せられていた。隣の男のネクタイは昨日と同じ地味な緑色で、背向かいに立つ女性のイヤホンから漏れる音楽は近頃テレビでよく見かける海外の歌手の曲だ。
何も変わらない何時もの午前7時38分の光景。
けれど千代の心は違った。
数年前から厳しくなったゴミの分別のせいで週に3日は種類の違うゴミの日がある。昨日は燃えるゴミで今日はリサイクルゴミだ。
昨日の男が今日も姿を見せるかもしれない。
煙草を挟む長い指や美味そうに目を眇める男を見られるかもしれない。
そう思うと千代の胸はせわしなく鼓動を刻む。
鞄の中に納まる本の存在を思い出すこともなく千代は窓の外を眺めていた。
ランドセルを背負った子供達が子犬のようにじゃれあいながらバスの横を駆けて行く。白い毛並みの小さな犬を連れた老婦人がすれ違いざまに子供達に「おはよう」とかける声が開いたままの扉を通り抜けて聞こえた。
老婦人の側を駆け足で通り抜けた子供たちは、その少し先で立ち止まると、ランドセルの重さなど微塵も感じさせない軽やかな身のこなしで振り返り、目いっぱい大きな声で挨拶を返す。
初めて目にする光景。初めて聞く子供たちの声。
でも千代が気づかなかっただけで、それもきっと、いつもの午前7時38分の光景なのだろう。
ただ機械的に会社と家を往復するだけの日々を送っていた千代は、いつしか出勤途中の些細な景色に目を留めることなどなくなっていた。
例え視界に入っていても、液晶パネルに映る、どこか遠い場所の出来事のように心に届かない。
あの子供達のように、ランドセルを背に負っていた頃は、道端に生えた四季の草花に目を輝かせ、小さな虫を見つけては後を追ったというのに、自分はいつの間にこんなにも無関心な人間になってしまっていたのだろう。
小さくなるランドセルを千代は憧憬の眼差しで見つめていた。
何時もはそうとは思わない短い停車時間はあっというまに過ぎる。
愛想のないくぐもったアナウンスと共に扉が閉まり車体が揺れた。
傾ぐ体を、手すりを握る腕に力を込めて堪えた千代は小さくため息をつく。
男は、現れなかった。