コウモリの決意
闇に紛れ、気配も、足音でさえも殺して、夜道を歩く。
時刻は既に、人々が眠りに就いた深夜。
あと二時間程経てば、少しずつ、僅かずつ、空が白んでいき新たな一日が始まるだろう。
静謐な世界の中、辿り着いたのは……桜花の実家、だった。
優一朗逮捕の後。一年前の殺人事件の犯人の妹と題して、SNSで桜花の顔写真と家の住所がネット上で拡散された。
当然、彼女は事件に何か関わっていたんじゃないのか、この一年兄を匿い、あるいは庇っていたんじゃないのか、妹なんだから何かしらの情報や手掛かりを持っている筈だ、等々、八割バッシングのコメントが溢れ返った。
県警が記者会見を開き、夏目優一朗の妹には一切事件の責任がないこと、事件への関与も一切なく、彼女は事件について有力な情報は何も持っていないことを正式に発表したが、妹なのにそれはないだろう、と批判の飛び火は、発表した警察にまで及ぶこととなった。
当の記者会見を行った本部長でさえも、そんな世間の声に辟易していた、けれど。
その批判は、ものの一瞬で、鎮火されることとなる。
警察が、桜花の顔写真をネットに晒し、根も葉もない批判や暴言を意図的に拡散させた張本人を、個人情報保護法違反で逮捕した、と発表したのである。
桜花が兄の事件に一切関わりないことは、警察の発表で全ての日本国民の周知の事実となった。
にも関わらず、悪戯に特定の人物の個人情報を、不特定多数が目にするSNSに晒すというのは、立派な犯罪行為となる。
誰も本名を明かさない、ネット上の責任無き発言と拡散だからと言って甘く見た結果が、逆にその拡散源の特定、逮捕となった。
その、拡散元の人物というのが――桜花の元交際相手である、松山恭介。
世間はいよいよ騒ぎになり、桜花の悪口を散々ネットに描き散らしていたユーザー達は、コメントやツイートを次々削除。果ては批判から一転、桜花を擁護する声を上げる者も現れた。
まあ大半は、半ば必死に、自分は知らない、関係ない、とそっぽを向き始め、知らぬ顔だったけれど。
全く、日本人の“善意”というやつは、何とも便利なものである。
ちなみに、松山恭介のことを突き止めたのは、他ならぬ、我が“蝙蝠”第七小隊が誇るハッカー、崎原である。
更に俺が、県警の面子を守るためにも、ここは見せしめとして、松山を逮捕するのが、世間にいい薬になるかもしれない、と、本部長に進言したのも功を奏した。
現実問題、奴のやったことは罪に問える。
本部長は最初少し渋っていたが、SNSでの警察への批判コメントも後を絶たず、広がり続ける一方だったこともあり、崎原が集めた証拠を元に、松山逮捕に踏み切った。
そのお陰で、桜花は平穏な日々を取り戻して、静かな生活を取り戻し始めていた。
だが無論、桜花はそんな俺達の影での行動を、知る由もない。
俺は――何一つ、ただの一つも、桜花に真実の事は、明かせない。
――けれど。
「、……!」
その時。
桜花の家の二階の窓が、不意に開かれた。
え、まさか泥棒?
などと突拍子もない警戒心が心をもたげたが、カーテンも開かれたそこから姿を見せたのは、家主である桜花だった。
まだ起きてた……訳は多分ないだろうから、もう起きたのか?
でも、余程早起きの年寄りですら、まだ寝ている時間だぞ。
「っ、!?」
思わず呆然と桜花を見上げていると、彼女も道路に突っ立ってる俺に気付き、目を瞠った。
「く、……――っ」
咄嗟に俺の名を呼ぼうとして、桜花が慌てて両手で口を押さえる。
俺は、そんな彼女の姿に無意識に苦笑を漏らして、指先で、玄関の方をちょいちょいと指した。
下りて来て、というそのサインを、桜花も読み取って、こくこくと三度程勢い良く頷くと、窓を閉めてカーテンも閉めた。
玄関のドアに近付くと、淡い外灯のセンサーが反応して付近を照らした。
コンマ数秒で、中の玄関口にも明かりが灯り、二重ロックの鍵が、家主によって開かれた。
「……黒咲さん……どうして」
開けたドアの先に立つ桜花は、明らかに寝起きで、困惑しまくった様子だった。
当然ながらパジャマのままで、完全なる素面、髪の毛もちょっとボサボサだ。
いつにも増して男に会うには不相応の格好に、俺は思わず小さく笑ってしまった。
答えるより先に、俺は僅かに開かれたドアの隙間から体を滑り込ませて、桜花を抱き寄せると、そのまま押し込むように中に入った。
背後で、ドアの閉まる音が響く。
「く、黒咲さん……っ?」
腕の中で桜花が慌てふためいていたけれど、全力で無視。
「あ、あの……、」
「何でこんな時間に起きてんだよ」
「く、黒咲さんこそ、こんな時間に家の前で何をなさって……、っていうか、離して下さい……っ」
「駄目。桜花が悪いんだぞ。会えば触れたくなって、別れ難くなるって分かってたから、こんな時間にここに来たのに、窓から顔なんて出すから」
「な、何ですかそれ……!」
身を捩り、何とか俺の腕から逃れようと頑張る桜花を、益々力を込めて閉じ込める。
細くもなく太くもない、体型まで標準サイズの、“普通”をお手本にしたような女だと思ってたけど、こうして抱き締めてみると、意外と細くて頼りない。
そんな奴が、普段から鍛えている男の腕から容易く逃れられると思ったら大間違いだ。
桜花は暫く無駄な抵抗を続けていたが、ややあって、それがいきなりぴたっと止まった。
「……別れ?」
漸くその言葉に気付いて、またまた戸惑っている。
いや、気付くの遅いな?
思わず声を上げて笑いそうになるのをすんでで押し留めると、俺はやっと彼女の体を離してやった。
無論、腕は回したままだけど。
会えば触れたくなって、別れ難くなる。
離れ難くなる、ではなく、別れ難くなる。
そのちょっとした言葉の違和感を感じ取り、桜花は何処か不安げな目で俺を見上げていた。
「出張で、暫く地元を離れることになった。
その間は、電話もメールもLINEも、連絡は一切取れなくなる」
「え……?」
「急に決まってな。早朝には出発しないといけない」
そう告げると、桜花は今度こそ不安そうな顔になり、「そう、ですか」と呟いて俯いた。
「それは……長期、ですか?」
僅か後、控え目に桜花が問う。
「長くて二ヶ月。進捗状況によっては、早く済むかもしれないけど」
「そうですか……
……気を付けて、行って来て下さいね。風邪とか引かないように、御自愛を」
「うん。ありがとう」
ここで、何処に行くのかとか何をしに行くのかとか、詳しく突っ込んで訊こうとしないのは、桜花なりに弁えてのことだろう。
こんな、“友達”としては有り得ない距離で、度を過ぎた行動をしてはいても、俺達は“恋人”ではないし。
俯き加減のまま、社交辞令のような見送りの挨拶を口にした途端、桜花は困ったように黙り込んでしまった。
素直に「淋しい」と口にしないのは、彼女なりの大人としての矜持か。
本当に、自分の洞察力が恨めしい。
いっそ無理にでもその一言を引き出してやりたい衝動に駆られた、けれど。
それより先に、桜花が顔を上げた。
「あの……今回の兄と両親の件、本当に、ありがとうございました。
御礼を言うのが遅れてすみません」
更に唐突に思ってもみなかった礼の言葉を言われて、流石に面食らった。
「、いや。いいんだよ。半分は俺の都合でやったことだし」
「私、黒咲さんにいつも助けられてばかりで、本当に、どうお返しすればいいのか……。
せめて、依頼料はちゃんとお支払いしますね。全額一括で、というのは無理かもしれませんが、何年掛かっても、必ず」
お金を払う、と言われて一瞬、心にさざ波が立った。
そういえば俺、探偵として優一朗を探し出したことになってるんだった。
桜花の申し出は、探偵と依頼人という立場に於いては、至極当然の話なのかもしれないけれど。
俺は、「そんなもの要らない」と、やや硬い声で答えた。
「え、どうして……駄目ですよ、ちゃんとお支払いします」
「要らねえよ。さっきも言ったが、あれは半分は俺の都合でやったこと。自分の過去を清算したくて、何より、君を助けたくてやったことだ。
その君から依頼料なんて貰ったんじゃ、罰が当たっちまう」
「でも……」
尚も食い下がる桜花に小さく苦笑して、俺は、離した彼女の体を、再びぐい、と引き寄せて、閉じ込める。
「黒咲さん……っ?」
またまた桜花は俺の腕の中で慌てるけれど。
「お金は要らない。代わりに、約束して。
俺の帰りを待ってる、って」
耳元で、わざと熱の籠った声で懇願すれば、桜花はぴたりと身動きを止めた。
「二ヶ月で必ず戻る。
そしたら、君に真っ先に会いに行くから。
だからそれまで、好きな人も恋人も作らずに、俺を待ってて。
で、帰って来たら、俺達が出逢った、あの海に一緒に行こう」
どうしても御礼がしたいっていうなら、その約束がいい。
そう言うと、桜花の体に、一気に熱が上がった。
無意識に言葉の意味を深読みしてしまう大人特有の悪い癖は、やはり桜花にも備わっているようで。
「あ、あの、それは、一体、どういう……」
噛みそうな勢いで呟くから。
「どういうって、そういう意味だよ?」
と意地悪く言ってやった。
「え、ええっ……?」と最早パニック寸前の桜花に、俺は笑いを噛み殺す。
本気で分からないのか、分かってしまってどうしていいか分からず動転しているのか。
どっちでもいいけど今は。
これくらいで勘弁してやろう。
自覚せざるを得ない程に意地の悪い笑みを浮かべて、俺は桜花の体を離す。
名残惜しいけど、そろそろ、行かなきゃ。
「じゃあ、約束だぞ? 破ったら針千本だからな」
「あ、あの!」と桜花が俺を引き留める声が背中に響いたが、俺はそれに応えることなく、後ろ手でドアを閉めた。
今は、彼女の手を離さないといけない。
この先、掴みたいと思った時に、心置きなく掴むために。
もう、離さないでいるために。
――開けたドアの向こうの空は、ほんの微かに白んでいて、夜明けがすぐそこまで来ていることを、教えていた。
急に冷えて、逃げていく熱を逃さないよう、拳を握って、上着のポケットに両手を突っ込む。
会えると思ってなかったし、会うつもりじゃなかったけれど。
――これで、心置きなく俺は、最後の任務に赴ける。
それまで、彼女に一番伝えたい、伝えなきゃいけない一言は、大事に取っておこう。
第三話 終




