贖い
これが、俺が刑務所に入ることになった経緯、である。
俺はその後、轢き逃げ犯として警察に連行され、そのまま送検されて刑務所行きとなった。
警察というのは存外、犯人が罪を認めて自供している場合に於いては色々とおざなりというか事務的というか、悪く言えば適当である。
街灯の少ない夜道ということと、自分も一時不停止で飛び出したせいもあって、被害者は運転席に座っていたのが俺か優一朗かなんて覚えていなかったし、どんな車かも分かってなかったし、ナンバーも見ちゃいなかった。
だけど意識が朦朧とする中、何とか判別出来た車の形状と色、それだけでも俺の車と一致して、警察の調べで確かに車と自転車が衝突した形跡が残っていて、更に俺は、間違いない、と罪を認めた。
ハンドルの指紋も取らなかったし、事故前の俺達の行動を調べることもなかった。
洗いざらい素直に自供してる事故、詳しく調べて裏を取る必要はない、あるいは面倒だと思ったのか。
まあとにかく、俺は早々に刑務所に送られて。
受刑囚として、冷たく濁った牢獄の中で、日々を過ごすこととなった。
その間、優一朗が面会に来ることも、俺が出した手紙に返事を寄越すことも、なかった。
妹のため、少しでも危うい行動は避けたいのだろう、と最初のうちは気にしないようにしていた。
……だが、そんなのは都合の良い勘違いだった。
漸く彼が、俺の書いた手紙に返事をくれたのは、刑務所に入って四ヶ月程経った頃。
『もう手紙なんて送って来るな。ボロが出ると困る』
そんな、目を疑うような、文面だった。
それも、その、たった一言。
明らかに迷惑そうな、厄介な相手を突き放そうとするような、そんな思いがありありと滲み出ていた。
――その手紙を受け取った日を境に、俺は、模範囚から一転、刑務所一番の問題児に成り下がった。
俺は、一度ならず二度までも夏目優一朗に裏切られ、虚仮にされた。
そう実感した途端に、全てが馬鹿馬鹿しくなって、全てがどうでも良くなった。
柄の悪い受刑者に絡まれては喧嘩を売り、時には買い、刑務所内で度々問題を起こして、挙句の果てには、刑期の延長まで言い渡された。
もう、何もかもどうでも良かった。
このまま一生刑務所に居ることになっても、刑務所内で殺されても、構わないと思った。
自業自得。そう、夏目優一朗の思惑に、下手な兄心に絆されて惑わされた、俺自身の馬鹿さ加減に、本気で死ぬ程腹が立って仕方がなかった。
そんな時……俺は、“蝙蝠”にスカウトされた。
犯罪を犯して逃げ回っている奴らを、犯罪者の視点で探し出し、逮捕へと誘導する。
最初は、それさえも「冗談じゃない」と思った。
そもそも俺は犯罪者じゃない。犯罪者に仕立て上げられて、それを享受した、ただの、糞ったれの屑だ。
けれど、俺を“蝙蝠”にスカウトした県警の幹部……現在の県警本部長は、俺に言った。
『屑にしか出来ないことってのも、世の中にはあるもんさ』
妙に優しい声で、何処か労わるような目で。
まるで、俺の抱える怒りとやり切れなさに、寄り添おうとしているみたいに。
『お前は陽の当たる場所には居られなくなった。
けど、影がなきゃ陽の光は当たらない。影がなきゃ、光は輝けない。
どうせ、自分でもどうでも良いと思う程度の命なら、屑のまま、屑を転がしてみないか?』
何だそりゃ、と吐き捨てたのを、覚えている。
でも。
俺以上の屑が、陽の光が当たる場所でのうのうとしているのに。
感謝もせず、詫びもしない男のために、刑務所で一生を終えるというのも、割に合わない。
そういう似たような奴らを、この手で片っ端から捕まえて、牢獄にぶち込むことが出来るのなら。
それはそれで、奴への仕返しになるような、気がした。
考えた末、俺は、“蝙蝠”への入隊を決めた。
それが、事故のあった日から、二年と少し後の事。今から五年程前の事だ。
“蝙蝠”に入隊した直後、俺は、早期出所を果たしたことを報告してやろうと、優一朗に連絡を入れてみた。
が、その時既に優一朗は電話番号もメルアドも変えていて、出所直前に送った手紙も、受け取り拒否で戻って来た。
実家まで押し掛けてやろうかとも思ったが、刑務所から出た俺は、もう、一生あいつとは関わらないことを心に決めて、さっさと忘れることにした。
押し付けられた罪を自分の罪として抱えたまま、罪人としての自分のまま“蝙蝠”に入隊することに、多少の抵抗を覚えなかった訳ではなかったけれど。
それでも俺は、心を入れ替えて、“蝙蝠”を生きる場所と決めて、我武者羅にやって来た。
そうして……俺は、“蝙蝠”第七小隊長と、なった。
□□□
話し終えると、俺は大きく息を吐き出した。
――人は、人生に於いて少なくとも一度は、破綻を経験しなければならない生き物だ。
俺の人生の破綻は、正に、夏目優一朗の罪を肩代わりすることを決めた、あの瞬間だった。
そして……。
「俺は……君に、謝らないといけない」
本部長に事件の資料を見せられた瞬間、俺は……気付いてしまった。
「君の人生を狂わせて、君をそこまで傷付けて、そこまで苦しめたそもそもの原因は――俺だから」
俺の過ちは、俺の破綻は、七年の時を経て、また、大きな過ちを生み、罪を生んだのだということを。
「俺が、あの時先輩にきちんと罪を償わせていれば、あの人はまたこんな過ちを犯さなかったかもしれない。
けど俺は……間違った優しさで、あの人を付け上がらせてしまった。
何でも自分の思い通りに人も世界も回るんだって思い込みを、肯定させてしまった」
そして、桜花のためと言いながら、桜花を、不幸のどん底に突き落としたのは、俺だということを。
「君のお義姉さん……夏目真緒さんが死んだのも、俺が……」
「もう、やめて下さい……」
不意に、桜花が俺の腕の中で、苦し気に声を上げた。
「そんなの……黒咲さんのせいじゃ、ないじゃないですか。
むしろ……私です。私が……黒咲さんの人生を、狂わせた要因です……!」
「、違う、それは……っ」
「黒咲さんは、何も悪くないです。悪いのは……貴方を利用して裏切った兄と……今まで、何も知らず何も知ろうとしなかった、私です……!」
「……、桜花」
「ごめんなさい……黒咲さん……ごめんなさい……っ」
何も知らず、何も知ろうとしなかった。
そう自分を責める桜花を、俺は、ただ、抱き締め続けることしか、出来なかった。
何も知らないなんて、何も知ろうとしないなんて、そんなの、当たり前の事だ。
あの轢き逃げの一件は、世間にとって、ニュースや新聞で公表されたことだけが全ての事実なのだから。
桜花にとって、兄も、自分も、無関係な何処かの事故でしか、なかったことなのだから。
俺はそのことについて、微塵も恨みに思うことは、ない。
「――桜花、一つ、訊いて良い?」
「、はい……」
「お前は……お兄さんに、どうして欲しい?」
「え……?」
「もしくは……お兄さんに、どうなって欲しい?」
少しだけ体を離して、桜花の瞳を覗き込みながら、静かに、けれどしっかりと、問い掛ける。
どうして欲しいか、どうなって欲しいか。
兄に望むことは何か。兄に、どんな結末を迎えて欲しいか。
目を逸らさずに、正直に、その胸の内にまだ抱えている思いを、俺に打ち明けて欲しい。
そんな願いをありったけ込めて、桜花を見つめる。
桜花は、少しの間身を強張らせて俺をじっと見つめ返すだけだったけれど。
やがて、意を決したようにしっかりと、答えた。
「――死んで欲しい」
強烈な……一言だった。
だけど俺は、自分でも不思議だが、その言葉に動揺したりは、しなかった。
「……でも、あんな奴殺して、犯罪者になるなんて馬鹿げたことするくらいなら、私が死にたい」
「……、」
「だから」
桜花が、俺のスーツの胸元を、少しだけ躊躇いがちに、掴む。
「警察にさっさと捕まって、冷たい牢獄の中に入れられて、一生、出て来れなくなって欲しい。二度と……太陽の下に、出て来ないで欲しい」
それは……即ち“死”と同格であることを、俺も、桜花も、知っている。
殺せないなら、死なないなら、それと同じ状況の中で、一生苦しめ、と。
――俺は、一度目を伏せて、彼女の手を、そっと取った。
「――分かった。夏目優一朗は、俺が、何としても探し出す。
探し出して、首に縄付けてでも警察に連れて行く」
今度こそ、間違わない。
今度こそ、逃がさない。
その決意と共に、宣言する。
「……出来る、んですか……?」
「俺なら出来る。何故なら、俺は……」
俺は。
「……俺は、“探偵”だから」
ありとあらゆる違法捜査を、何でもありの型破りの捜査を許された、“蝙蝠”だから。
どんなことをしても、何があっても、何処に逃げていようとも、隠れていようとも。
「人探しなんて、お手のもんだよ」
“蝙蝠”に、探し出せない奴なんて、いないから。
本当の事は何一つ明かさないまま、俺は、それでも、誠意を以って、告げる。
「だから、俺に任せて。必ず、夏目先輩は、俺が、見付け出してみせるから。
これ以上君に……辛い思いは、絶対に、させないから」
――何故俺が、浜辺で出逢った瞬間から、桜花のことがあんなに気になっていたのか。
それは……“運命”だったからだ。
自らの間違いだらけの優しさの末に不幸にしてしまった相手を、今度は救ってみせろと、神様に告げられ続けていたからだ。
とち狂った、都合の良い解釈かもしれない。
けれど。
あの過ちを、本当の意味で贖うことが許されるなら。
きっと、今が、その時だ。
俺の決意を受け止めて、桜花は一瞬、痛みに耐えるような顔をして。
「――よろしく、お願いします」
そのまま、深く頭を下げて、俺にそう言った。
すっかり遅くなってしまったので、その日はそのまま桜花を車で送って行った。
道すがら、彼女は、ぽつりぽつりと、これまでの人生で何があったのか、教えてくれた。
子供の頃から、桜花は、両親に兄と比べられ、従姉妹達と比べられ、出来の悪い聞き分けのない我が儘な子だと、言われ続けながら育ったのだという。
とはいえ、兄の優一朗も、そこまで成績優秀な訳ではなかった。
これは俺も知ってたが、中学の頃はいじめに遭って不登校気味だったし、高校も中の中くらいのレベルの所だったし、大学には行かずに専門学校に進学した。
介護士の資格を取り、普通に就職して普通に働く、総じて、「普通」の少年だったのだ。
桜花はというと、やはり中学でいじめに遭ったようだが、不登校になることはなく、勉強は苦手だったが素行の良い優等生で、進学した高校は兄よりレベルが低かったものの、成績は良い方だった。
大学に進学したのは良いが、今まで優等生だった反動か、よく学校をサボり、そこで人生最大の汚点を残し、最終的には退学、学歴的には高卒となった。
大学時代に何があったのか、は、具体的には話そうとしなかったが、多分、優一朗の言ってた「色々あった」というのは、この頃のことなんだろう、と何となく思った。
その後、桜花は心を入れ替えスクールに通って勉強し、資格を取って就活に励んだ。
優一朗が轢き逃げを起こしてしまったのは、恐らくこの頃。
桜花は、兄が轢き逃げを起こしたことも、その罪を人に押し付けてのうのうとしてることも知らぬまま、やっとの思いで、今の会社に就職したのだという。
普通に聞いて、兄が妹よりずば抜けて凄い部分などなかった。
けれど桜花達の両親は、常に、兄のやることを肯定し続け、時には褒め称えていたのだという。
対して桜花のやることには、「それくらい当然だ」「まだ喜ぶのは早い」「そういう仕事なんだから仕方ないでしょ」と、いちいち突き放したり馬鹿にされたりした。
兄がどれ程非常識で世間知らずな言動を繰り返しても、両親は味方をし、桜花がそれに異を唱えれば、「お前の方がおかしい」と言われ。
桜花は、最早、常識も良識も、よく分からなくなった。
そんな中、兄の結婚が決まった。
旧姓、桂木真緒。
兄の転職先の介護施設で知り合った女性で、何と女性が優一朗に一目惚れしたらしい。
兄は家を出て、実家から車で片道一時間はかかるK市で二人で暮らし始めた。
桜花は優一朗を赤の他人になったのだと思うことにして、もう彼のことは気にせず生きようとしていた。
だが優一朗は、結婚後も仕事が休みの度に実家に戻っては、母に食事や洗濯、風呂の世話をさせていた。
優一朗が休みの日は、真緒の仕事の日。
自分にご飯を作ってくれる人が、お風呂を焚いてくれる人が、洗濯をしてくれる人が不在だから、わざわざ、実家に帰って母にやらせていたのだ。
優一朗は結婚式の時、両親に確かに感謝の気持ちを、迷惑や心配を掛けて来たこれまでのお詫びを、出席者達の前で口にしていたのに。まるで、家政婦代わりに。
流石にそれは非常識だろう、と桜花は反発した。
それならいっそ同居すべきだ、とも言った。
だが、両親は、やはり、桜花を責めた。
家族なんだから当たり前、非常識でも何でもない、お前の方がおかしい、と。
桜花は絶望し、失望した。
兄の行いは何でも許して、妹の行いは何でも否定し批難する。
それなら何故、両親は自分を産んだんだろう。
そんなに優一朗のことが愛しくて可愛くて仕方がないなら、私なんて産まなくて良かったのに。
そうしたら、存分に優一朗だけを愛せるのに。
……そんなことを思いながら、日々を過ごした。
――その、絶望の中。
一年前、あの事件が、起こった。




