踏み外した道
頼む、と、男は言った。
「頼む、大和、助けてくれ……!」
土下座をして、怯えた声で、そいつは俺に、そう、言った。
――夏目優一朗。
彼は、俺の中学と高校の先輩だった。
彼の同級生の友達数人に混じり、一緒に家に遊びに行って、テレビゲームをしたり泊まったり、それなりに仲良くやっていた。
ただ俺は、正直、夏目先輩のことをあまり好ましくは思っていなかった。
一見、人当たりの良いそれなりに社交的な性格の男に見えるけれど、良くか悪くか、田舎者という気質が骨の髄まで染み込んでいるような男だった。
自分の言動は全て正しく、自分がこうだと言えばこうなるのだと思い込み、異を唱える者あれば、徹底的に非難し、酷い時は蔑み罵倒する。
自分とは違う意見を、人の言葉そのものを聞こうとしない、愚鈍そのものといった男だったのだ。
そのくせ、都合が悪くなると、「そういうことはお前が得意だろう」とか「お前がずっとやってたんじゃん」とか言って逃げようとする、姑息な奴。
それに気付いていたから、俺はこの先輩がどうにも苦手だった。
とはいえ、世の中には色んな人間がいるもの。
嫌な所は確かにあっても、良い所も確かにあったのも事実。
夏目優一朗という男はそういう人間なんだと思って、上手く、付き合っているつもりだった。
高校二年頃からだんだんと疎遠になり、卒業し、それぞれの道を歩む頃には、連絡もほとんど取り合わなくなっていた。
そんな彼から随分久方ぶりに、会わないかと連絡が来たのは、七年前の真夏の事だった。
特に断る理由もなかったから、俺はその誘いに応じて、数年ぶりに夏目優一朗に会いに行った。
優一朗は酒が飲めなかったので、定食屋で揃って大盛りのとんかつ定食を平らげた後は、ファーストフード店に入って長時間話し込むという、健全な学生みたいな時間を過ごした。
苦手な相手だったけれど、二十もいくらか越えた頃ということもあって優一朗も些か落ち着き成長したのか、思いの外その時間は苦にならず、どちらかというと楽しさも感じる良い一時となった。
流石にそろそろ帰るか、となったのは深夜零時過ぎ。
優一朗が車で送ってくれると言うので、俺はその厚意に甘えることにした。
とんでもない偶然だが、優一朗の車は、俺の乗る車と全く同じ車種だった。
全国的に割と人気の高い車種ではあるから、そういうこともないこともないんだろうが、すっかり上機嫌の俺達は、そんな些細な偶然にもいちいち盛り上がって、車内でも会話が途切れることがなかった。
繁華街から遠ざかるにつれて、人通りが少しずつ疎らになっていく道中。優一朗は既に介護職員として働いていて、夜中に出勤したり帰宅したりする生活を送っていて、夜道の運転も慣れたものだった。
だが……車の運転で一番怖い、のは。
その“慣れ”と、“慢心”だ。
「……先輩、ちょっとスピード落とした方が良いですよ。この辺、夜でも普通に歩行者とかチャリとか通ってますから」
「大丈夫だって。こちとらちゃんとライト上向きにしてんだからさ。あっちだって気を付けるだろ」
「とは言っても、チャリなんて見境なしじゃないっすか。曲がり角とか平気で減速しねえで、があっと曲がって来るし。向こうは夜でも昼でもお構いなし、車が気を付けるもんだって思ってますから」
実際俺も、夜に何度か自宅付近の路地でヒヤッとしたことがあったから、何となく優一朗を気遣うつもりで言った。
だがこの時の俺は失念していた。
優一朗が、人の言葉を聞こうとしない、自分だけが一番正しく一番偉大だと思う人種であることを。
「そうだとしても、お前にとやかく言われる程スピード出してないから」
むすっとした顔で、俺の忠告に彼がそう反論し。
楽しかった気分が一瞬で萎えるのを感じた――僅か、二分後。
悲劇は、起きた。
危ない、と叫んだのと。
目の前で人が自転車ごと半ば吹き飛ばされたのは、ほぼ、同時、だった。
耳障りなブレーキ音と共に、優一朗が車を急停車させる。
俺達は、何が起こったのか咄嗟に理解出来なかった。
けれど脳は勝手に、つい今し方起こった事を、リプレイし始める。
「せ、先輩……」
一瞬の、出来事だった。
言霊、という二文字がちらついてぞっとした。
俺がつい先頃優一朗に忠告した事が、現実に起こってしまったのだ。
一時停止の指示がある、曲がり角で。
暗めの服を着て、自転車を運転していた人影が、減速することも、一時停止をすることもなく飛び出して来たのだ。
俺の言葉を無視して、裏道を公道と変わらないくらいのスピードで走っていたために、気付いた時にはもう、轢いてしまっていた。
全身から血の気が引いた。
当時の俺は法律とかよく分かっていなかったし、そうでなくとも、どんな状況であれ車が自転車を轢いてしまった場合は、自動車側の過失になることは周知の事実だった。
更に、サイドミラーから見ると、轢いてしまった相手は倒れ込んだまま、びくともしない。
やばい、と漸く思った瞬間、俺はシートベルトを外して車から降りて救護しようとした……けれど。
「っ、え!?」
その瞬間、何と、優一朗が車を急発進させた。
未だ倒れたままの被害者を、置き去りにして。まるで一刻も早く逃げるように。
……いや、ように、ではなく、それは明らかな逃亡だった。
「ちょ、先輩!? 何してるんですか!? あの人助けなきゃ、下手すりゃ死んじゃいますよ!!」
「五月蠅い! 俺は悪くない! あの馬鹿が、スピード落とさず飛び出して来たんだ! 自業自得だろうが!!」
「何言ってんですか!! そうだとしても、これじゃ轢き逃げですよ!?」
俺の抗議も聞かず、優一朗は更にスピードを上げて、それこそ一時停止も無視して走る。
そうして、気が付けば俺の住むアパートまで、辿り着いていた。
アパートに着くや否や、優一朗は俺に怒鳴り散らして、無理矢理俺の部屋に上がり込んだ。
水を寄越せというので、とりあえず与える。
息を乱し、床にどかりと座る優一朗を、俺は、少しずつ頭が冷静になってく中、信じられないものを見るような目で見下ろした。
「先輩、やっぱり、もう一度あそこに戻りましょう。まだそんなに時間が経ってないから、もしかするとまだ間に合うかもしれません」
「………」
「それが駄目ならせめて……119番しましょう。そしてもう少し落ち着いたら、警察に自首しましょう。
俺も一緒に行きますから。助手席に座ってた俺にも責任がありますし」
「………」
俺の提言にも、優一朗は俯いたまま何も答えなかった。
静かに、なるべく優一朗を傷付けないように諭すように言う一方、俺の心臓は痛いくらいに鼓動を刻んでいた。
このまま逃げ切れるものなら、どんなにいいだろうと。
正直、思わなかった、とは、言えない。
恐怖と不安が、俺に卑怯な考えを過ぎらせて。でも俺は、それを懸命に追い払った。
「……今から通報しますから。電話切ったら行きましょう」
何も言わない優一朗は、きっと、仕出かしてしまった事の重大さに半ば絶望して、呆然としてしまってるんだろうと、思った。
俺は、震える手でスマホを取り出して、119にかけるべく画面を操作する。
だが。
――ぱん!
いきなり。
スマホを、勢い良く、叩き落された。
無機質な、嫌な音を立てて、スマホが部屋の床に落ちる。
叩き落したのは優一朗だった。
何をするんですか、と、思わず怒鳴り掛けた声は……次の瞬間、喉元で凍り付く。
「――頼む! 大和!」
言いながら、優一朗が、床に額をぶつけんばかりの勢いで、土下座したのだ。
そして。
「頼む……! 俺の代わりに、警察に捕まってくれ!!」
――何を言われたのか、理解なんて、出来なかった。
「……は?」
堪らず唇から漏れたのは、そんな、間の抜けた声。
けれど優一朗は、床に顔を伏せたまま、隣近所にも聞こえるくらいの大声で、俺に懇願する。
「車を運転してたのも、あの人を轢き逃げしたのもお前で、助手席に座ってたのは俺ってことにしてくれ……!」
何を言ってるのか理解した次の瞬間には、怒りを通り越して呆れ果てた。
大人になっていくらか成長したかと思ったら、大間違いだった。
事故を起こしてしまったのは自転車側の責任だと怒鳴り散らした挙句、漸く罪を認めたかと思えばそれを俺に肩代わりしろと言う。
しかも本人は大真面目に、かなり必死に。
俺はこの一日、こいつの何を見ていたんだろう。
呆れ果てて、でも怒りも沸いた。
彼に対しても、自分に対しても。
「冗談じゃないですよ。何馬鹿な事言ってんですか。いい歳した男がみっともない」
「頼む! 今問題を起こす訳にはいかないんだ!」
「知りませんよそんなこと。それこそ自業自得でしょ。俺は通報しますよ。もう邪魔しないで下さいね」
狼狽えていたことが嘘みたいに、俺は自分でもびっくりするくらい、とことん冷めた目で優一朗を見据え、優一朗の必死の懇願を一蹴した。
だが、優一朗は更にみっともないことに俺の腰に抱き着くように縋り付き、馬鹿の一つ覚えのように、頼む、と叫び続けた。
流石にうんざりして、いい加減にしろ! と怒鳴り返し、優一朗の腕を引っぺがし、スマホを拾った。
「――妹がいるんだ!!」
再び画面を操作し始めた時、優一朗が唐突にそんなことを言った。
「お前も憶えてるだろ!? 俺の、五つ下の妹! 名前は桜花!」
「……憶えてますよ。でも、それが何だって言うんです?」
「あいつもこれまで色々あって……大学を辞めてアルバイトをしながら、必死に勉強して資格を取って、今就活の真っ最中なんだ……!
兄貴が轢き逃げで捕まったなんてことになったら、あいつの人生まで潰れてしまう……!」
「……それもあんたの責任でしょう。俺には関係ない」
「そうかもしれないけど、でも……! あいつ、本当に、今まで色々あったんだ……今度こそ、真っ当な人生へのスタートを切らせてやりたいんだ……!
それに両親も、妹のことで随分大変な目に遭って来た……やっとこれからだって時に、またこんな不祥事を起こしたって分かったら、今度こそ父さんも母さんも参っちまう……!」
昔から優一朗には、こういう妙なところがあった。
唯我独尊、自分の言動はいつだって一片も間違いがなく、一番正しく、たとえ親でも異を唱えたら批難し続け。
だけど、親を気遣い、祖父母を気遣い、妹を大事にする一面を、垣間見せることがあり、周りに「根は良い人」という印象を巧みに植え付けていた。
そういう素振りを見せれば、より一層周りが自分を「素晴らしい」と評価してくれることを見越してのことなのか、本当に、ささやかで確かな優しさを兼ね備えていたのか、この時の俺には分からなかったけれど。
「……だからって、自分の罪を人に擦り付けようなんて、卑怯じゃないですか」
「分かってる……分かってるけど、これ以上、妹にも両親にも傷付いて欲しくないんだ……! 妹は特に……本当に、深くて重い傷を、背負っているから……。
ずっと逢ってないだろうから知らないと思うけど、あいつ……お前らと遊んでた頃より随分変わったんだ……多分、会ったら目を疑うと思う」
あくまで妹のため、と必死に言い募る優一朗に、俺は、もう、ため息しか出て来なかった。
優一朗の妹の過去だとか、近況だとか、俺にはどうでもいい話だった。
大体、彼の妹になんてもう何年も会っていないんだし、その子がどんな傷を抱えていようが昔とどう変わったかとか、全く興味ない事だった。
もっと言えば、成人した男の犯した罪に、成人した妹は全く関係ない。
つまらない都合ばかりを押し付け、苦し紛れに妹を引き合いに出して同情を買おうとする浅はかさが、本当に信じられなかった。
反吐が出そうだった。
「頼む、大和。助けてくれ……! 俺をじゃない。俺の、妹を!!」
そんなの知るか。
――と、言うつもりだった。
実際、その言葉は喉元まで出掛かって、口も開いた。
……なのに、その言葉は。
喉の奥にへばりついてしまったかのように、一向に、口から出て来てくれなかった。
優一朗の妹の事なんて知らない。
でも……――でも。
優一朗が犯罪者になることで失われるものは。
俺が犯罪者になることで失われるものより多く、たぶん、重い。
それもまた、事実なんだろう、と。
唐突に、そんなことを、思った。
何故か……本当に唐突に、そんな、偽善的なことを思い、間違った思い遣りが、胸の内を掠めてしまった。
俺には、親兄弟はなくて。
友達も、そこまで親しい仲の相手もいない、俺なんかより。
――拳を握る。
人は生きている間に何度も、何度も間違い、時に大きな過ちを犯す。
俺が罪を肩代わりすることで、こんな奴のために罪のない彼の妹が、悪戯に傷付かずに済む、のなら。
俺にだって、完全に責任がない、訳では、ないから。
そして。
誰もが寝静まった真夜中に。
俺の住むアパートのドアを半ば乱暴に叩く音が、忙しなく響く。
夏目優一朗が通報し、駆け付けた警察官達。
先程、この先の路地で轢き逃げをしたのはお前か、という警官の敵意に満ちた詰問に対し、俺は。
力なく、頷いた。




