巡る因果
「痛ってぇ……」
「大丈夫ですか……?」
「くぅ~……ああ……まあ、何とかな」
半ば無理矢理口許に笑みを浮かべて、そう強がってみたが、実際、痛みはまだ一向に引かない。
重量のあまりない桶だったとはいえ、勢い良く感情のままに力一杯振り下ろされたせいか、俺は額を思い切り怪我してしまった。
あの後、例の婦人は更に二言三言暴言を吐き捨てて、肩を怒らせ帰って行った。
俺と桜花は、一先ず駐車場に戻り、俺の車に乗り込んで、とりあえず彼女に傷の手当てをしてもらっている。
俺達は、浜辺で言葉を交わしてから、会えば他愛のない会話をする程度の仲にまで進展していた。
どちらからとなく互いの連絡先を交換し合い、時々LINEで話をしたりすることもある。
勿論、“蝙蝠”の事や俺の素性は絶対明かさずに。
彼女も、自分の事を自ら詳しく話すのは苦手のようで、俺が訊いた事以外は何も明かそうとはしなかった。
“蝙蝠”の隊員には、一人一人に監視が付いている。
“元受刑者”の集まり、だが、刑期を終えているので“容疑者”ではないため、普通に暮らす人達と友達になったり、結婚することも勿論問題ない。
けれど、一般人と違い、結婚に際し煩わしい手続きや届け出が幾重も必要となり、結婚後も“蝙蝠”のことは絶対秘密にせねばならない。
自然と隊員達は、そんな面倒ならばと、逮捕される以前に仲の良かった友達とは疎遠になり、内輪だけの交友関係のみで過ごすようになってしまうことが多い。
刑期は終えても“元罪人”としての自分を武器に生きていることの、後ろめたさ、みたいなものも多少はあるかもしれない。
だから、“蝙蝠”の隊員達が一般人と接する時は、自然、捜査時に必要な場合のみになってしまうのだ。
俺自身、捜査の見返りも何も求める必要がない、接することで何かを探り当てる必要もない、そういう、気楽な付き合いは本当に久し振りで。
元々一方的に気になっていた相手だったから、友達になれたことが単純に嬉しいと感じていた。
その桜花が、罵声を浴びているのを見たら、考えるより先に体の方が動いていた。
後悔はしてないし、間違ってもいなかったと思う。
が……やっぱり、ちょっと、痛い……。
「すみません……私のせいで、怪我まで……」
「桜花のせいじゃないって。これくらい、すぐ良くなるさ」
「……はい……」
「それにしても、あのおばちゃん、えらい剣幕だったな。しかも、桜花のことを人殺しだとか何だとか……」
「……、」
「……まあ、あまり気を落とすなよ」
俺の言葉に申し訳なさそうな、悲しそうな顔をして桜花が俯いてしまったので、俺はぽん、と彼女の頭の上に手を置いて笑った。
とは言っても、あの女性の剣幕は尋常じゃなかった。
多分……あの人の言った事は本当の事、だろう。
桜花の兄さんが、あの女性の娘さんを――殺した。あるいは、死の原因を、作った。
そして桜花自身言っていたように、彼女は兄の行方を、知らない。
普通に考えて、家族が家族の行方を知らないなんて、確かに信じられないことだけれど……。
「黒咲さん……?」
いつまでも頭から手を退けない俺に、桜花が戸惑ったように声を上げる。
――気になることも腑に落ちないことも沢山ある。
が、いくら俺が“蝙蝠”の隊長でも、どんな事件かも分からない、そもそも事件かどうかもよく分からないものを、許可なく無断で調べる訳にもいかない。
すぐにこういう不穏な話を勝手に深読みしてしまうのは、職業病だな。
俺は、誤魔化すように小さく笑って、桜花の頭を軽く撫でてから、漸く手を退かした。
「そうだ。この後時間あるか?」
「え? あ、はい。特に予定はないですけど」
「じゃあ、気晴らしに一緒に晩飯でも行かないか? せっかく、浜辺以外で会えたことだし」
相変わらずナンパな誘いをしてしまったが、桜花はほんの僅か考えて。
「いいですね。行きたいです」
と、今日初めての笑みを浮かべて、応えてくれた。
□□□
「――ああ、来たか」
緊張感が常に取り巻くドアノブを開けて、一つお辞儀をしながら入室すると、彼……県警本部長は、いつにも増して神妙な面持ちで、小さく呟いた。
突然の呼び出しだった。
いつものように第七小隊の事務所に出社して、いつものように仕事をして、いつものように昼飯を食って。
崎原に初めての任務を言い渡した、僅か後。
俺のスマホに、県警本部長からメールが届いた。
『大至急、私の所へ来い』
元々、メールも電話も簡潔に済ます人だから、その文面もいつも通りの簡潔さで、特に違和感などないように最初は感じた、けれど。
どうにも、少し、胸騒ぎがした。
こういう時の、冷静さをじわじわと蝕むような胸騒ぎは、即ち嫌な予感と同義だ。
半ば不安さえ覚えつつ、俺は、何故かデスクではなく、窓の外をぼんやり眺めている本部長の側に、慎重に歩み寄る。
来たか、と言ったくせに、俺が側に寄っても窓の外から一向に視線を外さない本部長に、俺は「お呼びですか?」と問うてみる。
すると。
「……単刀直入に訊こう」
疲れたような、何処か言葉を選ぶような声音で、そう、彼は切り出して。
「夏目優一朗という男を、知っているな?」
紡がれた名前に、俺は、体がぴくり、と反応するのを抑えられなかった。
夏目優一朗。
知っているも、何も。
俺にとってその名前は、忘れようったって一生忘れられない、名前だ。
「ええ、知ってます、けど」
内心の動揺を悟られまいと懸命に気を張り、俺は努めていつもと変わらない調子で答えてみせた。
すると、本部長は徐にくるりと身を翻して、自身のデスクの側に寄り、引き出しから紙の束を取り出して、俺に差し出した。
ゼムクリップで留められたそれは、俺も日常的に目にしている捜査資料の一部、だった。
無言で差し出されたそれを訝しみながらも受け取る。
中身を読め、ということなんだろうと察して、俺は渡された資料に視線を落とした。
『K市女性死体遺棄、及び殺人事件についての捜査報告書』
表紙には、そう題されている。
事件の発覚は、今から凡そ一年前の十一月某日。
閑静な住宅街にあるアパートの住人である一人の女性が、突如姿を消し、行方不明となった。
彼女は既婚者で、数日前に夫と隣近所にまで聞こえるような壮絶な夫婦喧嘩を繰り広げており、彼女の姿を見掛けなくなったのは、その二日後の事だったという。
不思議に思った隣人が、夫に訊いてみると、夫婦喧嘩の末家出され、恐らく実家に居るだろう、という答えが返って来た。
そういうことならと周囲も特に気に留めていなかったようだが、一週間経っても妻は戻らず、流石に長過ぎるため、隣近所では「このまま離婚するのではないか」と密かに噂し合っていた。
異変が起こったのは、妻が行方不明になって、十日目。
突然、夫がアパートを引き払ったのだ。
妻とは離婚することになった、自分も実家に戻るから、ここを出て行く。残していく家具は処分して欲しい、そう、大家に半ば一方的に言い放って。
その時の夫の様子が、どうにも切羽詰まったような、何かに怯えるような感じだったため、大家は少々不審に思ったそうだ。
とはいえ、個人情報だ何だと何かと煩い世の中、それ以上問い詰める訳にもいかず、解約の手続きを手早く済ませて、夫はそそくさと何処かへと行ってしまった。
――妻が、近所の池の底で遺体となって発見されたのは、それから僅か三日後。
妻とばかりか、夫や夫の両親とも連絡が突然つかなくなったことを心配した妻の母が、警察に相談し捜索願を出し、万が一を想定して捜索に当たった結果、ということだった。
その後、家宅捜索等々の捜査を経て、彼女を殺害し死体を遺棄した張本人は、他ならぬ夫であることが判明した。
だが、夫であるその男は、逃亡途中でスマホを捨てており、警察が回収したものの、それを解析して分かったことは、妻や職場に対する不満たらたらの私生活の様子だけだった。
それも悪い事に、K市というのは県内でもかなり田舎の方で、日中でも人通りは多くなく、街灯も少ないから夜なんか交通量はほぼ皆無。
当の夫婦は地元の介護施設の職員だったために、夜中に帰って来たり出勤したりすることもあったそうだが。
とにかく、色々悪い条件が重なって、夫の行方は掴めぬまま、あっという間に一年。
“蝙蝠”部隊の動員を強く望む、とあった。
……これだけなら、いつもの、指令書の一部と何ら変わりはしない。
が。
俺は、読み進めていくうちに息を呑み、目を瞠っていた。
心臓が痛みすら覚える程に鼓動を刻んでいる。
その報告書に書いてある、被害者の妻の名は、夏目真緒。
そして、容疑者である夫の名こそ……夏目優一朗、だったから。
「……夏目優一朗の素性を徹底的に調べさせて発覚した。お前、彼とは昔、交友があったそうだな」
「……はい。高校時代の、先輩です。よく、お宅にも遊びに行ってました」
「彼とは今でも連絡を取り合っているのか?」
その質問で、俺は本部長が何故直々に俺を呼び出したのか、理解した。
「いいえ。俺が出所……“蝙蝠”に入隊した頃には、既に彼は携帯の番号を変えていて、メルアドも変わっていたので、すっかり疎遠になっています」
自分の声が、普段より低くうざったそうな響きを含んでいることを、俺は自覚していた。
本部長は、俺があいつの居場所を知っているか、あるいは手掛かりになるかもしれない情報を持っているか、はたまた、俺が事件の事を実は知っていたんじゃないか……まあ、とにかくありとあらゆることを詰問して確かめようとしているんだ。
もし俺が何かを知っていたら、それは“蝙蝠”隊員として捨て置ける話ではない。
最近会話した、というだけでも、貴重な情報になり得るからだ。
もっと言えば、事件を知っていて秘密にしておいた、となったら、本部長はこの場で俺を拘束する必要がある。
その上、自らも何らかの責任を負わねばならない。
それを理解した俺は、それまで必死に押し殺していた苛立ちを、僅かに本部長に見せた。
「本部長、俺を疑ってるなら筋違いですよ。俺、あいつのこと嫌いなんで」
「……そうなのか?」
「ええ。でもまあ、いいですよ、必要なら好きに調べて下さい。
スマホでも何でも押収すればいいし、家宅捜索でも事情聴取でも、任意で引っ張ってくれたっていいです」
傍から見たら横柄な物言いと態度だろう。
が、これが俺の正直な気持ちだった。
あいつのせいで痛くもない腹を探られるのは気分が悪いが、痛くないからどこをどう調べ回られようが監視を増やされようが、どうでもいい。
とにかく俺は、あいつとは今一切関わりないし、関わりたくもないのだ。
そういうニュアンスを込めて捲し立てると、本部長は困ったような顔をして、「まあ落ち着け」と両手を挙げて言った。
「すまん。お前を疑うとかそういうつもりではなかったんだ。今私がお前に問うたことは、念のための確認、みたいなものだ。
捜査状況を総合的に判断しても、お前を捜査対象にする必要はない。
気を悪くしたなら謝るから、そういきり立たんでくれ」
機嫌を損ねた友人を宥めるように言って、本部長は困ったような苦笑を浮かべる。
「……いいですよ。俺こそ、すみません。言い過ぎました」
俺も素直に謝ってぺこりと頭を下げる。
だが話はここで終わらなかった。
本部長は、困った苦笑のまま、言い難そうに目を軽く泳がせると、挙げていた手をそっと下ろして、言葉を選ぶように続けた。
「ただな……少々、気になる事が、あるんだ」
「気になる事?」
「その資料、まだ続きがあるだろう? 読んでみろ」
「……?」
言われて俺は、再び手元の資料に視線を移し、紙を一枚、捲った。
――そうして、続きの文面を、目にした、瞬間。
「――……っ!!」
今度こそ、俺は、絶句した。
そこには、夏目優一朗と、夏目真緒の家族構成が簡単な図式で記されており。
その、優一朗の、真横。
一本の線で繋がれた先に掲載されている、顔写真と、名前に。
俺は、我が目を疑った。
「……さく、ら……?」
――そう、正しく、それは。
俺の、唯一の、友達。
七海桜花の、写真、だった。




