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何者にもなれない蝙蝠達  作者: 和菜
コウモリの長
17/29

人殺しの妹

 

 頼む、と、男は言った。

 床に額を押し当てて、必死な形相で、俺に、頼む、と繰り返し、言い続けた。

 男にしては痩せ気味で、背もそんなに高くないその男は、なのに無駄に大声を張り上げながら、ただただ必死に、言い募った。


 頼む、助けてくれ、と。


 ――助けてやる義理など、正直なかった。

 親切なふりして、いっつも先輩風吹かせて、自分の考えが一番立派だとばかりに、人の意見を聞き入れずに押し通して、自分は優秀だと微塵も疑うことなく信じていて。

 そのくせ、明らかな過ちを犯せば、こうして必死なふりして人に助けを乞う。

 こんな都合の悪い事はすぐ逃げようとするような奴を、俺が何で助けてやらなきゃいけないのか。


 だから、最初は断った。

 冗談じゃない、と。


 けれど男は、保身のためならどんな事でもすぐに思い付く、ある種の狡猾さを備えた男だった。

 妹がいるんだ、と、今にも泣き出しそうな声で言われた。

 一度就職したけれど失敗してしまって、今、再就職活動中の、妹なのだと。

 必死に勉強して資格を取り、必死に就活をしている彼女の人生を、自分のせいで台無しにしたくない、迷惑を掛けたくない。

 自分のためではなく、彼女のために。

 そう懇願する彼に、俺は、情けないことに躊躇いを覚えてしまったのだ。

 彼の妹の事は、俺も知っていた。

 実際会ったのは子供の頃、数回だけだったけれど、彼がそれなりに家族を、妹のことを大事にしているのも知っていたから、彼がこんな馬鹿な懇願をするのもまた、仕方ないのだろうかと、思ってしまった。

 人は、人生で何度も失敗し、間違いを犯し、絶望の淵に立たされる。

 それが、彼女にとって、何の責任もない無関係な事によるもので、何も与り知らぬ事が発端になっての末だとしたら。

 彼女にとってこんな理不尽なことはないだろう。

 目の前で土下座し、俺に正に理不尽極まりない頼み事をする男のため、なんかではなく。

 幼い頃に時々遊んだ、この男の妹のため。


 人は間違う。失敗する。見誤る。愚かで馬鹿な生き物。

 だがこの時の俺は……本当に。本当に、本当に本当に。


 救いようのない、大馬鹿野郎、だった。


 ――誰もが寝静まった深夜。

 近所迷惑も顧みず、インターホンと、ドンドンと乱暴にドアを叩く音が引っ切り無しに狭いアパート内の部屋に響いたのは、うだるような、熱帯夜の日。

 恐怖と、絶望と、僅かな希望を胸に、唇を噛み締めながらドアを開けて。


 その瞬間。

 俺の人生は、大きく、変わった。




「……と、……大和……大和ってば!」

「っ、」


 耳元で聞こえた甲高い声に、俺は意図せず体を跳ね上がらせた。

 振り向けば、腰に手を当てて怒った顔をして俺を見下ろす柚希が立っていて。


「……何だ?」

「何だ? じゃないわよ。さっきから呼んでるのに! 目ぇ開けて居眠りでもしてた訳?」

「あ、……ああ。悪ぃ」

「まあいいけど。それよりこれ、目を通しておいてね。県警から送られて来た指令書と、第三小隊から送られて来た協力要請書。あと経費精算書ね」

「……分かった」

「……、あんた大丈夫? ぼーっとしちゃって、どうしたの?」


 俺があまりに気のない返事を繰り返すからか、柚希が今度はデスクに身を乗り出すようにして、俺の顔を覗き込んで来た。


「ていうか今日だけじゃなくて、最近ずっとそんな調子よね。もしかして、疲れが溜まってんじゃないの?」


 少し眉尻を下げてそう言う柚希は、本当に俺の事を心配してくれているみたいだった。

 最近ぼんやりして仕事に身が入り切れていない事には、俺にも自覚がある。

 その原因も、分かっている。

 けれど、それをこいつらに言うつもりはなく、俺は、曖昧に笑って、「ちょっと寝不足なんだよ」と適当な言い逃れをした。

 柚希は納得し切れていないような顔をしていたけれど、それ以上追求して来ることはなく、「ならいいけど」と言って自分のデスクに戻って行った。


 元より広げていた書類に目を通し、捺印してから積み上げたファイルの一角に乗せると、早速、柚希が届けてくれた書類に手を伸ばす。

 今日も今日とて、世界には犯罪が溢れ、俺達はそいつらを逮捕に導くためにあの手この手で捜査に出向く。


『七年前の被害者が、先程亡くなった』


 だけど気を抜けば、いくら頭から追い出そうとしても、あの言葉がちらついて、消えてくれない。

 ふとした瞬間、何度でも何度でも脳内に文面が浮かんで、それに促されるように、“あの時”の事が脳内を駆け巡る。

 ……七年。

 気が付けばもう、そんなに経っていた。

 つまりそれは、俺がこの“蝙蝠”第七小隊に入隊して、少なくとも五年以上は経った、ということでもある。

 ――広げたはいいが、全く内容が頭に入って来ない書類から顔を上げて、一つ、大きく息を吐き出した。

 回る椅子をくるりと背後に回して、そこから見える空を見つめる。

 梅雨が過ぎ、夏が過ぎ、季節は秋になった。

 もう二ヶ月もすれば本格的な冬が始まって、寒波が到来すれば、普段雪の少ないこの地域にも雪が降り、積もることもあるだろう。


 ――七年も、経った。

 “あいつ”は今、何処で何をしているのだろう。



 □□□



 花屋で買った花束を抱えて、静謐な石畳の道を歩く。

 あちこちから線香の香りや、優しい花の匂いが漂って来て、それだけで少し、緊張で強張っていた体から力が抜けていくような気がした。

 中心街から少し離れた、山の一角にある小さな墓地。

 土曜日の今日、俺はいつものドライブには行かず、正装を纏いここを訪れていた。

 盆でも年末でもない今の時期、墓地は閑散としていて、墓参り客は見たところ俺以外はない。

 まあ、そういう時期を狙って来たのだから、当然と言えば当然だが。

 目当てのお墓の場所は、訃報を知らせてくれた県警本部長に教えてもらった。

 いくらも歩かないうちに、俺は、そこに辿り着く。

 とうに四十九日も過ぎているからか、お墓に供えてある花はもう大半が枯れていた。

 俺はその枯れた花をそっと花立から抜き出すと、買って来た花と入れ替えた。

 線香を立て、その場にしゃがみ、上着のポケットから数珠を取り出して、手を合わせ祈りを捧げた。

 ――あの時、県警本部長が知らせてくれた、“七年前の被害者”の、お墓、だった。

 本当は、もう少し早く来るべきだったのだけれど。

 七年経ったとはいえ、“加害者”がノコノコと現れたら、却って、遺族の心を掻き乱すだけだと思って、敢えて、一通りの法要が済んだ後を選んでここに来た。


『一年程前に体調を崩されて、それからずっと入退院を繰り返していたらしい。

 まだ六十半ばでいらっしゃったから、早過ぎる死ではあるがな……』


 柚希の潜入捜査の報告をしに、改めて県警本部長を訪ねた際、本部長は何処か俺を労わるような声音でそう言った。


『聞いた話では、七年前の後遺症とは別に何の関係もないそうだ。

 お前が気に病むことではない。御遺族も、お前の事は一切口にしなかったらしい』


 その言葉に。

 俺は、酷く、心が痛んだ。

 俺は……七年経った今でも、そんな優しさを貰えるような男じゃない。


『……葬式、出るか? 出たいなら、私が話を付けるが』


 少しだけ心配そうな表情で、俺の顔を覗き込みながら問われた本部長の言葉に、俺は、緩く首を横に振った。

 本部長は、俺のその返事に、何も言わなかった。


 これからは毎年、必ず会いに来ます、と、お墓の主に心の中で約束をして、一礼してから俺はくるりと踵を返した。


「――帰れ!!」


 そんな怒声が突然、静かな墓地に響いたのは、その後すぐのこと。

 五十代か六十代くらいの女性の声だったが、殺意さえ滲ませた怒鳴り声は、離れた場所に居る俺の肝をも抜く程の剣呑な声だった。

 思わず俺は声の主を探して、あちこちに視線を巡らした。

 そうこうしているうちに、再び、「どの面下げてここに来たんだ!」という声が聞こえて来る。

 その一言で大体の位置を把握した俺は、そちらに向けて駆け出していた。

 目当ての場所はここからそう遠くはなく、墓地の出入り口にやや近い所だった。

 整然と立ち並ぶ墓石の合間から、予想通りの初老の女性が、鬼のような形相をして正面に居る誰かを睨み付けているのが見えた。

 近くまで駆け寄ると、俺は状況をまず把握しようと、適当な墓の陰に身を潜める。


「この人殺し一家! お前に、娘の墓に参る資格があると思ってんのか!」


 近くで聞くと益々身震いする程の怒声だった。

 しかも、一言一言が結構物騒で、一体どんな奴を相手に怒っているのかとこちらまで緊張が奔ってしまう。

 とりあえず、気付かれないようにそーっと墓の陰から様子を窺おうと身を乗り出して……。


「っ、!」


 その瞬間、俺は、漏れそうになった驚愕の声を、慌てて口を押さえて押し留めた。

 俺の視線の先、ここから墓の数で三つ程向こうに、喪服を着た初老の女性と、こちらに背を向ける形で尻餅を着いている、これまた喪服を着た女性の姿が、一人ずつ。

 ほぼ予想通りの画だが、俺が驚いたのは――その、尻餅を着いている女性が、見知った相手だったから、だ。

 いつもと違って、長い髪を後ろでさっぱりと束ねていて、首にはパールのネックレスを下げているその女は……間違いなく、最近知り合いになった、七海桜花、その人だった。


「娘に詫びる気があるんなら、あの糞ったれ男の居場所を吐きな! 今一体何処にいるんだい!?」

「……知りません。本当に……私は、何も、知らないんです」

「は!? 馬鹿にすんのもいい加減にしろ!! お前あいつの妹だろ!? 知らない訳ない!!」

「本当です……本当に、知らないんです。だけど、確かに私はあの男の妹だから……せめてものお詫びとして、こうしてお墓にお参りをさせて頂ければと……」

「調子の良い事言うな!!」

「!」


 桜花の言葉に益々気を悪くした婦人が、一層大きな声で怒鳴りながら、彼女に大量の水をぶっかけた。


「兄の居場所をすっとぼけるくせに、せめてものお詫びだなんてよく言えたもんだよ! そんな下手くそな言い訳するくらいならあいつの居場所を素直に吐け!」

「ですから、それは……っ」

「本当に知らないってんならねぇ! あの糞野郎に代わって今すぐお前が死ね! そんで、娘を生き返らせろ!」

「っ……、」


 余りと言えば余りの暴言のように感じたが、その実、狂ったように平気で死ねと言う婦人の目からは、大粒の涙が次から次へと零れ落ちていた。

 酷い暴言と、それを奏でる声音と、涙と、それら全てから、彼女がどれ程の怒りと憎しみ、悲しみを持て余しているのか、痛い程伝わって来る。

 婦人の怒鳴り声だけでは、一体何がどういうことなのかを、正確に推し量ることは出来ないけれど。


「――ちょっと、何してるんですか!? やめて下さい!」


 一瞬の逡巡の後、俺は、そう声を上げながら、桜花を庇うように二人の間に立ち塞がった。


「え……黒咲、さん……?」


 俺の後ろで、桜花が驚愕と困惑交じりに俺の名を呟いた。

 何が何だか分からないのは俺も同じだが、少なくとも今、一方的に暴力を振るっているのはこの婦人の方で、無抵抗にされるがままになっているのは、桜花の方だ。

 それだけは間違いない。

 そうでなくても……桜花が傷付けられるのを、黙って見過ごす訳には、いかないと思った。

 たとえ、この婦人に正当な理由があるのだとしても。


「何よあんた! いきなり出て来て! 何も知らない奴は引っ込んでろ!」

「まあ、とにかく落ち着いて。お墓でこんな騒動起こしたんじゃあ、罰が当たりますよ?」

「罰だって!? 罰が当たるとしたら、その小娘の方だよ! あたしは被害者なんだから!!」


 やべ……火に油を注いでしまったかも。


「気に障ったんなら謝ります。謝りますから、とにかく少し落ち着いて下さい」


 あの手この手でやりたい放題好き放題に、犯人を騙くらかすのは得意だが、こういう相手を諫めるのはどうにも苦手だ。

 とにもかくにもこの場を諫めて、彼女を連れ出さなければという一心に駆られ、俺は両手を挙げて婦人を負けじと鎮めようと試みる。


「一体どうしたって言うんですか。この人が何を?」

「そいつはね! 人殺しの妹だよ!」


 ……だが、婦人は、今にも彼女に襲い掛からんばかりの形相で、そう、吐き捨てた。


「兄貴を庇って、警察にも協力しないで、そのくせ警察に守られてる糞ったれの加害者! あたし達は、毎日毎日人の心を持たないマスコミ連中に追い回されてるっていうのに!!」


 俺は思わず、眉を顰めた。

 桜花の兄貴が人殺しだとか何だとか、そういう話はこの際一旦置いておくとして。

 自分に向けられている訳でもないのに、この婦人の、“被害者”としての悲痛な叫びが、胸に、心にぐさぐさ刺さる。

 この婦人の言葉は一言一言が確かに暴言でしかないのだけれど。

 紛れもない、事実であり真実であることも、確かだった。

 いつだって、容疑者や加害者は真っ先に守られて、被害者は悪気のない正義感の名の元、悪戯に顔や個人情報の全てを世間に晒され、罵倒される。


「……貴方方の間に、何があったか、は知りません。でも……」


 この婦人の言っていることが本当なら、俺は、“蝙蝠”の隊長として、婦人ではなく桜花から事情を聞くなり、彼女を警察に連れて行くなりするべき、なのかもしれない。

 だけど。


「この女性が本当に加害者の家族でも。

 この人自身が貴方の娘さんを殺した訳じゃない。

 死ねだの何だのという言葉は、流石に暴言が過ぎるんじゃないですか?

 しかも、死んだ人達が安らかに眠る、こんな場所で」

「っ……何ですって……!?」

「……、」

「ここでわーわーぎゃあぎゃあ喚く暇があるなら、貴方自身も警察に協力して、この人のお兄さんとやらを見付ける努力をなさっては如何ですか」

「……この……!!」


 何を言ってるんだかな、俺は。

 これじゃあ完全に逆切れだ。

 “蝙蝠”隊長にあるまじき台詞だ。

 分かっているが、もう後には引けない。ていうか、引く気がそもそも起きないから、我ながら厄介である。


「無関係な人間が、いきなりしゃしゃり出て……何様のつもりだ!!」


 俺の言葉で、すっかり頭に血が上った婦人は、今度は水の入っていた桶を勢い良く振り被り、俺目掛けて、振り下ろす。


「黒咲さん……!」


 後ろで、桜花が悲鳴のように俺の名を叫んだ。

 ――多分、これは躱さない方が良い。

 直感でそう判断した俺は、足に力を入れて、その場に踏ん張り……


「、……っ!!」


 そうして、ものの見事に、婦人の振り下ろした桶は、俺の額にクリーンヒットした。


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