天球《暁星(エオス)》の空の下(後)
――な、何だっけ? 《盟約》? 《宝珠》?
痺れてしまったかのように、頭が動かない。何か重要な事だったような気がする。スッカリ忘れてるっぽいけど。これって記憶喪失の中にあったっけ?
再び、ヒンヤリとした風が吹いた。東の空の底が、ボンヤリと明るい裾をまとい始めていて――薄明に包まれた辺りの光景は、うっすらと淡いラベンダー色を帯びている。
――《暁星》の刻。
クレドさんが彫像のように端正な無表情をゆるめて、うっすらと諦念をまとったような笑みを浮かべた。
「その気が無いのであれば、『幻の刻』が終わるまで待てば良いですよ。すべてが幻であったかの如く――この申し出も無かった事になりますから」
――『幻の刻』。短い間に現れては消える不思議なエーテル天体が、天球の刻を彩る間だけの、事らしい。例えば、《暁星》のような。
不意に、ディーター先生とフィリス先生が同じ事をしていたのを、脈絡も無く思い出した。
――あれは何の刻だったっけ。草木も眠る……じゃない。
銀色の星の光――《銀文字星》の刻だった。《銀文字星》は最も気まぐれな出方をするエーテル天体で、出現の条件が絞り込まれる前の時代は、占術師泣かせの星だったとか何とか……
不思議なラベンダー色の光が強まり、そして、空が本物の明るさを増すや、ふうっと薄らいで行く。
クレドさんの右手が外れた。
――この一瞬を逃したら、『次』は永遠に来ない。何故かは分からないけど。
わたしは弾かれたようにクレドさんの右手を追っていた。
よくやるように、わたしは何も無いところでつまづき、転倒しかけて――
――ゴスッ。
ブホォッ。口周りを打った……何か硬いところに。この痛さ、泣くわッ。
一瞬、気が遠くなってクラッとした――けれど、バランスを崩した筈の身体は、何故か地面に激突していない……ようだ。
やがて。
クレドさんの、珍しく呆然としたような声が耳に入って来た。
「……これは事故ですか? それとも拒否ですか?」
――ほぇ?
気が付くと――クレドさんの腕が、わたしの身体を支えていた。
わたし、いつの間にか転倒するところを、クレドさんに抱き留められていたみたい。
それから、それから、拒否か事故かって……そりゃまあ、ドジでこうなっただけで、そんな訳、有るとか無いとか……
あれ? わたしが打ったのって口周りだよね。口周りを何処に打ったんだっけ。目をそろりと開けてみる。
――えぇえええぇえぇぇぇえぇえええ!!
わたし、クレドさんのおでこに、かじり付いてるーッ!!
思わず『ビョン!』と身を起こしてしまったよ。さっき、ガチで『ゴスッ』というスゴイ音がしてたよね……!
――と言う事は、転倒する勢いで。勢いで……もう泣きたい。消えて無くなりたい……
クルリと回って駆け出した――
――けれど、いつものように膝を捉えられて、片腕抱っこされる態勢になってしまった。いつも不思議に思うんですけど、クレドさん、いつ動いてるんですか?
いろんな事がゴチャゴチャなままにジタバタしていたら、不意に、真っ逆さまに落っこちそうになった。もう片方の大きな腕が出て来て、ガッツリ固定される形になる。
そして、クレドさんの、呆れたような溜息が落ちて来た。
「病棟まで送りますから、大人しくしていてください。記憶喪失で、基本的な事すら抜けているのを忘れていましたよ。ルーリーは放っておくと、見当違いの方向に走り出して行方不明になる性質ですね」
……『ぎゃふん』する気力も無い……
クレドさん、肩をできるだけ震わさないようにしてるみたいだけど、喉が「くっくく」言ってるの分かりますし、吹き出し笑いしてますよね? せっかくの《盟約》が、こんな事になってしまって、笑うしか無いんですよね?
振り仰ぐ空は――払暁だった。
ラベンダー色の不思議なエーテル天体は、既に無い。まばゆい朝の太陽が、闇を打ち払っているようだ。
行く手には既に、見慣れた『茜離宮』付属・王立治療院があった。多くの病棟と共に並び立つ官衙の、ゲート部分が見える。
うつむくと、真っ赤なヘッドドレスから下がる真っ赤な『花房』が、シャラリと顔の左右に流れた。その毒々しいまでの赤さとは裏腹に、胸の底には、乾いたような虚しさが広がる――
……おや?
左薬指の根元が妙に熱いような気がする。
違和感に気付き、左手を近くに持って来てみると――熱を持った部分には、見慣れない色合いが浮かんでいた。茜色と言う訳じゃ無いけど。茜色をごくごく薄くしたら、こういう色合いだろうと言う淡い色が浮かんでいるのだ。
地肌の色に余りにも馴染み過ぎていて、注意して見ないと分からないくらいだけど。時折、朝の陽光にペカリときらめいている。
――こういうの、敷波紋様って言うんだろうか。
クルクルした成長曲線。その隙間を埋めるように、古典的な波紋様に似た、レースのようなパターンが詰め込まれている。そして、指を一周するように、5個くらいの青い花蕾のようなパターンが並んでいる。
……青と言うよりは、色が薄いから水色って感じ。この花蕾のようなパターンが、開花した花のパターンだったら――青いバラみたいになるんだろうか。
チェルシーさんの茜ラインに出ていた花パターンは、赤いバラだったような気もするし……
いつの間にか。
わたしを片腕抱っこしているクレドさんの足取りが止まっていた。
クレドさんは、ハッキリとした驚愕の表情を浮かべている。唖然としながらも食い入るような眼差し。その先にあるのは、わたしの左手薬指の根元だ。
いったい、何?
「――《宝珠》が……正式名が……本当に『水のルーリエ』?」
クレドさんの声は、動揺の余りか、かすれている。いつもは、滑らかな声なのに。
「何故、ルーリーなんですか?」
――ほぇ?
訳が分からないうちに、クレドさんの伸びて来た右手に、顔の向きを変えさせられた。まだ驚愕の表情を浮かべているクレドさんと、真っ正面から向き合う形になる。真っ赤な『花房』のビーズ同士が立てる音が、シャラリと響く。
――か、顔が近すぎる!
左側『人類の耳』の直下辺り、茜メッシュが始まっていると思しき位置に顔を寄せられるやいなや、そこに耳でも鼻でも無い、柔らかな感触を押し当てられた。
――ひえぇえ?!
物理的な意味での、変な叫び声を上げなかったのだけは、褒めてもらいたい。全身がビシッと固まった。
そして、現実が、ふうっと遠くなっていった。
*****
一応わたしは、そのまま無様に長い間、失神した訳では無い。
ちょっと気が遠くなっただけ。頭の中は真っ白だったけど。
絶賛☆混乱中なわたしは、クレドさんに片腕抱っこされたまま、中央病棟のゲートを通過した。
病棟の総合エントランスでは、大天球儀ニュース・チャネルから流れて来る、モンスター襲撃の顛末に聞き入っている人々で一杯だ。
わたしたちは、病棟のスタッフに誘導されて、傷病者の搬送用のゲートから病棟に入った。前もって連絡が入っていたみたい。
重傷者用に振り分けられたメイン・ルートの方では、夜を徹したモンスター襲撃の結果、戦場みたいになっていた。緊急用の、大型の転移魔法陣のゲートが開かれていて、大量搬送が可能になっているところだ。
様々な創傷を負った隊士たちや、運の悪かった一般人たち、それに逃げ遅れていた犠牲者たちが、担架に乗せられて次々に処置室に運び込まれている。各々の《霊相》を明示するためだろう、意識のない重傷者たちの手首には、四色のいずれかのリボンが巻かれている。
気付くと――クレドさんの表情は、憂いを湛えて曇っている。
メイン・ルートを搬送されて行く重傷者たちを見てみると、クレドさんと同じ《風霊相》の隊士たち――それも若手の割合が多いのが分かる。物理的な情報伝達を担当していた、《風霊相》の『斥候&伝令』たちなんだろう。モンスターの群れを振り切って駆け抜けると言うのは、相応に難しい仕事だったらしい。
――あの《風霊相》の隊士たちの中には、クレドさんの同僚も、後輩も、多い筈だ。クレドさん、あの人たちが心配なんだろうな。
クレドさんは、見た目からして硬質さと冷たさが目立っていて彫像みたいだし、そのうえ、滅多に感情を見せない性質だ。
パッと見た目では、分かりにくい人だけど。
それでも、ジッと見ていると、人間らしい暖かさが通っているのが見えて来る。奥底には色々な物があって、思慮深くて、優しい――
――わたし、好きになったのが、クレドさんで、良かったと思う。
*****
幸い、顔見知りのフルール先生の手が空いているタイミングだった。クレドさんはわたしをフルール先生の手に預けると、そのまま、『茜離宮』へと向かって行った。
元々クレドさんは《疲労回復》の魔法を施される事になっていたんだけど、不要だったらしい。
フルール先生の見立てでも、そういう結果になった。わたしの歯が当たってた筈のおでこも無傷みたいだし、ウルフ族の男性の頑丈さって、そういう物なんだろうか。よく分からない。
そのまま、わたしは元の病室に戻された。
病室に付いている水回りで、汚れを落としたり着替えを済ませたりした後――
やはり何もかも頭一杯なまま、今度こそ本当に、失神するように寝入ったのだった。




