魔法使い治療師・後
30代後半ごろと思しき金狼種の中年男――『地のディーター』先生は、前日と同様に、金茶色のヒゲを短く刈り込んでいた。同じ金茶色をした髪も、短く刈り上げてある。フードを外しているので、頭部のウルフ耳がヒョコヒョコと向きを変えているのが、丸わかりだ。
「体内エーテル循環が安定している。熱も下がったようだし、気分は悪くないようだな、嬢ちゃんや」
「は、あ……ゴフッ」
応じる声を出そうとして――咳き込む。喉がカラカラだ。
フィリス先生がすぐに、傍に用意していたのであろう水差しを取り出して来た。
「水を飲みなさい」
枕を重ねて半身を起こした状態になり、水を受け取る。半身を起こして初めて分かったけど、今着ているのは、生成り色の無地のスモックだ。病人服らしい。
一服すると、喉が楽になったような感じがした。しゃがれ声のままだけど、少しだったら喋れる感じ。
わたしは、恐る恐るフィリス先生の顔を見た。
「ね、熱……ですか?」
「一定以上の攻撃魔法を受けた後の、身体の正常な反応だけど。弱った身体で、更に物理的にアザだらけになったのも響いたみたいね。まる5日間、寝込んでいたわよ」
――記憶に無い。これもまた、ちょっとした記憶喪失かも知れない。
水分を取りつつ呆然としていると、ディーター先生が椅子を引いて来て座った。
「実に興味深い――非常に勉強させられるケーススタディだったよ。高度魔法と多重魔法陣に関する新しい論文が、4本や5本は書けるだろう。呪術や医術の方面も含めてな。今の『尾』の調子は、どうかね?」
――尻尾?
恐る恐る、何となく心当たりのある位置に手を伸ばしてみる――
毛並みが惨めに乱れてペッタリとしているけど、確かにウルフ族の尻尾だ。半身をねじって見てみると、確かに黒い尾があり、触るたびに確かな感触で応えて来る。
「は、生えてる……」
「獣人ウルフ族だから当然じゃ無いか。とりあえず、不自由は無いようだな」
ディーター先生は目ざとくも、わたしの動転にシンクロして黒い尾がピコピコ揺れているのを、見て取っていたらしい。
――そう言えば、尻尾って、感情の動きにシンクロしやすいとか……
やがて、ディーター先生はフィリス先生が手渡した半透明のプレート――メモ帳のような物らしい――をひっくり返しながら、説明を始めた。
「嬢ちゃんの頭部のバンドは、奴隷に対して非合法に用いる拘束具が元になっていてな。当然、闇ギルドで普及している製品だ。『耳』の機能を抑え込んで本来の聴力を制限しているから、奴隷商人の商談の内容を盗み聞きしにくく、奴隷自身が、なかなか契約満了に持ち込めないと言う状況になりやすい」
何でも、獣人は割と頑張っちゃうので、騙されて奴隷に落とされるという羽目になっても、契約満了タイミングで機会をつかんで、逃げ出せる人が多いらしい。こちらは『半ば合法的な奴隷取引』というか、違法スレスレな底辺労働者の派遣ビジネス業界での話なんだけど。
でも、それだと、ガチの奴隷商人としては困る。それで、闇ギルドでは非合法に拘束具を使って、奴隷の数を安定して確保しておくのだそうだ。
そして、わたしを拘束している魔法道具の場合は、更に魔法加工がされていて、ありとあらゆる拷問の機能が付いているらしい。そして絶対に外せないようになっているという。下手に外そうとすると、仕掛けられた魔法陣が爆発しかねないから、さながら自殺のための爆弾を抱えている状況というところ。
だんだん、身体が震えて来るのが分かる。聞けば聞くほど、『呪われた拘束バンド』をセットしていると言う、絶望的な状況だけど……何で、こんな事になったんだろう?
「魔法陣ごとの配置や導線が、複雑に絡み合っていてな。全体像の解析も無く、下手に拘束具を外すのはリスクが高い。不便だが、もうしばらく辛抱してくれたまえ」
ディーター先生は、そこで一旦、言葉を切った。腕を組む格好になって、短く刈り込んでいるヒゲを、片方の手でコリコリとかき始める。
「ほぼ記憶喪失の状態だろうと予測はしているが。名前は思い出せんか?」
コクリと頷いて見せる。自分の名前。年齢。わたしが獣人ウルフ族である事実に、《水霊相》生まれである事実――全て、思い出せない。
この世界――『大陸公路』の一般知識に関しては、『よく考えていれば、ボンヤリとではあるけど思い出せる』と言うような感触はある。一般的な言葉や概念なんかは、ちゃんと覚えているし。
なんだろう、無意識のうちに身に付いた一般共通な知識や思考ベース――といった物は残ったけど、自分の身元や経歴、個人的な思い出といった内容が、スポッと抜けたみたいに空白になっているんだよね。自分を構成していた個人的な記憶系列が、ほとんど吹っ飛んでしまったという感じ。
――あれ? でも《水霊相》って何だったっけ?
「あの、《水霊相》って何ですか?」
「そこからかッ?」
ディーター先生は仰天したようだったけど、すぐに気を取り直して、簡単な説明をしてくれた。
「生命元素として振る舞う『エーテル』という存在がある。一言で言えば、宇宙の、最も基本的なエネルギーの流れだな。この世界には、《火》《風》《水》《地》の四種類の性質を持つエーテルがあるんだが、実際に生まれ出て来る生命が、どのエーテル成分を最も多く含んで生まれて来るかは、決まっていない」
ふーん。エーテルって、宇宙論的なエネルギーなんだ。それは生命を作るエネルギーでもあって、四種類ある。どれも等しく生命元素として振る舞うから、一定量さえ確保すれば、エーテルの種類はどれでも良いみたいだ。
ディーター先生は、わたしの顔に理解の色を認めたみたいで、ホッとしたような様子になった。ディーター先生の説明が続く。
「この世のすべての生命は、エーテル成分の偏りを持って生まれて来るんだ。その偏り度合いは、我々生き物すべてが体内に持つ、生命設計図――《宿命図》に表示されている。《宿命図》に表示された、その偏りパターンを、我々は《霊相》と言い習わしている。例えば私は《地》のエーテル成分が多いから《地霊相》生まれ。フィリスは《風》のエーテル成分が多いから《風霊相》生まれだ。嬢ちゃんは、《水》のエーテル成分を多く持って生まれて来た。――と言う訳だ」
成る程。それで、わたしは《水霊相》生まれと言われたんだ。わたしの《宿命図》は《水》エーテル成分が多いらしい。
「あの、エーテル成分の偏りって、分かる物なんですか?」
「変身魔法に伴うエーテル光の色でな。単純に見るだけでは分からん、魔法感覚を意識して使わんとな。だから我々の名乗りに《火》だの《風》だのが付くんだ。変身魔法による証明が出来ない場合は、《宿命図》判読の結果で証明する」
ディーター先生はフーッと息をつくと、再び説明を続けた。さすが『先生』というか、講義風で分かりやすい。
「おいおい分かるだろうが、《宿命図》関連は高度な魔法が必要だから、相当に訓練しないとならんし、魔法の才能の有無も大きくモノを言う。例えば、フィリスが嬢ちゃんを《風魔法》で空中に浮かべた筈だが、あれだって出来る奴は少ない」
わたしはビックリして、フィリス先生を眺めた。フィリス先生は困ったような顔をして、肩をすくめている。
「私は《風霊相》生まれだから、《風魔法》が平均より上手に発動できると言うだけの事よ。《水霊相》生まれなら、《水魔法》を発動するのは、他の《四大》魔法よりはスムーズに出来る筈だけど。もう少し体内エーテル状態が回復したら、水まきの魔法や洗濯魔法で試してみましょう。すぐに魔法が出来なくても、機械や道具で大体の事は出来るから、心配しなくても良いわ」
不意に、地下牢に放り込まれる前に色々と見かけた、不思議な現象が思い出された。わたしは、もう少し喋れるようにコップの残りの水を飲み干しながら、思案してみたのだった。
「えっと、『殿下』っていう人? ……が、楔型の投げナイフを投げて来てたんですけど、あれ、砂になって蒸発してたし、長剣の刃部分が、いつの間にか消えたり……魔法ですよね?」
ディーター先生が苦笑した。フィリス先生は『ヤレヤレ』と言った風に、額に手を当てている。
「おやおや。あの殿下は、キツイ性格だからなあ。うむ、《地魔法》の一種だ。普通の金属よりも硬い物質を魔法で合成できるから、土木建築や戦闘の方面では必須のスキルだよ。特に、竜人の《地魔法》には定評がある」