遠き記憶の夜の底・後
そして、別れの日が来た時、『かの御方』は。
手ずから『道中安全の護符』をハンカチに刺繍して、クレドさんを含む訪問者たちに、ひとつずつ、くれた。
クレドさんたちを送り出した主人への返礼品は、別に公的な場所で用意されていた。つまり、個人的な返礼品――『道中安全の護符』――は、彼女自身の意思による物だった。
――クレドさんの分の刺繍ハンカチには、何故か、ルーリエ花が挟まれていた、という訳。
それも、手違いか何かで入り込んだ物じゃ無い。
非常に手の込んだイニシャル刺繍を仕掛けて、その隙間にコッソリと挟んでいると言うやり方。パッと見た目には分からないくらい、巧妙な手仕事だったそうだ。
しかも、他のメンバーが持っていた刺繍ハンカチには、そういう小細工は無かった。
ちなみに、『道中安全の護符』は期間限定だ。帰路コースを無事に完了したら、感謝を込めて『お焚き上げ』する事になっていたので、今は、その刺繍ハンカチは残ってないと言う。
――成る程ねぇ。それじゃ、クレドさんじゃ無くても考え込むよ。
まして、クレドさんにとっては《宝珠》な人だ。
「ルーリエ花の花言葉とか……?」
「水中花が意味するメッセージは、直接的ではありますね」
花言葉には謎かけみたいな物も多いんだけど、水中花は元々、その作用や効果がハッキリしているので、曖昧な花言葉になっていないのだそうだ。
ハイドランジア花は、「栄誉と栄達」ないし「豪華、美麗」。丸ごと、全身が宝玉――という水中花ならではだ。
オルテンシア花は一抱え程もある大きさの花なうえ、全身消毒液プールの材料として採集されてしまう。だから現物という訳にはいかないけれど、その図案なら「全快を祈る」という意味。病人向けのお見舞い関連では定番だ。
ルーリエ花は「静穏を祈る」。魔法要素の乱れを鎮静化するという働きに由来した花言葉。
アーヴ種が付ける花は、見るからに花っぽい花じゃ無いので、こういった場面に使われる事は余り無いけど、「美味」或いは「水は清き故郷」。
――ルーリエ花。「静穏を祈る」。それだったら、「道中の安全=静穏を祈る」と言う風に一致するし、わざわざ、誰にも分からないように花を挟み込む必要は無い。むしろ、大っぴらに、花束にしても良いくらいなんだよね。
考えてみると、確かにオカルトでミステリーな行動だ。意図が全く分からない。
クレドさんが面白そうに目を細めながら、見つめて来ている。さっきまで、わたし、百面相してたみたい。
「ルーリーにも分かりませんか。それだけ所作や中身がそっくりなら、思考パターンも分かるのでは無いかと思ったのですが」
――お役に立てなくてゴメンナサイ。わたし、その人の事、何も知らないんだよ。
それにしても――護符の魔法陣の刺繍。イニシャル刺繍に仕掛ける小細工。
文字や『正字』スキルみたいに、わたしが身体で覚えてるパターンだろうか。
クレドさんが『かの御方』と言うたびにモヤモヤして、『わたしだって、それくらい出来るもん』って思っちゃうんだよね。手が何となく針仕事を覚えてるような気もするんだけど、此処には手芸道具は無いから、今は実感は湧かない。
――それでも。
やっと、クレドさんの、謎の『眼差し』の意味が分かって来た。
わたしは、所作や反応などといったアレコレが、『かの御方』と良く似てるらしい。それに、『茜メッシュ』の位置も、ほぼ同じらしい。
わたしの所作や反応の奥に、『かの御方』を――よりによって《宝珠》を――重ねて見てたんだ。
そりゃ、驚きも不信も、『こやつは別人だ』と言うシッカリした認識と相半ばしながらも、一緒に出て来る筈だよ。そんな存在が目の前に出てきたら、わたしだって、信じられなくて、そういう矛盾した反応をすると思う。
大きな違いは――『かの御方』は、物静かで、年上で、おそらくは金狼種の貴種の系統だという事。貴種って事は、通りがかる人が振り返るような、ハッとするような美人だったんだろうか。
名門の令嬢だと言うチェルシーさんの、若い頃みたいなタイプとか、シャンゼリンを金髪にしたようなタイプ、とか。
わたしの方はと言えば、見るからにドジでそそっかしくて、黒狼種の混血。イヌ族って間違われるくらいのイヌ顔。方々から『貧相』ってコメントをもらう程に、成長不良な16歳でもある。
――うぅ。この落差。自分で比較検討してて、泣けて来る。メルちゃんみたいに、『金髪コンプレックス』発動させてしまおうかなぁ。
不意に、クレドさんの右手が伸びて来た。
ななな……! 何で喉元、撫でてるんですか?! そこは獣人にとっては共通のアレ……!
くぅッ。気持ち良い。思わずゴロゴロ喉を鳴らしちゃう。
「気分はどうですか? ルーリーを泣かせるつもりは有りませんでした。済みません」
――気分が落ち込んだの、尻尾でバレてたんだ……
「先生がたの、秘密会議が終わる頃合いですね」
クレドさんはうつむいてポツリと呟いた後、再び、わたしの方をまっすぐ見つめて来た。クセの無い黒髪が、サラリとなびく。彫像そのものの冷たさと静謐さを湛えた面差し――
だけど、その黒い目の中にある物は、今、人間らしい熱さのある感情に揺れていた。
「先刻の告白、嬉しかったです。とても」
――あ、あの黒歴史の中の黒歴史な、恥ずか死ねる尻尾の告白!
思わずピシッと身体が固まってしまう。体温が急に上がったみたいだ。冷や汗とは違う別の汗が、ダクダク流れている。
「6年……もうじき7年になります。『かの御方』とは、この先も恐らくは一生、逢う事はかなわないでしょう。あの頃から既に、一匹狼を貫く事を覚悟していました。ですから、急に気持ちを切り替えるのは……難しい」
クレドさんの、滑らかな低い声が続く。
「ルーリーは余りにも『かの御方』に似ている。ですが、ルーリーは、見も知らぬ彼女の代わりとして扱われるのは本意では無い筈です。本来、ルーリーがジェイダン殿と、《宝珠》が半分以上も適合するような縁があるのなら、ジェイダン殿に譲るべきなのでしょうが……」
殺気にも似た、妙な迫力を感じる。知らず知らずのうちに、片腕抱っこされている状態で、出来るだけ距離を取ろうと身体をズラせていたみたい。
クレドさんの右手が、再びスッと伸びて来たので、ギョッとして身を引く。
頬に右手を添えられて、いつの間にかアサッテの方を向いていた顔を、クレドさんの方に向き直された。ひえぇ。
思わずギュッと目を閉じたけど、クレドさんの滑らかな低い声が、追い打ちをかけるように続く。
「私は2人の女性に同時に懸想するような浮気者では無いと自認していますが、それでも、ルーリーの事は、『特別な意味で』気になります。他の男にやりたくないと思うくらいには」
――す、ストレートですね。
ウルフ族の男性って、みんな爆弾告白するんでしょうか。わたし、ダメージ受けすぎて立ち上がれない気がするんですけど……
「少し、私に時間をくれますか。私が自分の気持ちを考え直せるくらいの時間を。それほど長くは待たせません――ルーリーが成人する前までには決めますから。それまでの間、ジェイダン殿や他の男は待たせておきなさい」
――最後のセリフは、ほとんど命令じゃありませんか?!
不意に、クレドさんの体温が近づいた。私の方は目をギュッとつぶったままだから、身体の各所の感触しか分からないけど……自分のとは別の、サラリとした髪の感触を、頬に感じると言う事は……
――顔を寄せられてる?!
「良いですね、ルーリー?」
低さと艶やかさを増した声で、左側の『人類の耳』の耳元でグッサリと釘を刺されて、わたしは思わず、コクコク頷いてしまった。
目をつぶってても分かる。凄まれてるって。
――クレドさんの切れ長の涼しい目は、きっと、刃のような光を浮かべているだろう。
わたしの反応に満足したのか、クレドさんの右手がゆるりと離れて行った。
離れがてら、クレドさんの長い指が、わたしの顎のラインを意味深になぞって行く。わたしの全身は、いつの間にか震えていた。
――し、心臓が死ぬ……
オーバーヒートの限界を超えて跳ね狂っていた心臓が、ホントに止まったみたいだ。ドッと力が抜ける。わたしは、そのまま、身体がグラリと傾ぐのを感じた。
――それが、わたしの覚えている限りの、この日の最後の記憶だった。




