遠き記憶の夜の底・中
「起きてるのは分かってるんですよ。ウルフ族のくせに、タヌキ寝入りの真似をしないでください」
――屋上階の庭園の各所には、適当にベンチが配置されている。
わたしは目下、そのベンチのひとつに横たわって、少しの間だけ気が遠くなっていた。横たわったお蔭で脳みそに血が戻って、早々に頭がハッキリして来ていたと言うのが実情。
クレドさんが何やら喋ってるのは分かるけど――目をつぶって死んだふり、死んだふり。
――あぁ、夜風が死を運んでくる……
やがて、クレドさんは溜息をついたらしい。身をかがめてくる気配がした。
次の瞬間、『ウルフ耳付きヘッドリボン(黒)』の隙間にクレドさんの指が入るのを感じた。体温の気配が急に接近し、クレドさんの、クセの無い髪らしき物が頬に触れる。
クレドさんは、わたしの『人類の耳』の傍に口を近付けて来たらしい。
わたしの『人類の耳』のすぐ傍で、妙に艶やかさを増した低い声が響いた。
「今、目を開けないと、ルーリーの『耳』を撫で回して、もっとすごい事をしますよ」
――それは怖いッ! 『もっとすごい事』って、いったい、何!
ドッキリするままにバッと身を起こすと――
クレドさんは少しアサッテの方を向いて、『記憶喪失の影響範囲は深刻ですね』とか呟きながら、意味の良く分からない溜息をついて見せて来た。
ま、まぁ、それなりに呆れてるって感じ……かな?
クレドさんは再び、器用にわたしを片腕抱っこで抱き上げると、屋上の空中庭園を歩き出した。
……うぅ。悶々しちゃう。
クレドさんの方が年上で、経験値も上だって事を、いやが上にも実感させられると言うか……わたし、物理的にも心理的にも、クレドさんの手の中で転がされちゃっているなぁ。
わたしは観念した気分になって、そろりと周りを見回すのみだ。
そこかしこに低い植え込みの列が続いていて、その間で夜間照明がボウッと光っている。明かり取り用の天井窓と思しきツルツルのガラス窓の部分が、夜間照明の光を反射してきらめいていた。
螺旋階段の下の公共スペースに比べると、人影は、まばら。
天球の無数の星々の光が降り注ぐ――静かな空間だ。
クレドさんが、少し向きを変えて佇む。
「――あれが『連嶺』です。超古代の大激変で天球の回転軸がズレる前は、ほぼ天頂を横断する、巨大な『天の川』だったと言われています。人類が絶滅する前の時代は、『銀河』とも呼ばれていたとか」
遙かなり『連嶺』――地平線の彼方、何処までも横たわる、濃密な星々の帯。
スカイラインの向こう側に、星々の大海が広がっているように見える。息をのむ程に、壮麗な眺めだ。
やがて、クレドさんは、押し殺したような声で呟いた。
「――《宝珠》というのは、時として残酷ですね」
わたしは、ジッと動かずに耳を傾ける事にした。
或る程度は――覚悟はしていた。やっぱり、失恋っぽい。
これまでに聞く所によると、《宝珠》ってホントに唯一の人って感じだし。
レオ帝国が出来る前からの獣人の諸族の伝統なんだろう、レオ族の方でさえ、その《盟約》に敬意を表し、ハーレム勧誘を断念する――というくらいだもの。
そして、『かの御方』がクレドさんの《宝珠》に違いない。到底、わたしが踏み込める関係じゃない。
クレドさんの呟きが続く。
「6年前――もう7年近くなりますが。私は《宝珠》と――『かの御方』と出逢いました。私はまだ声変わりも済ませていない少年でした。彼女は私より年上でしたが、当時は訳あって体調を崩していたと聞くだけあって、驚くほど小柄に見えました。いささか成長が遅れていた少年だった私と、それほど身長も変わらず」
――随分、小柄な人だったみたいですね。
「ウルフ族・金狼種、それも貴種を思わせる――美麗系の容貌でした。最初の頃は、食欲が異常なまでに低下していて表情も死んでいましたが、次第に表情が出て来てみると――今のルーリーみたいに人相が良くて可愛い顔をする方でした」
――わたし、混血な童顔で平凡顔なんだけどなあ。それも、ほとんど系統不明とか、イヌ族って感じの。『容貌』とか『人相』とか『顔』って、同じ物じゃないの?
わたしが首を傾げると、クレドさんが振り返って来た。あ。尻尾が『それ、どういう事?』って、ピコッと動いてた。
「マーロウ殿がバーサーク化している時の、人相の変化を目撃したでしょう、ルーリー。貴種ならではの美麗な容貌を持っていても、人相が凶相だと目も当てられないですね」
――何となく分かってきたような気がする。そりゃそうだよね。存在の有り様が歪むと、人相も歪む。
クレドさんの、端的でありながら肝心なところがボヤけて分からない、不思議な説明が続いた。
数か月間、『かの御方』の近くに居る日々が続いた。その間、クレドさんは、彼女にだんだん魅せられて行って、遂には、少年ならではの物ではあるけど、恋心になって行ったらしい。
そんな或る日、ふとした事で、彼女の『茜メッシュ』の匂いを知るチャンスがあった。その時、彼女がクレドさんにとっての《宝珠》だと直感したという。
ウルフ族の男は、『茜メッシュ』の匂いを感じ取れるそうだ。『色に匂いがある』と言うのが不思議だけど、イヌ族の男も、だいたい感覚は似通ってるそうだから、イヌ科の特有の、魔法的な意味で言う生物学的構造が関係してるんだろう。
――あれ? と言う事は、わたしの『茜メッシュ』も、何か匂いがあるんだろうか?
クレドさんがチラリと流し目を寄越して来た。わお。何か色気を出してませんか?
「場所は完全に一致してますが――そう言えば、まだ調べてませんでしたね」
そう言って、クレドさんは『仮のウルフ耳』の根元から手を滑らせて、『茜メッシュ』をかき分けて来た。あれ?
「どうかしましたか、ルーリー?」
――どうって言っても……それ、さっきの『風のジェイダン』さんと同じ触り方ですよね。
クレドさんの眼差しが一瞬、硬くなったような気がしたのは、気のせいでは無いかも知れない……
努力して、ようやくの事で気を落ち着けた――と言う感じで、クレドさんは硬い笑みを浮かべ、『連嶺』の方に目をやった。
「物事は変わる物ですね。季節が変わり出したせいか、髪が急に伸びている。『茜メッシュ』が、注意すれば見えるようになって来ています――気付きませんでしたよ」
――そうだったっけ? 尻尾も何となくフサッとして来ているんだよね。確か、ジリアンさんが、言ってたっけ。ウルフ族の毛髪の伸びるスピードは速いとか何とか……
クレドさんの朗々とした声が、静かに響いて来る。あ。やっぱり良い声だ。
「さっきの人物――『風のジェイダン』殿は将来有望な人物です。『下級魔法使い資格』持ちの貴公子として、魔法部署に所属しています。彼は一時期、衛兵部署にも居ました。腕は立つ人ですよ。ザッカー殿が、自身の部隊にスカウトしようと考えたくらいには」
――成る程。クレドさんと同じような『隊士』かなと思った事は、間違いじゃ無かった。
聞いてみると、あの『風のジェイダン』って人、魔法部署のトップだという『風のトレヴァー長官』からのメッセージと言うか、『お尋ね』を持って来ていたし、エリート役人って感じだなあ。
ホントにエリート役人かも知れない。グイードさんとチェルシーさんにとっては、宮廷内の顔見知りって言うくらいだし。
ジェイダンさんは、物腰がすごく洗練されていたし、本物の素敵な貴公子そのものだった。そんな素敵な人が、一般庶民でヘボなわたしに、興味関心を持つとは思えないんだけど。
そんな事を考えている内に、ヒンヤリとした夜風が、再び吹き抜けた。先刻より気温が下がったみたい。
クレドさんが右手で、わたしの頬を『プニッ』と摘まんで来た。ほぇ?!
「ななな……?!」
「尻尾の方で、他の男の事を考えるんじゃありません。そう言うのを『猫又』と言うんですよ」
――はぁ?!
ちょっと目が据わってませんか。それに、ジェイダンさんの話題を始めたのは、そっちでしょう、訳の分からない事を言ってませんか、クレドさん?!
やがて、クレドさんは頬を摘まむのを止めた。遠く『連嶺』を眺めつつ、窺いがたい思案顔をしている。
「ひとつだけ、今でも分からない事があります。考え続けては居るのですが――」
そこまで呟いた後、クレドさんは不意に、わたしの方をまっすぐ振り向いた。ドキッ。
「昔の……あの最後の日、『かの御方』は――彼女は、私の分の『道中安全の護符』に、ルーリエ花を挟んで来ていました。誰にも分からないように」
……道中安全の護符……? そこに、ルーリエ種の、あの小さな瑠璃色の六弁花?
「ルーリーだったら、どういう意味を込めてルーリエ花を挟みますか?」
……ふむ?
クレドさんは、何人かのグループで『かの御方』の元を訪れていたそうだ。『かの御方』というのは、滅多に会えない女性だったそうなのだ。御尊顔を拝めたのも奇跡らしい。
3人か4人の、老若のグループに混ざって、彼女の元を訪れていた――
――と言うと、……家族連れとか親戚づきあいだったのかな?
それにしては――随分と疎遠な関係のようにも思えるけれど。




