血みどろの点と線・前
――商品倉庫スペースを兼ねる、空き地。それは、中央病棟の中庭広場の隅に広がっている。
授業を終えた子供たちの昼下がりの遊び場となっていた、その空き地は、今や無残な死体の発見現場だ。
死体の周辺は、現場保存のために地面に描かれた黄色のラインで結界されている。緊急配備された紺色マントの衛兵たちの手による物だ。
本降りの雨は、なおも降り続けていた。一方で、雨雲には切れ間が現れ始めている。日暮れ前には雨が止むだろう。
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空き地の端、大樹の下に落ちて来た血みどろのウルフ族の衛兵の死体。
その衛兵の死体を検分している、紺色の着衣の衛兵と役人たち。軍装姿の衛兵と、文官姿の書記担当者が入り交ざっている。
書記担当者は上司と部下の2人だ。羽織っているのは紺色マントじゃ無くて、マーロウさんもまとっているタイプの、裾が長めの紺色ジャケット。襟や袖口に施されたハシバミ色のラインの数が、2人の地位と立場を示している。上司の方は3本ラインで、部下の方は2本ラインだ。
死体を取り巻く捜査チームの中で目立っている2つの灰色ローブの人影は、緊急で駆け付けて来たディーター先生と、現場に居合わせていたフィリス先生。2人とも専門の医学知識があるから、問題の死体の検死に、引っ張り出されていると言う訳。
空き地のもう一方、黄色の結界ラインの外側では、ユニフォームも私服も年齢層も様々な野次馬たちが、口々にざわめきながらも、捜査チームの作業を見守っている。
衛兵たちは傘を持っていないけれども、野次馬たちは全員、色とりどりの傘をさしたり、雨合羽を羽織ったりして、本降りの雨をしのいでいるところだ。
――わたしも、チェルシーさんと相合傘になった状態だ。本降りの雨にサンダルと素足を濡らしながらも、野次馬をやっている。
足はスッカリ冷え切っているし、歯の根も合わない状態なんだけど、そんな事は全然、気にならない。だって、目の前で、木の上から血みどろの死体が落ちて来たんだよ。気になって気になって、病室に戻るに戻れないじゃ無いか。
マーロウさんは蒼白になって震えているチェルシーさんの傍に居ようとしていたんだけど、高位の文官のユニフォームをまとっていた事が、他の野次馬の目には『彼は詳しそうだ、質問し甲斐がある』と映っていたみたい。
マーロウさんは、次々に押し寄せて来る勘違いな野次馬たちへの対応で、手いっぱいだ。ちょうど、死体の方で手いっぱいな捜査チームの一員として、野次馬の整理に当たっているという所。
マーロウさんは、とっても上手に野次馬たちをさばいている。さすが、3本ラインのユニフォームをまとう実力者だなあ。
メルちゃんは、無残な死体を間近で目撃したショックの余りか、まだ子狼の姿を解いておらず、わたしの足元でブルブル震えている。わたしは、ようやくメルちゃんの存在に気が向いて、震え続ける黒い毛玉を、そっと抱き上げた。メルちゃんは泥だらけだけど、大人しく抱っこされるままだ。
ヒルダさんがチェルシーさんの傍に寄って、小声で話し出した。
「チェルシーさん、あの衛兵、多分、バーサーク化したウルフ族の男にやられているんじゃ無いかと思うの。さっき、ちょっと角度がズレて……喉……、喉の骨が見えたわ。喉笛を噛み切るなんて……バーサーク化したウルフ族の男の……、いわゆる『狼男』の殺し方よね」
チェルシーさんの顔色は、更に蒼白になっている。まるで青ざめた白いシーツだ。今にも倒れそう。大丈夫かな。
――そこへ視線が向いたのは、偶然だった。
ほとんどの子供たち――『ガキ大将』な子供たちも、子狼や子犬の姿のままだ。そして保護者たちの足元や腕の中で、メルちゃんみたいに、尻尾を丸めてブルブル震えているところなんだけど。
1匹だけ、震えていない子狼が、居る。保護者の姿が見えないんだけど、勇敢にも真っ直ぐに死体を見つめている子供……子狼が居るのだ。
黒色に灰褐色が多く混ざっている毛皮のせいで、全体的に『濃いめの灰褐色』って感じのカラー。目の色も灰色に近いけど、黒狼種だと思う。
――あの子、10歳のメルちゃんと同じくらいかな? 少し大きい気もするから、2つか3つは年上……茜メッシュが無いから、男の子かも。
ジッと見ていると――その灰色な子狼は、わたしの視線に気づいたみたい。わたしと視線がかち合うと、途端にギョッとしたのか、カパッと口を開けた。そして、あっと言う間に野次馬の群れの中に飛び込み、姿をサッと消してしまった。
――何だったんだろう?
その、見事なまでの、姿のくらまし方、気配の消し方。訓練が入っているのでは無いかと思うくらいの、身軽な動き。
見た事があるような気がする。
しばらく考えていると、『それ』を何処で見かけたのか――が、パッと思い出されて来た。
地下牢から地上に運ばれてきて、そのまま、今の病室に運び込まれたばかりの時。朦朧としたまま、ベッドの上から見た事がある。
――窓の外にヒョイと出て来た、子犬のような四つ足の影。あの時は夕暮れで、しかも逆光だったから、まるで分からなかったんだけど。あのヒュッとした動きは、あの不思議な子狼の身のこなし――そのものだ、と確信できる。
いつか、また、あの子と会えるだろうか。そして、話が出来るだろうか?
――いや、今は、それどころじゃ無かった。
「すげえ死体。血みどろで血まみれじゃねーか」
場違いな程の――あっけらかんとした声音が降って来た。驚いて、そっちの方を見上げる。
予想通り、そこには『火のチャンス』が居た。やたらと腰の軽い浮気者な、トラブルメーカーの金髪の、赤サークレットを装着したイヌ族の男。
チャンスさん、こういう野次馬騒ぎには目が無いみたい。
気が付くと、雨は既に上がっていた。空は、すっかり夕暮れの色だ。切れ切れになった雨雲が、いっそう見事な茜色に染まっている。
死体の、当座の検死も済んだみたいだ。ディーター先生と、書記担当をしている3本ラインの高位役人が、半透明のプレートを使って、詳細をやり取りしているのが見える。
フィリス先生の作業は、一段落したらしい。フィリス先生はディーター先生に一声かけた後、急ぎ足でわたしの所に来てくれた。
「ルーリー、とりあえず総合エントランスの方に戻りましょう。捜査チームの人が、おいおい目撃記録をまとめる事になっているの。後で、ルーリーのところにも事情聴取に来る予定よ。メルちゃんも泥だらけだから、お風呂に入れる必要があるし。それに、すぐにポーラさんが迎えに来る筈だから」
――分かりました。
フィリス先生は、チェルシーさんやヒルダさんにも声を掛けた。
チェルシーさんもヒルダさんも蒼白な顔色ながら、捜査チームの目撃記録の作成に協力する事に、同意している。2人とも王宮侍女としての訓練と経験を積んでるし、目撃証言者として最適なんだって。マーロウさんも、目撃証言者としてピックアップされている。
ひととおり連絡事項をおさらいしたところで、やはり場違いな『火のチャンス』さんが、しゃしゃり出て来た。
「なーなー、俺には声掛けは無いの、フィリス嬢?」
「貴殿は、死体が出て来た時、此処には居なかった筈よ、『火のチャンス』。余計に首を突っ込んで、事態を複雑にしないでくれれば、それだけで私は助かるの!」
チャンスさんは、ウルフ族男性とそれほど変わらぬ長身をかがめ、なおも巻き尾を振り振り、『お誘いポーズ』を続けている。
「ありゃあ、『狼男』に襲われてる死体じゃねーか。衛兵がやられるなんて、この辺も安全じゃ無くなったな。なあ、愛しいフィリス嬢、この俺に《宝珠》を捧げてくれれば百人力に千人力、俺がフィリス嬢をガッチリと守護してやれるぜ」
――クダクダ言ってるけど、要は、昨夜のナンパの続きだ。こんな場でも基本に忠実なチャンスさん、却って感心しちゃう。
フィリス先生の方は、さすがに異常事態が続いて気が参っていたみたいで、チャンスさんの『ナンパ・セリフ』をボーッと受け止めている。
チャンスさんは何故か、それを『承諾』と誤解したみたい。いきなり目がキラーンと光る。
わたしとメルちゃんが――ヒルダさんとチェルシーさんも――頭の上に疑問符を浮かべながら呆然と見守っている内に、チャンスさんは素早く、フィリス先生の左手、それも左指の根元に、シッカリと口づけをしたのだった。
後方で見守っていたマーロウさんが、驚きの声を投げて来る。
「もしかして《宿命の盟約》――」
チャンスさんはフィリス先生の顔を両手で固定して、次の行動に移ろうとしていた。