地下牢
――万事、休す、か。
わたしは目下、地下牢の石の床の上、うつ伏せになって、グッタリとのびてる状態。
何故、あの噴水広場に居たのか分からない――という事が、そんなにいけない事だったの?
ゴツゴツした石の床は冷たく、裸足は、みるみるうちに氷みたいに冷えて行った。
時に悲鳴となって響いて来る呻き声に、なおさらに恐怖が増す。
凄惨な呻き声が収まるたびに、今度は自分の番なんじゃ無いかとビクビクし通しなものだから、全身の毛がすっかり逆立ってしまっている。
天井の隅に開いた細いスリットから洩れる陽射しの角度は、先ほどよりも浅くなっているみたいだ。わずかにオレンジ色も混ざって来ている。
――あそこまで、手が届くだろうか。
首に掛かっている首輪は金属製で、冷たくて重い。太い鎖が付いているから、なおさらだ。わたしは両腕両足を突っ張り、ヨロヨロと身体を浮かせると、四つん這いになったまま、ヨタヨタと端に近寄った。
ゴツゴツの壁に手を掛けて、立ち上がってみた。
背を伸ばしてみた。
次に、腕を伸ばしてみた。
爪先立ってみた。
――とっても、届かない。
思いっきりジャンプしても、思ったように飛び上がれない。身体各所をきつく締め付けて来る濃灰色のチュニックのせいでもあるし、金属で作られた首輪の重量が加わっているせいでもある。
それに。
改めて見回してみると、この地下牢、全体的に大づくりなのだ。地下スペースなのに、天井がやけに高い。ウルフ族の男たちの、あの見上げるような背丈を標準としているに違いない。
この身体は『子供』と判断されただけあって、小柄な方なのは確からしい。見える部分――手の指や、濃灰色のチュニックの袖に包まれた二の腕を確認する限り、あの人たちみたいに筋骨隆々とは到底、言えないし。
何度目かのトライの後、感覚の失せた足がもつれ――尻餅をつく。バランスが崩れて横に倒れそうになり、咄嗟に頭部を庇った。『べしっ』という衝撃が、胴体に走る。
――やっぱり、痛いよう……
身体が変な風にカクカクしていて、上手く受け身のタイミングが取れなかった。胴体の別の部分を、強く打ち付けたみたいだ。ゴツゴツの石の床のせいで、腕にも脚にも何か所も出血を作ってしまって、なかなか起き上がれない。
あの人たちみたいに、わたしも尻尾が生えていたら、もうちょっと上手に身体のバランスが取れていたかも知れない。この『尻尾の無い身体』は――本来の重心が取りにくいと言うか、微妙な違和感があるのだ。何故だか、そんな気がする。
相変わらず頭部にあるのは、異様な金属の感触。ヘアバンドやターバン――幅広のカチューシャのように、頭頂部から耳のラインをグルリと覆う形で、頭部を保護しているかのようだ。
先ほどの記憶を、慎重に思い出す。
あの金髪で純白マントの『殿下』には、わたしの姿は『完全な人体に変身したイヌ族』のように見えたらしい。でも、この妙なヘアバンドがあるから、頭の左右にイヌ科の耳なり何なりが、出て来ないのでは無いだろうか?
これは、頭部の保護のためでは無いような気がする……
わたしは再び、冷たい石の壁に手をついて、ゆっくりと身を起こした。
ヘアバンドのせいなのか、前髪がバサッとかぶさっていて、ちょっと見通しが悪い。改めて毛先を見てみると、黒だ。わたしは黒髪らしい。後ろ髪に手を滑らせてみる――
髪の先に、手が触れた。顎ライン辺りで、バッサリと短くなっている。
――『子供』と言われたのも納得の、坊主頭だ。
ザンバラな毛先を触って調べているうちに、急にギョッとする。どうも、元からこの髪型では無かったらしい。先ほどまでハサミが入っていたのでは無いか――という感触がある。
――最近、髪の毛を切っていた……?
手の違和感がしつこい。フラフラと手を動かしてみる。元々の髪の毛は、腰のラインまであったのでは無いか――という事を、その違和感は無言で告げている。そんなに長いという事は――
――そう言えば、わたしって男だった? それとも、女だった?
しばらくグルグルと考えた後――手で胸をペタペタと触ってみる。
濃灰色のチュニックの硬い布地を通して、かすかな盛り上がりが感じられた。
何とも頼りない存在感ではあるものの、それでも――男には有り得ぬラインだ。
性別の記憶すら、薄くなっていたらしい。ひとつの事実が判明したところで、今の状況が変わる訳では無いけれど。
「隠密の――『転移魔法』使い?」
不意に、背後から、聞いた事のあるような無いような、朗々とした滑らかな声音が飛んで来た。
うろたえながらも身を返し、天井のスリット直下の石壁に背を張り付ける。
入り口の仕切りとなっている鉄格子が、いつの間にか開いている。背の高い人物が1人、そこに居た。
ウルフ族の男だ。頭の左右に黒いウルフ耳。背が高く、髪は――黒い。その漆黒の髪にはほとんどクセが無く、真っ直ぐに流れていて、うなじで一つに結わえられている。
もうすっかりお馴染みな感じのする、短い紺色マントと袖なし着衣のセット。脚の間には、チラチラと黒いウルフ尾が見える。素人目にも分かる、隙の無い端正な立ち姿だ。
――いつ、入って来たのか。
地下牢の鉄格子の扉を、音も無く開けるという事自体、異様な違和感を感じざるを得ない。
男は、無言で腰のホルダーに手を掛けたまま、ひたと動かぬ強い視線を投げて来る。
闇を切り取ったかのような黒い目には、いわく言いがたい鋭い光があって――
強い感情が込められているみたいだけど、それが何なのかは分からない。切れ長の涼しい目元をしていて、余裕で美青年の範疇に入る均整の取れた顔立ちだけど、ピクリとも表情が動かないから、むしろ彫像のように見える。『殿下』とは違い、感情の読めないタイプっぽい。
不意に、記憶がよみがえる。
この人は、『殿下』の傍に駆け付けて来た5人のうちの1人だ。少し喋っていたから……
――これから、拷問が始まるとか……?!
自分でも、ザーッと血がひいていくのが分かる。恐怖の余り、真っ青な顔色をしていると思う。こんな時だけど、尻尾が生えてたら、多分その尻尾は限界まで丸まって縮こまっている所だよ。
距離を取るべく、壁に背を張り付けたまま、じりじりと立ち位置をスライドする。
首輪についている鎖が、ピンと張った。この鎖の端は柱に固定されているから、それ以上は移動できない。
男は、不意に腰の物を抜いた。
思わず身体が強張る。
そこにあるのは、肘から指先までの長さの、ただの『警棒のような物』に見えるけど――
一瞬のうちに間を詰められ、肩をつかまれて固定される。足音も空気の流れも全く無かったから、男がいつ移動したのか、全然分からなかった。
つかんでくる手は乱暴では無いけれど、超人なみに筋力があるのか、ジタバタしてもピクリとも動かない。愕然としているうちに、『警棒のような物』は数回、頭部をグルリと覆う金属製のヘアバンドに触れながら淡く光った。
途端に、金属製のヘアバンドがギリリと締まった。頭部を砕かんばかりに、きつく締め付けて来る。
「――痛い! 痛い!!」
ミシミシと、頭蓋骨が不吉な音を立てた。これが『拷問→処刑』じゃ無かったら何だと言うのか。
しゃがれた叫び声をあげ、頭を抱え、もんどりうって倒れ――
しかし、ゴツゴツの石の床に激突するような衝撃は、来なかった。
――?
異様な金属製のヘアバンドの締め付けは――今は、消えてるみたい。