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涙ながらの相談と検討・前

翌朝になっても、ディーター先生は、わたしが入っている病棟の隣の研究室に戻って来なかった。色々忙しいのだろう。


フィリス先生の方も、中央病棟から朝一番で『検討会議』の連絡があって、中央病棟に出張中。


その検討会議の議題は、前日の『イヌ族かウルフ族か、見分けが付かない急患(男性)』について。


くだんの紛らわしいイヌ科の男は――このキナ臭い時期だけに――急患を装った忍者の可能性があって、ロック付きの処置室に留め置きになっている。


わたしの場合と同じように、体内エーテル状態が大きく乱れて衰弱していたんだけど、当座の処置で容体は安定したそうだ。それで、このイヌ科の男をどうするか、朝一番の会議で検討する運びとなったと言う。



――と言う訳で、わたしは1人で朝食を取っていた。


朝食が終わるが早いか、食器を下げるためのワゴンと一緒に、ビューンと飛び込んで来たのはメルちゃんだ。


メルちゃん、今日は私服のワンピースだね。相変わらずピンク色。


「ルーリー! 宿題に付き合って~!」


……はい?!


ふんわかした黒髪を振り乱して、涙目になって、如何にもタダ事じゃない様子だから、一瞬『何があったのか』とビックリしたよ。


何でも、今日は授業の日で、『正字』なるシロモノの書き取りの宿題を提出しなければならない、と言う。


一般に使われている『略字』は、町の中で育っているうちに自然に読み書きして覚える。それに対して、『正字』の構成は複雑で、キチンと概念を理解して読み書きの練習をしないと、正しく綴れない。


この『正字』は、公的機関では必須のスキル。


魔法加工に耐えられる文字でもあるので、大量の文書を魔法的に圧縮して保存する時に便利だし、あとで魔法で検索して展開する時にも便利。役所の公文書は、『正字』で清書するのが絶対だそうだ。他種族とグローバルに文書でやり取りする時にも、大活躍する。


――それは便利だけど、何だか大変そうな文字だね。わたしに分かるかなあ?


メルちゃんが持ち込んで来た『正字』の教科書を一読する。魔法陣が連続しているような文字だなあ。想像以上に複雑怪奇。これ、本当に文字なんだろうか。そのまま、高難度の刺繍パターンの図案に使えそうなくらい、入り組んでる。


――ん? んんん……?!


「読める……」

「分かる?!」


何かビックリだけど、この複雑怪奇なパターンの羅列、全部パパッと分かる。手で書く事も出来そう……と言うか、これ、スラスラと書けるような気がする。何故なのか自分でも分からないけど。


メルちゃんが、手頃なペンとペーパーを持って来てくれた。とりあえず、メルちゃんの宿題に取り組んでみる。



一、雷電シーズンに備えて窓ガラスに設置する『雷電シーズン防護』の図式。


二、中級魔物の侵入を一時的に防ぐ魔除けの図式(応用:無限に展開する事を考慮し、切れ目の無いパターンとなるように構成せよ)。


三、盗賊撃退のための電撃ロックの図式(応用:手の平サイズの護符にする場合も構成せよ)。



どれもこれも、たぶん、市井では必須だけど教えきれない、『正字』の組み合わせなんだろう。大人向けの入社試験並みにハードな内容みたいだけど、『町で定職に就く』という将来の可能性も兼ねて、良く考えられた宿題だと思う。


普通は『魔法の杖』でパパッと描くそうなんだけど、わたしは頭部に装着されている『呪われた拘束バンド』のせいで、文字を構成するための魔法の発動すら出来ない。定規もコンパスも無いから、フリーハンドで構成するしか無いけど……まあ、やれる限り、慎重にやってみよう。


いずれにせよ基本は、エーテルの反射、屈折、散乱の軌道をキチンと組む事だ。魔法パワーの流れをデザインする事でもある。『正字』が魔法加工に耐えられるのは、『正字』それ自体が、エーテル魔法陣の要素でもあるから。


「……うーん。こんな風になるかな?」

「手書きなのに、すごいピシッとした幾何図形が書けるのね、ルーリー」


ゼロからの構成プロセスを順番に見られたお蔭で、メルちゃんも理解が進んだらしい。それは良かったね。


メルちゃんの最初の回答を見てみると、幾つか誤作動やエネルギー漏出の原因となる配線が入っている。ギリギリ及第点なんだけど、魔除け効果に関しては命が掛かってるだけに、このレベルだと効果が薄くて戦えないかも……


――不意に、病室のドアが開いて閉じた。ビックリして、そちらを見ると――


フィリス先生が戻って来ていた。朝一番の仕事に一区切りついたみたい。お帰りなさい。


「メルちゃん、来てたの? 今日は授業の日でしょう。そろそろ行かないと遅刻するわよ?」

「フィリス叔母さん、ルーリー凄いよ! 手書きで『正字』パパッと書いてくれた!」

「手書きで『正字』? まさか」


半信半疑といった表情をしたまま、フィリス先生は、わたしが描いた『正字』のあるペーパーを一瞥した。


瞬間――フィリス先生の目が、大きく見開かれた。


「ルーリー、これ本当に手書きで構成したの?! ゼロから?!」


――まあ、一応。それ、ブランクのペーパーにペンで描いて行った物だから、機械仕掛けや転写の類じゃ無いって言うのは、一目で明らかだと思う。記憶違いがあったらいけないから、教科書も見て確認はしたけれど……


「この魔法陣、そのまま実戦に使えるレベルだわ。普通のペーパーだから長く持たないけど」


フィリス先生は、キョトンとしているメルちゃんを急かして授業に行かせた後も、わたしが描き出した『正字』をためつすがめつ、眺め続けていた。


「あの、何か問題でも……?」

「……ビックリしただけよ。こういうの、目をつぶっても書けるかしら?」

「目をつぶってたら、配線とかは、ズレるかも知れませんけど……?」

「という事は、個別の幾何図形であれば、もしかしたら暗闇でも描けるかも知れない?」


――それは……さすがに、どうなんでしょう。ちょっと分かりません。


「そう。とりあえず、ルーリーが隠密レベルの転移魔法陣を形成できた可能性は、少しはある……と思っても良いのかも知れないわね。ルーリーは、魔法使いコースの弟子だったのかしら? 16歳でこのレベルだとすると、英才教育コース――でも、英才教育コースの若手は、全員、王宮の方だし……今は『茜離宮』に移ってるけど」


フィリス先生は半信半疑ながらも、わたしの『正字』の正確さについては、シッカリと呑み込んだみたい。


早くもディーター先生の研究室にある魔法のスクリーンの前に連れて来られて、ウルフ王国の紋章の魔法署名データを見せられた。それに、様々な役所の印章の魔法署名データや、圧縮処理や機密処理のための暗号フレーム・データも。


作業机の上にあるのは、魔法加工ペーパーに、魔法加工のインク。これを使って、『正字』と『魔法陣』を組み合わせて、清書する必要があると言う。各部署で使う魔法の公文書フレームになるんだって。うわぁ、良いの?


「魔法の公文書フレームの作成が、バイト代が一番良いのよ。就職活動中の下級魔法使いの、一番の小遣い稼ぎね。5日間の食費ほどなら、1日で稼げるわ。とりあえず、中庭広場のお店が開く時間まで、やってみて頂戴」


そんなに実入りが良いんだ。『正字』スキル、ビックリ。


*****


清書を頑張った。


ひたすらカキコして、カキコした。


面倒くさいから、手書きの魔法陣でもって圧縮タイプに出来る部分は、最大限まで圧縮できる魔法陣デザインを新しく考案して、効率的に詰め込んでおいた。スタンダードな印で仕上げてあるし、ちょっと突けばパッと展開できるタイプだから、受け手の方でも読み取りやすいし、分かりやすいと思う。


一刻ごとに反転する砂時計が、5回ほどクルリと回るのを見たような気がする。


再び外の仕事に行っていたフィリス先生が戻って来て、顔を出して来た。


「そろそろ一区切りにしましょう、ルーリー。中庭広場の衣料店でルーリーの街着を調達するから、一緒に来て頂戴。お昼も、そこで済ませる事も出来るし」


わーい。やっと休憩という感じだ。書き上がった分は、各部署ごとに整理して、転移魔法陣で使う専用パックに詰めて、物品配達コースで、各宛先へ転送できるようにしておく。中央病棟の総合エントランスに受付があるから、そこで、配達を依頼する。


今日はワゴンを歩行器にしなくても出歩ける感じ。でも念のためという事で、転ばぬ先の杖をシッカリと突いて、お出掛けだ。ちょっとした変化なんだけど、『独り立ち』の可能性が少しずつ感じられて来るし、気分が浮き立つ。


総合エントランスでは、前日と同じように、通院を済ませたチェルシーさんと行き逢った。相変わらず上品な、金髪のシニア女性だ。


フィリス先生とチェルシーさんが早速、立ち話を始めた。


数日前、チェルシーさんは、街角に沸いた害虫――これが有毒の下級モンスターで、町内の専門業者が駆除して回る騒動になっていた――と遭遇して、腕に結構な怪我をしてしまっていた。此処『茜離宮』付属・王立治療院で注意深く治療を受けていたけど、今日、包帯が取れたと言う。完治おめでとうございます。


――そう言えば、チェルシーさんって、確か、既婚者だっけ。


『女の方の左薬指に《盟約》のサインが出るの』


昨夜のメルちゃんのセリフが、パッと思い出された――チェルシーさんの左薬指にも、何かあるのか。


――ある。


チェルシーさんの左の薬指に、茜色のラインが浮き上がっている。茜メッシュと同じように、不思議な深みと輝きを持っている色合いだ。割と幅広の結婚指輪みたいな感じ。チラッとだから良く分からないけど、クルクルした曲線とか、レースみたいな微細なパターンとかが詰め込まれていて、意外に複雑なデザインになっている。


やがて――チェルシーさんは、フィリス先生とわたしが中央病棟の中庭広場に行く用事を聞いて、ルンルン気分になった様子だ。


「あら、ルーリーは街着を調達するの? まあ、何だか楽しそうだから、私も付き合おうかしら。女の子の服を見立てるなんて、ジリアン以来だわ、ウフフ。子供は2人居るんだけど、何故か、どちらも男の子でね。今じゃ、こーんなにノッポになっちゃって」

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