3.差し入れ
「遅かったじゃねえか。残業かよ」
口から出た言葉が思ったより激しかったから、自分で驚いて目を開いたら、同じように大きく瞬きをしたその人が、ぐっと口を結んだ。
「……」
「あ、えっと。今日は来ねえのかなって、何かあったのかなって……」
何を言ってるんだと店員の立場を思い出して、しどろもどろで続けてから、諒は持っていたおしぼりをどうにかテーブルへ置く。
「……今日は、忙しくてな。気が付けばこの時間だった」
少しの沈黙の後で言葉が返ってきて、ふいと瞳が逸らされる。
「そっか。大変、だったんだな」
「……」
いつもの席、空いているのは一人で来た客を自分がここへ案内しないからで、望む人もいなかったのは、ただの幸運だった。
引き戸が開けられる度に目を向けて、その人じゃなかったら落胆が湧く自分に、しっかりしろと舌打ちした。
「えっと……ビールでいい?」
時計の針は二〇時三〇分を過ぎて、店の忙しさはピークで、後ろでは客の嬌声と大将の呼ぶ声がひっきりなしに流れていた。
「ああ。それと枝豆を」
だから、開いた扉からこの人の姿が覗いた時、ぽんと跳ねるような光が心の内側で生まれて、でも口から出たのはまるで責めるような言葉だったのは、拗ねている自分を見るようで恥ずかしかった。
「……」
隣の椅子へバッグを置いたその人は、いつものように取り出したスマートフォンを定位置のテーブル奥へ置いて、それからネクタイへ伸ばした指が、何だか力が入っていない気がした。
「今日は鯛があるけど」
突き出しの後はたいてい刺身を頼むのを思い出してそう言ったら、こちらを見ずに頷くから、胸でちらりと不穏な音が湧く。
「ひとまず、それで頼む」
小さな声が聞こえて、何て続ければいいか分からなくて、紙に書き込んだら黙って下がった。
「枝豆と刺身一つ」
厨房へ声を掛けてから自分も中に入って、生ビール用のジョッキを取り出す指に、勢いを込められなかった。
……怒ったかな。
あんな言い方したから。
客を迎える態度じゃなかったよな。
「……でも、あれくらいなら流してくれるんじゃねえの」
いつものあんたなら。
サーバーにジョッキをセットしながら呟きが落ちて、本当に何かあったのかなと、ちくちくと痛む胸で考える。
「……」
それでも、来てくれたんだよな。
なのに、俺は。
「――――そうだ」
胸に浮かんだのは、本当にただの思い付きだった。
枝豆の盛られた皿を手にした大将へ、顔を向けた。
「お待たせ」
ジョッキと皿を並べたら、一つ多いことに気付いたその人が、こちらを見た。
「これは」
「えっと、俺からの差し入れ」
イカゲソの唐揚げは、自分も食べたことがあるから、自信を持って出せると思った。
「差し入れ……」
「今日のおすすめの一つだぜ。美味いからさ、それ」
まっすぐに結べた視線は、こちらを捉えた眼差しがどこか眩しそうで、やっぱり先週とはちょっと違っていて、
「忙しかったんだろ」
さっきのお詫びだと素直に言えなくて、でも、伝わったらいいなと思った。
「……そうか」
ゆらゆらと、自分を映して揺れる光が見えた。
「……」
会えてよかったなんて、ただの店員で男の俺に言われたら、気持ち悪いだろ。
だから。
「それなら、頂くとするか」
小さな声が聞こえて、ふっと頬から強張りが消えて、
「ありがとう」
言葉と一緒に目尻がやわらかく流れて、胸から別の音が聞こえた。
「疲れてんだろ、顔に出てるぜ。それ食って元気出せよ」
喉が詰まるのを何とか口にして、くるりと背中を向けた。
「諒、テーブル五番さんだ」
大将の声が聞こえて、おうと盆を持ち直す。
とんとんと持ち上がる高揚を、気付かないふりをして足を出す。
「……」
また来ると、いつもの言葉が出ないのを、変に思わないよな。
梅雨の晴れ間だった今日は来店する人が多くて、気が付けばカウンター席もほぼ埋まって、注文取りと配膳に追われながらその人の元へなかなか行けなくて、他のバイトが呼ばれるのが視界に入っても、どうにも出来なかった。
「お前も飲めよ」
「ありがとな。仕事中だから今は無理だよ」
酔った常連が焼酎のグラスを差し出してくれるのを笑って断りながら、客が帰ったテーブルの片付けもあって、慌ただしく動き回る時間はあっという間に過ぎた。
賄いの時間だと大将に言われても「後でいい」とフロアから離れなかったのは、自分が居ない間にその人が帰るのが、嫌だったからで。
「大忙しだな」
手を挙げているのが見えて、紙を取り出しながら席へ行ったら、いつもより騒がしい店内を背中に呟いてからビールのおかわりを言われる。
「いいことだけどな。ビールだけでいいのかよ、飯も食えよ」
空いた皿へ手を伸ばして、何となく目を合わせられなくて、それでも引き止めるのは。
「そうだな。雑炊でも頼むか」
今日はあまり話せていないから、物足りないからで。
「わかった。待ってろ」
こんなの、店員として駄目だろと浮かぶのを、忙しさに回転し続ける頭で振り払う。
「あ、もうこんな時間」
「そろそろ出ようか。お腹いっぱい」
すぐ後ろのテーブルで二人組が口にするのが聞こえて、会計する客が増えたことも、気付いている。
「空いてはきたか」
時間を意識して欲しくないと思いながら、結局はこの人次第なんだよなと、店員と客の間柄が今さらのように覚束ない感覚を連れてきた。
「終電が近いからかも」
週に一度しか会えないことが、自分ではそれをコントロール出来ない事実が、今日はなぜか心を怯ませていた。
踏み込んでしまった自分を、消すのは無理だから。
「五十里、八番の片付けを頼む」
通り過ぎるバイト仲間が背中を突いて、その人がちらりと後ろへ視線を投げてから、「行ってこい」と呟いた。
「……」
もどかしいのは、きっと。
どこまで近付いていいのかが、解らないからで。
大将へ注文を伝えてからテーブルまで歩いて、皿を盆へ積みながら視界の端っこでずっとその人を捉えている。
……まだ、帰るなよ。
「あの」
奥の席から声が上がって、はっと顔を上げた。
「注文、いいですか」
二人掛けの席へ座る男が、いつものようにメニューを片手にこちらを見ていた。
「……はい」
盆を置いて仕方なく向かうと「雑炊を」と言われて素早く書き込んで、復唱してから離れようとすると、
「今日も元気ですね。よかった」
低い声を後ろからぶつけられるのを、無視した。
「……」
まだ居るのかよ、と浮かぶのを何とか留めて、テーブルへ戻る。
……今日も、帰る時間をずらそう。
数週間前の出来事が胸をよぎって、わずかに肌が粟立つのを堪えながら、男を見ないように盆を持って厨房へ入り、注文を伝える。
こんな奴がいるから。
あの人の存在は希望なんだと、カウンター席の一番奥に座る横顔を、ちらりと見た。




