29.いつだって、希望は
「お疲れさん。よく頑張ったなあ、諒」
ジョッキを三つ並べた武蔵が、枝豆の皿を持って戻ってくると大きな声で言った。
「……何もしてねえよ、俺は」
「耐えただけで十分だ。……きつかったな」
肩をすくめてから横を向く自分に、綾人の指が伸ばされる。
「おい、まだ店だぞ」
頭を撫でる綾人へ武蔵が笑って、「とりあえず乾杯からだ」とジョッキを持ち上げた。
「乾杯」
かちん、とぶつかるガラスの音で、ようやく意識が切り替わった。
一時、本当ならまだ開けている時間なのを、「今日は用事があってな、早仕舞なんだ」と武蔵が開店から客に告げて、さっき閉めたところだった。
「美味い」
喉が乾いていたんだ、と前と同じセリフを吐いた綾人が一気に半分ほど空けて、ジョッキをテーブルへ戻す。
「皆、帰ったのかよ」
少し前まで一緒に働いていたメンバーの気配がないことに気付いて、
「ああ。さすがに全部は教えてねえよ。来週、解決したと皆へ説明するつもりだ」
すぐ空になる気配のジョッキを手にした武蔵が、頷いた。
男が完全に消えるのを見届けてから二人で店へ戻って、「片付いた」と報告した時、大きく首を振った武蔵の顔は、綾人と同じように安堵より怒りを堪えていた。
「これしか、方法はなかったんだろうな」
無事でよかった、と大きな手で背中を叩かれて、三人でテーブル席へ座っても、まだ現実味が湧かなかった。
「見ていて思ったが、あれは一種の病気みたいなものだな、やっぱり。正論じゃ動かないし、届くこともないだろう」
武蔵の言葉に、ふうと息を吐いた綾人がスーツの上着を脱ぐ。
「……俺も、そう思う」
ぽつんと呟いたら、二人がこちらを見た。
「怖かったよな、お前は。常識が通じねえ相手ってのは」
「怖いっていうかさ、何か、意味が分からなくて。思い込みが激しいっていうか、こっちの言葉なんか聞いてないなって」
冷えたビールがいつもより感慨深くて、この夜のことは忘れないだろうなと、諒は思う。
……こんな、好きな人とふたりで立ち向かった現実の、決着なんか。
上着を椅子の背へ掛けた綾人が、
「あれがストーキングする人間の正体だろうな。自分の状態を相手のせいにして、それを理由にいつまでも執着するんだ。自分のことしか頭にない」
だからこうするしかないだろう、と静かに続けた。
「……」
照明を落とした店内で、こうして残るのも初めてで、二人の大人が大きく見える。
「ごめんな、真木さん。……こんなことさせちまって」
先週の金曜日、時間をかけて綾人が説明してくれたのは、あの男が綾人の存在に目をつけたことと、店へ来なくなったのはいい状態では決してない現実の予想だった。
「謝らなくてもいいと、言っただろう。気にするな、もう終わったんだ」
――彼氏だ。
何にも臆することのない、大きな背中だった。
「……」
ジョッキを大きく傾けた綾人がすぐに返すのを、「そうだぞ、諒。こういうのはな、周りの人間が助けるのが当たり前なんだ」と武蔵が頷く。
「綾人がなあ、店を出てからそいつが路地裏に居たって、すぐに気付いたのがよかったんだろうな。でもな、それでもう時間がないと思ったんだ。お前にも話すつもりだったが」
「最後はどうしてもお前に動いてもらうことになる。だから、少しでも安心出来る材料が欲しかったが……。ないよな、そんなものは」
二人が言い合うのを聞きながら、感覚が戻ってくればこの人たちが無事でよかったと、そこへ行き着いた。
……いつの間に綾人呼びになってんだよ、武蔵さん。
「うん」
自分も首を振ってから、ジョッキを掴むと口元へ運んだ。
「前も言ったが、親御さんには俺から改めて説明するからな。お前は余計なことをするんじゃないぞ」
そう言って枝豆を口へ放り込む武蔵に
「わざわざ話す必要はないんじゃないかと思ったが、違うな。もうないと約束出来ない以上は、知っておいてもらうほうが賢明だ」
綾人が同じ皿へ手を伸ばす。
「俺から話すことも出来るんだが……大将が言う通り、雇用主が出る場面だな、ここは」
「……そんなもんか」
職場で起こったことなら、そこの責任者が負うべきことだと口にした綾人を、思い出した。
「あ、大将、入れてこようか。真木さんも飲むだろ」
二人のジョッキが空になったのを見て腰を浮かしたら、
「もう勤務時間じゃねえよ。座ってろ」
笑いながら武蔵が制して、立ち上がる。
「何か作るか、つまみ」
「いや、これで十分だ。閉めた後まですまないな、大将」
言葉を交わす二人は、自分の知らないところでやり取りを続けていたのが、気さくな空気で伝わった。
――――俺は、一人じゃないんだな。
「ほんとに、ありがとな」
胸にこみ上げる熱で、大きな声が出た。
「ん?」
隣の綾人が自分へ顔を向けて、空のジョッキを掴む武蔵の手が止まった。
「その、俺だけだったら、どうなってたか分かんねえし。……二人が居てくれて、よかったなって」
注目されると恥ずかしくなって、下を向いた。
「……」
一人では、生きていけないから。
諦めなければ道はあると、俺は、知っているから。
こんな奇跡を大事にしたいんだと浮かんだら、肩へぽんと手が置かれた。
「それでいいんだ」
「おう」
優しい声が二つ耳へ届いて、黙って頷いた。
出会いは、邂逅は、いつだって希望を連れてくる。
……自分さえ、それを求めていれば。
「諒」
静かな声に呼ばれて隣を見たら、
「二人で、やっつける約束だっただろう」
とんと腕を突く綾人の涼しい顔に、心へ光が差して、思わず頬が上がった。
——やるなら二人で畳んじまおうぜ。
「そうだったな!」
この人で、よかった。
頷いた武蔵が「諒も飲め」と続けてから厨房へと背中を向けて、
「――そういえば」
肩から頭へ動いた指先が、髪を撫でる。
なんだよと首を傾げたら、
「今夜の用意はしてきたか」
綾人の顔が動いて、耳元へ寄せた唇から、囁く言葉が流れた。
「は?」
体を流れていたあたたかい余韻が、今度はぽんと沸騰する。
自分を見つめる綾人の瞳が、先週の夜と同じ色をしていた。
「し、してきた、けど」
「そうか」
上擦る声へ満足そうに頷く綾人の指先は、優しかった。
――来週も来れるか。
――うん。バイトが終わってからだろ?
「明日は、休日出勤はなしだ」
――泊まる準備をしておけよ。帰すつもりはないからな。
「……社畜じゃねえのかよ」
おい、と向こうから野太い声が聞こえた。
「まだ店だって言ってんだろ。そういうのは家でやれ」
飛んできた言葉に、綾人が大きく口を開けて笑った。




