28.決着
次の週の金曜日。二三時五十分。
夕方、自転車を駐めたのはこの間までよく使っていた路地裏で、薄暗いのが気になるけれど、店に近いのを優先していた。
駅前の駐車場は明るいし人が多いから安心ではあっても、暑い中を人に紛れて歩くのが億劫だった。
「異常はないな、よし」
置いた時のままの姿に安心して、ボディバッグを肩からかけ直すと自転車に屈み込む。
施錠してチェーンロックもするから盗難に遭ったことはないのが、以前は油断の元だった。
チェーンロックをハンドルへ掛けた、その時。
「あの」
声がして、はっと顔を上げると、目の前にあの男が立っていた。
「……」
さっと走る衝撃と緊張で、体が固まった。
今夜も店に現れることのなかった男は、最後に見た時とほぼ同じ格好で、ぬうと幅を取って歩道からの光を遮っていた。
「諒、さん」
饐えた響きの声は、店の中で耳にする時より数段低くて、こちらを見る瞳には暗い光がぼやけているのが、逆光でも分かった。
「なんだよ」
背中を起こして、自転車の横に立ったまま言葉を返すと、男の唇が横に広がってふふと息が漏れる。
年齢は四十代くらい、思惑が見えない表情と襟がよれたシャツは、男の心の内を伝えるようだった。
「いま終わりですか。いつも通りですね。先週は急いで店を出ていましたが、何かあったのですか?」
「……」
見ていやがったのか。
……何処から。
「なかなか話しかけるタイミングがなくて、苦労しましたよ」
店に来ないのは、諦めたからじゃなくて、第三者に邪魔されず俺と接触するためか。
答えない自分に構わず言葉を続ける男が、笑顔のままで足を踏み出す。
「……」
後ろは突き当りの壁で、灯りもないからこれ以上は下がりたくなくて、ぐっと地面を踏みしめる。
「前に誘った時は、断られましたが。今日はどうですか。一緒に、お酒でも」
「用事がある。どいてくれよ」
声を張り上げたら、男の体がぴたりと止まった。
「……」
幅の広い身躯の脇から見える歩道は、いつもの華金と同じく人の通りが激しくて、暗い路地裏で話す自分たちのことなど誰も気付かないようだった。
「どうして、駄目なんですか」
元の表情に戻した男が呟いて、「仲良くなりたいだけなのに」と拗ねたような声が聞こえて、背筋が寒くなった。
「やり方がおかしいだろ。本当にそうなら、待ち伏せなんかするかよ」
数週間前の衝撃を思い出しながら言ったら、目を眇める。
「だって、あそこでは普通の会話が出来ないじゃないですか」
「当たり前だろ、あんたは客だ。普通の会話って何だよ、何で俺なんだよ」
知りたかったことを口にしたら、
「何でって、あなたのほうが先じゃないですか」
表情を変えずに男が答えて、「え?」と眉を潜めた。
「あんなに人懐っこく、楽しそうに話しかけてきた癖に。諒さんじゃなかったんですか、俺と仲良くなりたいのは」
なぜか呆れたような調子で続ける男は、自分から視線を外さない。
「……」
「いざこっちが近付いたら距離を取るなんて、ひどいじゃないですか」
淡々と続く言葉に抑揚はなくて、口を噤んだらもう一歩男が足を進めて、被さろうとする影に思わず踵を下げる。
「……」
「……それなのに、あの男のことはずっと贔屓していますよね、諒さん」
次の言葉へ籠もる歪んだ色に気が付いて、はっと目を開いた。
「あの男の注文をいつも気にしてるでしょう、俺のところには来てくれないのに。カウンターの、あの男にばかりにこにこして」
どういうことですか、と届いた低い声には、別の感情が滲んでいた。
「……」
「もう仲良しかと思ったら、お店の中だけなんですね、よかった。最近来ませんね、あの男」
こちらを見据える瞳から、光が消えていた。
……真木さんのことまで、こいつは。
やっぱり。
「どうでもいいだろ、あんたには関係ねえよ」
大きな声で返したら、男が眉を寄せる。
どくどくと、心臓が嫌な音で鳴っていた。
「……どうしてそんなに警戒するんですか。大丈夫ですよ、大丈夫」
諒さん、と言いながらもう一歩踏み出すから、我慢出来ずに「来るなよ」と返したら
「ね、一回でいいんです。一回でいいから、僕と二人で」
「嫌だ」
腕が上がるのが見えて、まだ届かない距離だと分かっていても、限界だった。
「――もういいだろ!」
――その言葉が、合図だ。
叫ぶのが終わる前に、男の肩がぐいと後ろに引っ張られて、バランスを欠いた体が傾く。
「え」
「離れろ」
流れた声は男よりもっと低くて、底にある凄んだ響きが暗い路地裏を走った。
「は?」
後ろに立っていた綾人に気付いた男が頬を引き攣らせて、
「離れろと言っているんだ」
もう一度肩を突き飛ばされて、どすんと地面に尻もちをつく。
「……あ」
名前を呼ぼうとして慌てて口を覆って、そんな自分へちらりと視線を投げた綾人が、男との間に立った。
力が入って赤くなった眦と締まった頬は、一切の許容を排除した、容赦のない憤りが籠もっていた。
「無事か」
短く呟くのが聞こえて、どうにか「おう」と返すと、よろよろと立ち上がった男へ綾人が体を向けた。
「録画してある」
凄みの消えない声で出た言葉に、男の頬がまた攣った。
――この間、俺を監視していると分かった。店から駅まで尾いてきたからな。お前との仲が気になるんだろうな。だから店へ行くのは控えたんだ、思い詰めると暴走する可能性があるから。
――諦めた訳じゃない、店ではもうお前と話せないから、次は確実に外で狙ってくる。それが心配で、お前が自転車を駅前に駐めているのを、大将に確認してもらっていた。
「……え、え?」
顔が歪んで、おかしな声を出す男が自分と綾人を交互に見た。
「何処の誰かは知らないが、お前がしていることは立派な犯罪だ。このまま警察に突き出すことも出来るんだぞ」
その様子から目を離さず、男の視線から自分を遮るように動いた綾人のスラックスに、スマートフォンが見えた。
――大将と話していたのはこれだ。男の監視のことと、俺が店に行かない間、お前のことを頼むと。
――来週は自転車を前と同じところに駐めてみてくれ。俺が近くに居るから安心しろ。男が動いたら、証拠の録画を撮る。
「……」
事態を呑み込みつつあるのか、男の顔色がさあと青くなる。
「二度と現れるな」
冷たい声と、握り込まれた拳の、白くなった指が、綾人の怒りを伝えた。
「……」
真木さん。
――お前には、ちゃんと話すつもりだったんだが。俺が仕事で忙しくなってな、いろいろと後回しになってすまなかった。
「……あんたは、諒さんの」
一歩後ずさった男から、弱い声が聞こえた。
「彼氏だ」
躊躇わず言い切る勢いに、怯んだように上体を逸らした男がぱくぱくと口を開いて、また結んだ。
――子供だとは思っていないが、過保護だったかもな。不安にさせてすまなかった。……対等だからな、俺たちは。
「……」
こんなに大きかったっけ。この人。
スーツ姿の、皺のない綺麗な生地に包まれた背中は、初めて触れた先週の金曜日、見た目より筋肉が厚いことを知ったけど。
今はこれ以上ない程の、安堵であり信頼だった。
「……」
身動ぎもせずまっすぐに立つ綾人へ、よたよたと視線を彷徨わせた男が、ふいと顔を逸らすと踵を返した。
そのまま歩き出す後ろ姿へ、
「また近付いたら、次は確実に息の根を止めるからな」
投げられた綾人の声は、それが脅しではなく本当にそうするであろうことが、想像出来た。




