第7話「シン(伸二):続けること――斥候の少女」
転生三日目の朝は、空気が少しだけ湿っていた。
夜のうちに雨が降ったのかもしれない。石畳が鈍く光っていて、軒先から水がまだ落ちていた。シンは宿を出る前に剣の柄を一度握って、手首を軽く回した。関節が鳴る。十八歳の肉体に戻っても、この癖だけは抜けない。
ギルドに着くと、エミリアがいつもの笑顔でカウンターに立っていた。
「おはようございます、シンさん。今日はいいクエストが入ってますよ」
差し出された書類を受け取る。荷物運搬。隣村への物資輸送。食料品、衣類、農具。荷主は街の市場の商人で、道中の護衛もこめた依頼だった。
「合わせて、こちらも」
もう一枚。害獣駆除。同じ村で、農作物が荒らされているという。
「セットで受けると効率的だと思います。村まで半日。帰りは翌日になりますが……」
「受ける」
シンが答えると、エミリアが少し声を弾ませた。
「実は、今日はパートナーを探している方がいて。シンさんに紹介したいんですが、いいですか」
振り返ると、ギルドの壁際に弓と矢筒を背負った一人の少女が立っていた。昨日会ったビアだった。
「シンさん。昨日は急に失礼しましたですかね。斥候をやっています。弓と追跡が得意で、索敵は任せてもらえれば大丈夫ですかね」
シンは少し黙ってから答えた。
「改めてシン・タキシタだ。剣士。よろしく」
「よろしくお願いします」
ビアが頭を下げた。一拍置いて、また顔を上げる。
「シンさんって……熊ですかね」
「……俺は熊じゃない」
「そうですかね。静かで大きくて、怒ると怖そうな感じがするんですかね」
シンは答えなかった。エミリアが笑いを噛み殺していた。
――――――――――
荷馬車は二台あった。
御者は商人の使いの男が担い、シンとビアは横について歩く形になった。荷台には麻袋と木箱が積まれていて、食料の匂いがした。
街道は整備されていた。両側に畑が続き、秋の光の中で黄色くなりかけた葉が揺れている。
ビアは終始、シンの少し前を歩いていた。進みながら時折立ち止まり、足元を見たり、道の端の草をのぞいたりした。
「足跡、昨日のものですね」とビアが言った。
少女の雰囲気が変わり、疑問形が消えた。
「どれだ」
「ここ。革靴の跡が二つ。荷馬車のわだちとは向きが違う。街道の外から来て、また外に消えている」
シンがその場所を見た。確かに土が少し乱れていた。
「何人いると思う」
「これだけでは分からないですが……」ビアが顔を上げて、道の先を見た。「少し先に林があります。そこに潜んでいます。迂回した方がいい」
シンは街道の右側に目をやった。
——岩陰にも人影がある。微かに動いている。
「回れるか」
「東の農道を迂回すれば、村に出られます。少し遠回りになりますが……二十分か三十分程度です」
「御者に話す」
シンが荷馬車の前に出て、手短に伝えた。御者の男は怪訝そうな顔をしたが、「あんたたちが言うなら」と頷いた。
迂回した農道は細く、荷馬車が通るには少し窮屈だったが、問題はなかった。林を横に見ながら通り過ぎる時、ビアが小声で言った。
「三人、います。動いてます。こっちが来ないから、様子をうかがってるみたいです」
「気づかれてないか」
「多分」
シンは前を向いたまま歩いた。ビアも歩調を変えなかった。荷馬車が揺れる音だけが続いた。
林が視界から消えて、畑が開けた。ビアが静かに息を吐いた。
「……無事に抜けましたかね」
疑問形が戻っていた。
「ああ」
「転ばぬ先の杖です……転んでから杖を探す人が多いので、先に備えられてよかったです」
シンはそれには答えなかった。
――――――――――
村に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
小さな集落で、家が十数軒、中央に共同の井戸がある。荷物を降ろすと、村人たちが出てきて礼を言った。年配の男が害獣の被害について話した。夜中に畑が荒らされる。足跡から見て中型の獣が複数いる。
「ここ三日で二度あった。今晩また出るかもしれない」
シンがビアを見た。ビアが頷いた。
夕飯を村人に馳走になり、その後は各自が宿を借りた。民家の一室で、麦わらを詰めた簡素な寝台だったが、野営よりはずっとましだった。
夜が深くなった頃、扉を叩く音がした。ビアだった。
「出ました。畑の北側、二体います」
外に出ると、月が出ていた。
畑の向こうに黒い影が二つ動いていた。ミドルボア——中型の猪に近い形態で、肩が人の腰ほどの高さがある。毛は剛く、鼻が長く、地面を掘り返す力が強い。Fランクのモンスターだが、数がいれば危ない。
「右と左に分かれたら追いかけにくくなる。片方をおびき寄せてください」とビアが言った。
「やってみる」
シンは右側のボアに向かって歩き出した。
ボアが顔を上げた。シンを見た。突進してくる。
シンは動かなかった。右足を半歩退いて、腰を落として、剣を中段に構えた。ボアが速い。距離が詰まる……ぎりぎりで横に体をずらして、肩口で衝撃を流した。ボアが勢いをそのまま持て余して前に飛び出した。
左側のボアの肩に矢が深く突き刺さった。ボアが動きを止めた。
もう一本。首に入った。ボアが倒れた。
右側のボアが向き直る前に、シンが剣を抜いて踏み込んだ。二撃。ボアが地面に伏せた。
静かになった。
畑の土が少し掘り返されていたが、被害は軽微だった。
ビアが弓を下ろして言った。
「うまく誘導しましたね。さすがです」
シンは剣を払ってから鞘に収めた。
「お前の矢の方が速かった」
「暗い場所は得意なので」とビアが答えた。「夜明け前の空気の確認もそうですが……割と苦にならないんです、夜が」
シンは空を見た。月が明るかった。
「眠れるか」
「もう少し周囲を見てから戻ります」
「そうか」
シンはそう返すと、宿に戻る前に素振りをした。
振る。一本。また一本。数は数えない。昔から数えたことはない。竹刀を振る音だけが体育館に残る時間が、自分の全てだった頃がある。
——才能はない。続けることだけは一流だ。
あの言葉を、一度も忘れたことがない。忘れられるほど器用な人間ではなかった。
もう一本。振った。剣道の型を、異世界の剣に落とし込んでいく。
冒険者ランクの積み上げ方も同じだ。一本一本、クエストを重ねてCランクへ向かう。ただし一人では届かない場所がある。今日、それが分かった。
シンは宿に戻った。
――――――――――
翌朝、帰路も同じ農道を使イラステルに戻った。林の方向を確認したが、人の気配はなかった。昨日の迂回を見て引いたのか、それとも別の獲物を探しに行ったのか。どちらにせよ、今日は何もなかった。
街に戻ったのは夕方だった。ビアとギルドの酒場で食事をしていた。
シンはその言葉には反応せず、水を一口飲んだ。
「シンさんはお酒飲まないんですかね」
「俺は十八だ。飲む習慣がない」
「へえ」ビアが自分のエールを一口飲んだ。「あたしは十七ですが普通に飲んじゃいますかね。この国では特に決まりもないですし。シンさん、別の国から来たんですか」
「……遠いところだ」
シンはそれだけ告げると話を変えた。
「明日、何か予定はあるか」
「街道の見回りクエストが出てたんですが……どうしようか迷ってたところですかね」
「一緒に受けるか」
ビアが少し目を細めた。
「いいんですかね」
「お前の索敵は使える。一人より二人の方がいい」
「じゃあ、お願いしますかね」ビアが弦を最後に一本弾いた。「三本の矢ですかね。一本では折れますが、三本では折れない……二本でも折れにくいですかね」
シンがその最後の一文の意味を考えたが、やめた。
「せっかくなので、お互いのステータスを確認しておきますかね」
ビアがギルドカードを台座に置いた。淡い光が走った。
――
ビア・アルバ LV:13 ランク:E
STR:E DEF:F SPD:D VIT:E MND:E MAG:F DEX:D LUK:D HP:F MP:F
スキル:【初級弓術 LV8】【初級短剣術 LV3】【隠蔽 LV4】【追跡 LV6】【罠設置 LV5】【鍵開け LV2】【森の子 LV4】【夜目 LV3】【野の声 LV2】
――
シンがビアのスキル一覧に目を止めた。
「……隠蔽LV4。Eランクで持っているのか」
「生まれた村が猟師の家系なので、気配を消すのは小さい頃から慣れてましたかね。気づいたらスキルになってましたかね」
「……そうか」
洞察力が無意識に動いているのを感じた。年齢が近い女性。感覚が鋭い。動きに迷いがない。隠蔽LV4……自分より高い。
——違う。結華ではない。結華は隠蔽体質ではなかった。それに、この子には心の壁がない。壁という概念そのものが存在しないような人との接し方をしている。結華は、壁を作っていた。
それだけで結華ではない根拠には十分だった。
シンがカードを台座に置いた。
――
シン・タキシタ LV:6 ランク:F
STR:C DEF:B SPD:D VIT:C MND:A MAG:D DEX:C LUK:C HP:D MP:F
スキル:【中級剣術 LV1】【洞察力 LV3】【隠蔽 LV3】【仲間思い LV2】
――
ビアがシンのステータス画面を覗き込んだ。
「……全部おかしいですかね。STRもVITもCランクで、Fランクの数値じゃないですかね。でもこの二つは特に……」
「DEFとMND。BとAランクですかね。DEFは物理攻撃への、MNDは魔法への耐性に影響するんですが……」
「熊というより亀ですかね」
シンはその言葉の意味を考えた……あながち外れてもいないかもしれない。
――――――――――
五日目。街道の見回り。
街道を歩き、農村の端まで足を伸ばし、戻った。途中ゴブリンを三体見つけて倒した。シンが囮になり、ビアが弓で崩した。連携が機能して危なげがなかった。
山賊の気配は見当たらなかった。
ビアが「犬も歩けば棒に当たりますが、動かなくても当たるので動き続けるしかないですかね」と言った。シンは「そうだな」と返した。
その言葉の意味は分かった。
――――――――――
六日目。また、街道の見回り。
街道で馬車が止まっていた。
遠目から見た時には事故かと思った。だがビアが先に気づいた。
「シンさん。人が倒れてる。その周囲に……五人、いや六人。あとは数人、馬車から離れた位置にいます」
「山賊か」
「動き方が……そうですね。戦っている人もいるようですが、劣勢です」
シンは剣の柄に手をかけた瞬間、体が動いていた。考えるより先に。足が弾けるように前に出た。
「シンさん。速い」
ビアの声が後ろに流れた。
近づくと、かばうように立っている大男——ガルドだ。馬車の御者が地面に倒れていた。荷台には布が積まれていた。商家の輸送荷だった。山賊たちは武装していて、ガルドが一人で応戦していた。
「そこまでにしろ」
シンが声をかけると、全員がこちらを向いた。六人。こちらはシンとビアの二人…‥それにガルドが一人。計算は合わない。だがシンの足は止まらなかった。
「てめえは……シンだったか。何しに来た」
「……加勢する」
「余計なお世話、と言いたいところだが助かる」ガルドの口の端が少し上がっていた。
「中央の三人は任せろ」
「おうよ。来るぞ」
六人が動いた。
シンは前に出た。中央の三人が来る。一人目の剣を受け流して体を横にずらした。隙間を作って二人目の側面に入る。ビアの矢が三人目の足を射た——倒すのではなく、足を止める一本。三人目が体勢を崩した。
ガルドの大剣が風を切った。左の一人が吹き飛んだ。もう一人が腕を押さえてしゃがんだ。
六人が散らばった。逃げようとする者をビアの矢が足を射抜き、動きを止めた。
「動くな。次は足以外を狙う」
ビアが静かな声で言った。六人が止まった。
——シンさんのあの速度。あれが、仲間思いか。
縄で縛って、ギルドに引き渡す手続きを取ることにした。御者は打ち身があったが意識はあった。
ガルドが剣を鞘に収めながら言った。
「……お前、やるじゃねえか」
シンは何も言わなかった。
「先日は……まあ、俺も大人げなかった。今日は助かった。ありがとな」
ガルドが振り返らずに歩いて行った。
ビアが周囲を警戒しながら言った。
「ガルドさん、ギルドで新人さんに絡むこともありますが、イノシシみたいですね。突進してきそうで、実は縄張りを守ってるだけみたいな」
「守るべきものは、人によって違う……」
「そうですよね。やっぱりイノシシですかね」
シンは答えなかった。
――――――――――
七日目の朝、エミリアが笑った。
「シンさん、Eランクへの昇格条件満たしました。試験、受けますか?」
「受ける」
「では昇格試験の前に、ギルドカードを確認させてください」
シンがカードを差し出した。隣でビアが興味深そうに覗き込んでいた。
――
シン・タキシタ LV:8 ランク:F
STR:C DEF:A SPD:D VIT:C MND:A MAG:D DEX:C LUK:C HP:D MP:E
スキル:【中級剣術 LV1】【洞察力 LV4】【隠蔽 LV3】【仲間思い LV2】
――
エミリアが画面を見て、小さく呟いた。
「……LV8。一週間で。しかもAランクが二つも。めまいがしますね」
シンには聞こえていたが、何も言わなかった。
ビアがシンのステータス画面を見てつぶやいた。
「ここまでくると亀は亀でも城壁みたいな亀ですかね。DEFもMNDも両方Aですし」
シンはため息をついた。エミリアが噴き出してしまい、小さく「ごめんなさい」と頭を垂れた。
エミリアが改まった顔で、案内に移った。
「では、昇格試験のご案内をしますね」
――Cランク。それに向けた第一歩だ。結華を見つけるための……第一歩だ。
読んでいただきありがとうございます。
才能がなくても続けてきたことが、どこかで誰かの力になることがあるかもしれないと思いながら書いていました。 皆さんにも、続けてきたことはありますか。
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