第9話「ルカ(結華):歩道橋——落ちた先の白い部屋」
八月十八日。
十九歳の誕生日。遥の命日。
結華が実家の玄関を訪れたのは、仏壇に手を合わせるためだけだった。それだけのつもりだった。表札はそのままだった。ポストに広告が数枚詰まっていたが、溢れてはいなかった。誰かが定期的に抜いている。
インターホンを押す指が、止まった。
自分の家のインターホンを押す指が、どこか他人の家のそれと同じだと気づいた瞬間、胸が痛んだ。もうここは他人の家なのかもしれない。帰ると言わずに出て行った家。
押した。
足音が聞こえた。重くて、遅い。ドアが開いた。
滝下伸二が立っていた。
最初に目に入ったのは、痩せたということだった。頬がこけていた。目の下の隈は色が変わっていて、もう顔の一部のように馴染んでいた。髪に白いものが混じっていた。
四十五歳の男が、十歳は老けて見えた。
「仏壇だけ」と言って上がった。
和室は手入れされていた。花が新しかった。水が替えてあった。線香の灰が綺麗に処理されていた。一脚だけ引き出されたリビングの椅子。動かされた形跡のない残り三脚。人が一人で暮らしている匂い。料理の匂いがしない。遥がいた頃の匂いではなかった。
手を合わせた。目を閉じた。
――お母さん。
声には出さなかった。
――十九になったよ。元気かと聞かれたら……元気ではない。でも生きてる。ごめんね、全然来なくて。
立ち上がると、伸二が廊下に立っていた。邪魔をしないように距離を取りながら、完全には離れずに。結華が仏壇に向かっている間、ずっとそこにいたのだろう。
「……花、新しいね」
自分でも驚くような言葉が出た。二年ぶりに父親にかける言葉が、よりにもよって花の話だった。
「……毎日、替えている」
その一言の中に、二年分の何かが圧縮されていた。
なぜかリビングに戻っていた。帰るつもりだったのに、伸二がお茶を持ってきた。二つ分。湯呑みを置く音が、やけに静かに聞こえた。
口をつけた。熱かった。濃すぎた。遥が淹れるお茶とは色が違った。でもお茶は淹れられるようになったのだ、この男は。下手くそだけど。
「……なんで、探さなかったの」
聞くつもりはなかった。それでも言葉が出た。
伸二の手が止まった。
十秒。二十秒。三十秒。
「……探した」
声が枯れていた。
「毎日、探した。道場の前にも行った。学校の前にも行った。友達の家も調べて……見つけられなかった。それでも毎晩歩いて……」
声が震えた。
「なんで連絡しなかったの。メッセージ一つ送ればよかったじゃん。帰って来いって、一言で……」
「……送った」
「え?」
「メッセージは、毎日……送っていた」
結華はポケットに手を伸ばしかけて、やめた。非行グループに入った時に番号を変えた。古い端末は電源を切ったまま、アパートの引き出しの奥にある。
「……何を」
「……最初は」
伸二の声が掠れた。
「帰って来い、と」
また間があった。
「それから……ご飯は食べているか、と。途中からは……今日は暑かったとか、仏壇の花を替えたとか」
湯呑みをテーブルに置いた。ゆっくりと。時間を稼ぐような動作だった。
「最後は……おはようと、おやすみだけに、なった」
「毎日……送っていた。届かないと、分かっていて」
視界が滲んだ。湯呑みを強く握った。
許してしまえば、怒り続けた二年間の全てが空振りになる。
「帰る」
立ち上がった。
「結華」
「仏壇は見たから。それだけだから」
「結華……」
「それだけだから!」
叫んで、玄関を出た。振り返らなかった。
――振り返ったら追いかけてくるのを待ってしまうから。来てほしいと思ってしまうから。一言でいいから呼び止めてほしいと……またあの頃と同じことを期待してしまうから。
走った。
――方向に意味はなかった。前に進んでいるのか逃げているのかも区別がつかなかった。住宅街を抜けて、信号を無視して、気づいたら足が止まっていた。
そこは歩道橋だった。
二年前に実家を出た夜も、この道を通った。手すりに触れた。金属の冷たさが掌に食い込んだ。下を見た。アスファルト。夕暮れの橙色が地面を染めていた。
手すりの向こうに、足が出た。
――怖くなかった。死にたいわけではなかった、たぶん。ただここにいたくなかった。どこにも居場所がなかった。お母さんがいなくなってから、どこにいても宙に浮いているような感覚がずっとあった。
——お母さん。あたし、どうすればよかったの。
足音が聞こえた。
この歩道橋の階段を、誰かが駆け上がってくる。
「結華ッ!」
世界が止まった。
その声は知っていた。枯れていて、低くて、普段は感情の乗らない声。しかし今は違った。言葉というより叫びだった。肺の中身を全部ぶつけているような。
背中に衝撃が走った。
腕が結華の身体を包んだ。後ろから。
「離して……ッ!」
叫んだ。身体がねじれた。思い切り肘を入れた。それでも腕は解けなかった。
バランスが崩れた。
手すりの向こう側に出ていた足が空を踏んだ。二人分の重さが手すりの外側にかかった。
――落ちる。
夕暮れの生ぬるい風が下から上に吹き上げてきた。
落ちながら、あいつが頭を抱きしめてきた。体で包み込んできた。
風が耳元で唸った。
あいつの心臓の音が聞こえた。
――速かった。ものすごく速かった。怖いのだ。あいつも怖いのだ。死ぬことへの恐怖ではない。間に合わないことへの恐怖だ。また間に合わないことへの。
胸が痛かった。
あいつの腕の力が強くなった。
その力は……削って削って最後に残った、一言と同じ種類のものだった。勝って来い。よくやった。二連覇だ。天晴れだ。一言しか送らない男の不器用な全力だった。
結華は……記憶にある限り、初めて父親の腕の中にいた。
――温かかった。こんなに温かかったのか。こんなに強く、人を抱きしめられる人だったのか。骨張っていて、痩せていて、こんなに細いのに……こんなに、強い力で。
最後に思ったのは
——ごめん、
だった。
お母さんでもなく、あいつでもなく、ただ、ごめん。
――――――――――
衝撃は、来なかった。
目を開けた瞬間から、白一色だった。
上も下も、どこを向いても白。壁がない。天井がない。影を作るものが何もない。足の裏に地面の感触だけがあって、立っていた。いつの間にか立っていた。
――痛くない。
背中から落ちたはずだ。あの高さなら腰か背骨が砕けていてもおかしくない。なのに痛みがどこにもなかった。
周囲を見回した。
白。どこまでも白。声を出す前に一周、視界を走らせた。人影はない。何もない。白い光だけが均一に空間を満たしていて、どこが壁でどこが床なのかも区別がつかない。
自分以外に、誰もいなかった。あいつも……いなかった。
「落ち着きなさい」
声がした。
どこからともなく。上でも下でもなく、空間そのものが言葉を発したような感覚だった。温度がなかった。温かくも冷たくもない。ただ……そこにある声。
振り返った。
白い空間の中に、人影のようなものがあった。そこから声がしていた。
「あなたの父親は無事です。別の場所で、同じように目を覚ましています」
「……誰ですか。別にあいつのことなんか探していません」
「神、と呼んで構いません。他に適切な呼び方がないので」
「ここはどこなんですか。地獄?」
「いいえ。通過点です」
――通過点。どういう意味だろう。
「あなたと、あなたの父親には、転生の機会が与えられます。別の世界で新しい生を始めることができる」
結華は黙った。
転生。言葉の意味は分かった。ただ、数秒前まで歩道橋から落ちていた。それだけは確かだった。
「あいつも……同じ世界に行くんですか」
「同じ世界です。ただし、同じ場所に降り立つとは限りません」
「この場所で話せますか。あいつと」
「できません。別々に送り出されます」
――言いたいことがあった。謝りたかった。番号を変えたのはあたしで、一通も受け取らなかったのはあたしで、二年間逃げ続けたのもあたしで……探していたのはあっちだったのに、全部切ったのはこちらの方だった。
でも声が出なかった。今更言葉にしようとしても、言葉が形を作れなかった。
――削って削って、最後に何も残らなかった。
あいつの話だと思っていた。でも今、白い空間に立って、言葉を探して何も出てこない自分は……同じだった。
「転生に際して、あなたの経験に基づくスキルが付与されます」
そんな結華の思いを無視して神は話を続けた。
白い空間に文字が浮かんだ。宙に刻まれたような文字列が、結華の目の前に静かに並んでいった。
――
【初級体術 LV8】【疾風怒濤 LV1】【クイックネス LV1】【ひねくれ者 LV9】
――
結華は一つずつ見た。
【初級体術 LV8】。空手黒帯三段。五歳から振り続けた拳。全国大会を一年目から制した脚。二年前の七月に二回戦で負けた後も、路地裏で殴り続けた拳。インチキと言われても、汚れたと言われても、この拳だけは本物だった。
【疾風怒濤】。路地裏での実戦から生まれたスキルだろうと直感した。道場で培った速さとは違う種類の速さ——怒りの速さ、追い詰められた時の速さ。正しい形ではなく、ただ殴るために前に出る速さ。
【クイックネス】。動き出しの速さ。空手のスタイル、強みだった。相手が何かをしようとした瞬間に、それより先に動ける……その一歩の速さが、何度あたしを助けたか分からない。
そして、【ひねくれ者 LV9】。
しばらく見つめた。
鼻で笑った。
「ひねくれ者。……そのまんまじゃん」
でも、なぜか引っかかった。
LV9。
――この数字の意味も分からない。でも9という数字は、何となく高い気がした。LV1から始まるものだとしたら、9はかなり上の方だ。
そこまで積み上がっているのか、あたしのひねくれは。
腹が立つような、笑えるような気持ちで数字を見た。LV9。ひねくれるためにそれだけの年月を使ってきたということか。あいつのせいで学校で犯罪者の娘だと言われ、お母さんが死んで、あいつを恨んで、非行に走って全部あいつのせいにした……全部が積み重なって、LV9になった。
もっと上があるのか、これが上限なのか、それすら分からなかった。
ただ……なんとなく、これが自分の全部だという気がした。
「もう一つ。容姿と名前の変更が可能です」
結華の答えは決まっていた。考える必要もなかった。
「全部変えてください」
「全部、とは」
「顔も名前も全部。この世界の誰にも……」
言いかけて、止まった。
――誰にも分からないように。あいつにも。
歩道橋の腕の温かさが、まだ背中に残っていた。
骨張って痩せた、不器用な腕の温度が。
「……顔も名前も変えてください」
「名前は」
少し考えた。
――新しい名前。別の人間になるための名前。前の世界を全部置いていくための名前。
「ルカ・クレイン」
「年齢は」
「十七歳の時に戻してほしい」
——二年間を取り戻したかった。
「顔立ちは」
「なんでもいいです。ただ……」
声が出なかった。喉が詰まった。
「髪には、これをつけたまま転生させてください」
ヘアピンに触れた。銀色の、小さなヘアピン。あいつが選んで、お母さんから渡されたもの。
――これだけは、持っていく。
――これだけは、手放せない。
「分かりました」
「あいつには……」
声が出た。自分でも驚いた。
「あいつには、言わないでください。あたしが容姿を変えたことも、どこにいるかも」
「それはあなたが決めることです」
――……あたしが決める。
神は続けた。
「あなたの父親にも、スキルの付与と同じ選択が提示されています」
「あいつはどうするか、分かりますか」
「それは……」
神が少し間を置いた。感情のない声だったが、その間だけが人間らしかった。
「あなたの方がよく知っているでしょう」
――知っている。分かっている。
あいつは顔も名前も変えない。お母さんが好きだと言った顔を変えない。変えるものは変えないと決めたら変えない、頑固で不器用な人だから。
だからあたしが変えなければならない。
あたしが見つかってしまったら……向き合わなければならなくなる。 向き合ったら傷つくかもしれない。また裏切られるかもしれない。それが今はただ怖い。でも、最後の温かさが忘れられない。会いたくないといえば嘘になる。
「では。行ってください」
白い空間が揺れ始めた。
結華は……ルカは、最後にもう一度スキルの文字列を見た。
【ひねくれ者 LV9】
――会いたいけれど会いたくない、探したいけれど逃げ出したい。
ああ、そうか。これがひねくれ者か。
白い光が視界を覆っていく。
沈んでいく意識の底に、遥の声がした。
——お父さんはね、言葉が下手なだけで、お前のことずっと見てるんだよ。
うそだ、とあの時は言って部屋に戻った。
その言葉が正しかったかどうかは……まだ分からない。
白い空間が消えた。
――――――――――
目を開けると、灰色の、粗い岩肌が顔の真横にあった。
身体を起こすと、周囲に同じような岩と、暗い緑色の針葉樹が広がっていた。空気が冷たかった。薄かった。標高が高いのかもしれなかった。
身体を確認した。
手のひらを見ると、知らない手だった。形は同じだが皮膚の感触が違う。傷跡の位置が違う。
顔は見えないが、変わっているはずだった。
髪に手をやった。
ヘアピンがあった。
銀色の小さなヘアピン。前の世界のまま、ここにあった。指先で形を確かめた。変わっていない。あの銀色の意匠が、指の腹に感じられた。
少しだけ、息ができた気がした。
立ち上がった。脚に力が入った。重心が自然に低く落ちた——空手の身体のままだ。岩場の先に、木々の隙間から遠く、光が見えた。下に街があるのかもしれない。
後ろを振り返らなかった。
――同じ世界のどこかにあいつがいる。たぶん名前も顔も変えていないあいつが、どこかで同じように目を覚ましている。若い身体に戻って、剣を腰に提げて、結華を探して歩き出しているかもしれない。
でも結華はルカになった。
全部変えた。全部置いてきた。
——本当に?
ヘアピンを持ってきたことは、考えないことにした。
――――――――――
山を下り始めた。
一人で。冷たい風の中を。針葉樹の間から差し込む光を踏みながら。
逃げるための転生だった。
それだけだ。
それだけのはずだった。
岩場の端に、水たまりがあった。
雨水が岩の窪みに溜まったものだろう。深さは浅く、水面は静かだった。
覗き込んだ。
知らない顔が映っていた。
目鼻立ちは整っているが、自分の顔ではない。野性的な印象の、別人の顔。目の色が違った。琥珀色だった。前の世界の結華は……もっと暗い色をしていた。
「顔を変えてください」と言った。変わっている。ちゃんと変わっている。
髪に触れた。
茶色がかった短い髪。指が動く。ヘアピンを探した。
――あった。
この世界でも、このヘアピンだけは変わっていない。
水面の別人の顔が、少しだけ息を吐いた。
立ち上がった。
岩場の先、木々の隙間から光が差し込んでいる方向に目を凝らした。木々の向こう、遠く……街が見えた。建物の輪郭がかろうじて分かる程度の距離だが、確かに人の気配がした。海の匂いもした。港町かもしれない。
――あそこに行けばいい。
岩場から針葉樹の林に入る。足元が変わった。岩から土へ。踏み込むたびに枯れ葉が音を立てた。
――――――――――
五分ほど歩いた頃だった。
足が止まった。
音がした。葉擦れではない。生き物の、低く湿った呼吸音。
三方向から、同時に。
茂みが動いた。
一体目が姿を現した。肩の高さがルカの腰ほどある、大型の狼だった。ただし毛並みが灰色ではなく青みがかった黒で、爪が岩を引っ掻いたような筋を地面に残している。眼が黄色く光っていた。
二体目が左から。
三体目が右後方から。
前方の奥にももう一体いる。
囲まれている。
ルカは、一秒だけ状況を確認した。前方二体、左一体、右後方一体。逃げ道は前方のみだが、そこに二体いる。右後方から追われながら左の一体に近づく形になる。
ルカは左足を半歩引いた。
腰を落とした。
拳を構えた。
道場で培った構えではなかった。路地裏で覚えた、ただ殴るためだけに前に出る構えだった。
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