独立挿話①「滝下伸二:七百日」
結華がいなくなった翌朝、伸二は結華の部屋に入った。
机の上に何もなかった。クローゼットが半分空だった。布団はそのまま残っていた。
何か残されていないか探した。メモ。手紙。行き先を示す何か。
何もなかった。
結華は何も残さずに去った。一言もなかった。
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その夜から、歩き始めた。警察に届け出ることも考えた。だが結華が自分の意志で出ていったことは分かっていた。何より届け出ることが怖かった。
最初に行ったのは、空手道場の前だった。
夜の道場はシャッターが下りていた。建物の前に立って窓を見上げた。何も見えなかった。結華がここで拳を振っていた頃の音が、まだ壁の中に残っているような気がした。
次の日は学校の前に行った。校門の前に立った。守衛に怪訝な目で見られた。何も聞けずに立ち去った。
その次の日は商店街を歩いた。ラーメン屋の前を通った。店はまだあった。カウンター八席。味噌ラーメンの看板。
入ろうか迷って、やめた。一人で入る店ではなかった。ないと思った。
毎晩歩いた。
仕事はなかった。行く場所もなかった。朝は仏壇の花を替えて、昼はテーブルに座って何もせず、夜は歩いた。
歩きながら、すれ違う人の顔を見た。若い女性を見ると、一瞬だけ足が止まった。ポニーテール。まっすぐな背中。空手で鍛えた身体つき。
結華ではなかった。毎回、結華ではなかった。
結華ではないたびにポケットの中の写真入れを開いた。
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秋になった。銀杏の葉が歩道を黄色く染めた。結華はこの銀杏並木を通学路にしていた。今もここを通っているのだろうか。この街にまだいるのだろうか。
冬になった。夜は寒かった。コートを着て歩いた。結華はコートを持って行っただろうか。帰って確認した。クローゼットの中にコートはなかった。持って行っていた。少しだけ安心した。
春になった。桜が咲いた。道場の前の桜も咲いていた。結華が入門した年の春も、桜が咲いていた気がする。だが、覚えていない。覚えているのは、結華が窓に張りついて「かっこいい!」と叫んだ声だけだ。
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スマートフォンにメッセージを打った。
最初の一通は、結華がいなくなった翌日だった。
帰って来い
送信した。既読はつかなかった。
翌日も送った。同じ一言。既読はつかなかった。
三日目。
ご飯は食べているか
一週間目。
今日は寒かったな。
二週間目。
仏壇の花を替えた。百合だ。お母さんが好きだった花だ
一ヶ月目。
番号が変わっていることを、伸二は知らなかった。一通も届いていないことを知らなかった。知っていたとしても——やめなかっただろう。
三ヶ月目から、メッセージの内容が変わった。
道場の前を通ったら声が聞こえた。知らない子たちだった
ラーメン屋がまだあった。味噌ラーメン。結華がいるかもしれないと中に入った。いなかった。「いらっしゃい」と言われたので、カウンターに座る。ラーメンをすする。まだうまかった。お前の分も大盛りを頼んだ。食べきれなかった
今日はお母さんの誕生日だ。ケーキを買ってきた。食べるのは俺一人だが……報告をしていた。娘に。いない娘に。届かない場所にいる娘に、毎日の出来事を報告していた。
半年を過ぎた頃から、メッセージはさらに短くなった。
おはよう
おやすみ
一言。朝と夜。それだけになった。
それだけで十分だった……わけがない。でもそれ以上の言葉が出てこなかった。心の奥に溜まった言葉たちは、もう錆びついていた。
それでも送った。届かないと分かっていて。毎日。
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靴が一足潰れた。
歩きすぎて底がすり減って、雨の日に水が染みるようになった。新しい靴を買った。同じような靴。特にこだわりはなかった。歩ければいい。
歩く範囲は少しずつ広がっていた。近所だけでは足りなくなって、隣の駅まで歩くようになった。その次の駅まで。その次まで。
見つからなかった。
結華の気配は、どこにもなかった。
ある夜、歩き疲れて公園のベンチに座った。深夜一時。自動販売機の光が白く浮かんでいた。
缶コーヒーを買った。ブラック。
遥はカフェオレだった。結華もカフェオレが好きだった。ブラックが好きだと言い張っていたが、本当は甘い方が好きだった。遥にはバレていた。
缶を口に運んだ。苦かった。
結華は今、どこにいるのだろう。何を飲んでいるのだろう。カフェオレを選んでいるだろうか。ブラックのふりをしているだろうか。
——笑えているだろうか。
——泣いていないだろうか。
——拳は、まだ握れているだろうか。
全部、分からなかった。何一つ分からなかった。
父親のくせに。
缶を捨てて、立ち上がった。また歩いた。ポケットの中の写真入れを撫でた。
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花屋の主人に顔を覚えられた。
「毎日ありがとうございます。奥さんに?」
「ああ」
「百合が好きだったんですね」
「……ああ」
毎朝。一日も欠かさず。仏壇の花を替えた。白い百合。遥が好きだった花。
花を替えることが、伸二にできる唯一の継続的な言葉の代わりだった。声に出して名前を呼ぶことすらできない。ありがとうと言うことすらもできない。
でも花は替えられた。
続けることだけは一流だと、昔、剣道部の顧問に言われた。才能はない。言葉もない。守り方も知らない。ただ、続けることだけは……やめなかった。
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湯呑みを毎日二つ出した。
一つは自分の分。もう一つは……出さずにはいられなかった。結華が帰ってきた時のためだと、自分に言い聞かせていた。
帰ってこなかった。
二つ目の湯呑みには茶が注がれなかった。空の湯呑みがテーブルの上で、もう一つの湯呑みの隣に並んでいた。毎日。
七百日以上。
========== 【作者より】
読んでいただきありがとうございます。
独立挿話は本編と並行して、本編では描けない過去の時間を書いています。七百日間の詳細です。いかがでしたでしょうか。




