37 私達的幸せな結末?
どうしようかと思っていたら、助け舟が予想もしない方向からやってくる。
大股でこちらにやってきた余暉が、黒曜の腕をぎゅっと握ったのだ。
余程力が籠っているのか、大袖のゆったりした布に皺が寄る。
痛みがあるのか、黒曜が低い呻きを漏らした。
「よ、余暉!」
焦って、思わず叫ぶ。
皇帝に危害を加えるなんて、大変なことだ。
知らないわけじゃないだろうに、余暉は手を緩めなかった。
「小鈴。遠慮することはない。この男が嫌なら、はっきりそう言っていいんだぞ?」
余暉は私に語り掛けているのに、その剣呑な視線はしっかりと黒曜に注がれていた。
口元が少し笑っているところが、より一層恐い。
こういう時、余暉の優し気な容姿は全く逆方向に作用するのだ。
それは身が竦んでしまうほどの迫力だった。
「―――確かに、今の陛下は私もどうかと思いますが、今はその手をお離しください。華御史大夫」
黒曜が言い返す前に、口を挟んだのは深潭だった。
「だそうだが?」
「小鈴。やっぱり考え直せ。この男との未来を選んでも幸せにはなれないぞ」
余暉が悲しげに言う。
黒曜への気持ちを見透かされたようで、顔が熱くなった。
私が何も言えないでいると、呆れたように黒曜が言った。
「俺はこれでも皇帝なんだが……」
「馬鹿馬鹿しい。公式な場以外対等でいいというのが、雇用条件のはずだ」
「それはそうだが、俺と鈴音の仲に口出しする権利まで与えたつもりは無い」
私を真ん中にした言い合いは、決着がつきそうにない。
このままでは心臓が限界なので、黒曜の腕を飛び出し咄嗟に叫ぶ。
「そ、そんなことより! 御史大夫、どういうこと? 雇用って何?」
するとこの場で最も年長の宰相が、大きなため息とともに答えをくれた。
「ここにいる華翠月殿に、陛下は御史大夫を担うようお命じになった」
「御史、大夫?」
それは聞きなれない役職だった。
「御史大夫とは、百官の綱紀を正す御史台の長。大変に名誉なお役目だ」
思わず余暉を振り返ると、彼は難しい顔をしていた。
「勘違いするなよ。俺は地位や名誉が欲しくて、この話を受けたわけじゃない」
「それでいい。私利私欲を求めないのは、御史として最高の資質だ。そのつもりで、あの愚蠢共をどんどん取り締まってくれ」
そう言う黒曜は楽し気だ。
仲はよくないようだけれど、余暉がその仕事をするということで二人は合意しているらしい。
前に見た時には二人とも剣を向けあっていたのにと、話についていけず私は驚く。
どうやら余暉が命じられたのは、仕事をしなかったり規律を守らなかったりする官吏の取り締まりらしい。
余暉が危険な目にあったりしないだろうかと、思わず心配になった。
思わず見上げると心配しているのが伝わったのか、余暉は苦笑いを浮かべて私の頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。俺自身がやると決めたんだから」
鬘だと分かっているからか、以前のように髪をぐしゃぐしゃにはされなかった。
それが少し残念な気もしたが、余暉がいやいや官吏になったのではないと知ってほっとした。
「もう俺達のように誤った罪で処罰される者がないよう、奸臣や佞臣を取り締まれるというのなら願ってもないことだ」
余暉はどこかすがすがしい顔をしていた。
彼にとってやりがいのある仕事だというのなら、私に反対する理由はない。
明鈴さんも、きっとそんな余暉を見守っていてくれるだろう。
そう思って余暉の手に抗わずにいたら、しかめっ面をした黒曜に手を引かれた。
反動で転びそうになったところを、黒曜に支えられる。
「お前たち、いくらなんでもちょっと親密すぎるぞ」
「兄妹なんだ。これぐらい当然だろう?」
「だからといって物には限度が……」
「家族の親しさに限度など聞いたことがない」
再び、私を挟んでの言い合いが始まる。
けれどなんだか、顔は怒っているのに二人共楽しそうだ。
ぽんぽんと遠慮のない言い合いは、どんどん私から内容が逸れていって、間に挟まれているのが気づまりになってくる。
(なんか、ダシにされてる気がする)
これは完全にドキドキのし損だと、私はひどく疲れた気持ちになった。
口論をするのはいいが、やるなら私のいないところでしてほしいと思う。
その度に抱き込まれたりしていたら、こちらの心臓がもたない。
「わ、私戻るね。尚紅で待ってる、皆が」
よろよろと黒曜の腕を外そうとすると、なぜか逆に強く握られてしまった。
驚いて黒曜を見ると、彼は今度こそ余暉ではなく私を見ていた。
それも先ほどまでとは打って変わって真剣な目で。
「待て、鈴音。まだお前に言いたいことがある」
「言いたい、こと……?」
まだなにか驚くような知らせがあるのかと、緊張で息を呑んだ。
黒曜の申し出はいつも突然で、心臓に悪いことが多いからだ。
最初に後宮に忍び込むよう言われた時もそうだし、後宮に残ってほしいと言われた時もそうだった。
今度は何を言われるのだろうかと恐れおののいていると、黒曜は開いていたもう片方の手を私の顔に当てた。
親指で頬骨が固定され、絶対に顔が逸らせなくなる。
「な、なに?」
堪えきれずに尋ねると、黒曜は小さな溜息を零した。
「いい加減、龍宝と呼んでくれ」
「龍、宝?」
「俺の名前だ」
何かと思えば、ちゃんと名前を呼べと言う。
そういえば黒曜というのは、皇帝であることを隠すための偽名だった。
なんだそんなことかと、焦って損をした気分だ。
もっと普通に言ってほしいと思いながら、言われた通りその名前を呼ぶ。
「龍宝?」
「うん……」
(うん?)
龍宝の返事を聞き終わる前に、私の頭が真っ白になった。
なぜかって?
それは目の前の人によって、自分の唇が使えない状態になっていたからだ。
(わー、伏せた睫毛、長いなあ)
現実逃避でそんなことを考えても、現実は変わらなかった。
龍宝とキスしている。
やっとそう認識できたのは、龍宝の唇が私から離れてからだ。
私を見つめる龍宝の目は、黒曜石のように黒々として美しかった。
これ以上ないほど真剣な表情。
そんな顔で見つめられたら身動きができない。
「花琳に聞いたぞ。不安にさせてすまなかった。もうそんな思いはさせない」
「―――え?」
何を言っているのだろうかと、疑問に思う暇もなかった。
次に言われた言葉によって、頭に合った思考は綺麗さっぱり吹き飛んでしまったからだ。
「翠月の妹として、正式に俺の妃になってくれ」
「なっ」
驚きすぎて、何を言っていいか分からない。
けれど返事をする前に、後ろから鼓膜が破れるような声がした。
「いい加減にしろよ、貴様!」
余暉の怒号は、きっと両儀殿中に響き渡ったはずだ。
深潭はといえば、いつもより更に恐い顔で頭を抱えていた。
二人の激しい言い争いが始まり、それから逃れるように後ずさる。
もう顔が熱いどころではない。顔が爆発してしまわないのが不思議なくらいだ。
頭の混乱はなかなか収まらないし、龍宝と余暉の言い争いもしばらくは終わりそうにない。
私は床にへたり込んで、茫然としてしまった。
でもしばらくすると、今度は突然妙な陽気さがお腹の底から湧き上がってきた。
「ふっ、あははは」
訳が分から過ぎて、もう笑うしかない。
笑いながら立ち上がると、私は言い争いを続ける男たちに宣言した。
「余暉、大丈夫。私は妃になるしないです!」
思い切り言い放つと、三対のきょとんとした視線が私に集中した。
深潭までそんな表情を見せるというのは、本当に珍しいことだ。
「私、尚紅のお仕事まだ何もできてない。だから妃無理です!」
半ばやけくそ気味にそう言い切ると、三人が茫然としている間に房を出た。
本当に、この世界にきてからずっと、ジェットコースターに乗ってるみたいな毎日だ。
毎日は目まぐるしくて、嬉しいこともあるけど驚いたり悲しんだりすることも多い。
それでも、もう以前ほど日本に帰りたいとは思わなくなっていた。
それがいいことか悪いことなのかは、分からないけれど。
でもとりあえずは、私は私なりのやり方で進んでいこう。
そんな気持ちが、体を突き動かしていた。
なぜか妙に清々しい。
龍鳳の申し出を断った後悔はなかった。
妃になったら待っているのは、華やかな襦裙を来て毎日着飾って過ごす優雅な日々だ。
でも私はそうなりたくて、後宮に残ったわけじゃない。
だって私は、まだ尚紅を立て直すという約束を果たせていないのだから。
それをこんな中途半端な状態で、龍宝や余暉に甘えたくはない。
蝉が騒がしく鳴き、池には蓮花が咲いていた。
世界がやけに美しい。
そうして私は、意気揚々と春麗や子美の待つ尚紅へ戻ったのだった。
これにて、皇太后のお化粧係(続)は終了です。
いかがだったでしょうか?
少しでも、楽しんでいただければ嬉しく思います。
龍宝と翠月と鈴音の三人の関係は、これからどうなっていくのでしょう。
一人で想像するだけで、気持ち悪くニヨニヨしてしまいます。
えー改めまして、
前作の(仮)に続き、皇太后のお化粧係(続)を読んでくださった皆様。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
Webで楽しんでくださった皆様。本を買って読んでくださった方々。
本当に、感謝の念に堪えません。
皆さんがいるから、私もモチベーションを保って物語を書き続けることができます。
ありがとうの代わりに、これからも色々なお話をお届けできればと思っています。
というわけで至らないところだらけの柏ですが、これからもぬるーく見守ってくださいね。
よろしくお願いいたします!