第1話 俺、ワープできるらしい
仕事から帰ってきた。玄関のドアを閉めて、靴を脱ぐ。
「つかれた……」
別に今日は何か大変なことがあったわけではない。怒られたわけでも、何時間も残業したわけでもなく、普通に仕事をして普通に帰ってきただけだ。
俺は24歳の会社員。熊本県内で、全国展開している総合小売企業、アルタークで働いている。特別な才能があるわけでもなければ、金持ちでもない。
できれば早めにFIREしたい。だから働きながら投資を続けて、副業も時々探している。ただ、今のところ「これなら続けられそうだ」と思えるものは見つかっていない。そんな普通の会社員だ。
バッグを床に置く。部屋の奥にはベッドがある。ほんの数メートルで、歩けば数秒だ。でも、仕事から帰った直後というのは、その数秒すら面倒に感じる。俺はベッドを見た。
「あそこまで一瞬で行けたら楽なのにな」
次の瞬間。景色が変わった。
「……え?」
目の前にベッドがあった。いや、さっきからベッドは見えていた。そうじゃない。俺が、ベッドの横に立っていた。
「……は?」
振り返る。玄関の近くにバッグが置いてある。数秒前まで、俺はあそこにいた。
……いたよな?
「疲れてる?」
自分で自分に聞いてみる。当然、返事はない。無意識に歩いた?
いや、それなら歩いた感覚くらいあるはずだ。瞬きをした、そのくらいの感覚だった。俺はベッドから玄関側へ歩いて戻った。
今度は意識してみる。部屋の反対側。テーブルの横を見る。
「……あそこ」
行く。そう思った。景色が切り替わった。
「うおっ」
俺はテーブルの横に立っていた。慌てて足元を見る。床だ。壁にめり込んでもいないし、痛いところもない。普通に立っている。
「いやいやいや」
もう一度。ベッドを見る。行く。
一瞬。
ベッドの横。もう一度、テーブル。
一瞬。
テーブルの横。
「……マジか」
心臓が少し速くなってきた。3回、4回と繰り返して全部成功すれば、さすがに気のせいでは片付けられない。俺は部屋の真ん中に立って考えた。
病院?いや、病院に行って何て言う。
『急にワープできるようになりました』
疲れてますね、と言われて終わりそうだ。というか、そこで実演したら話がもっと面倒になる。
「……俺、ワープできるらしい」
口に出してみた。意味が分からない。ワープ、瞬間移動。
漫画やゲームなら珍しくないが、現実で使える人間なんて、少なくとも俺は知らない。しかも、なぜ使えるようになったのか全く分からない。昨日まで何もなかった。神様にも会っていないし、怪しい薬も飲んでいない。隕石にも当たっていない。
「原因……分からんな」
少し考えた。
「まあ、考えても分からんか」
原因が分からなくても、能力は使える。なら先に、何ができるのか調べた方がいい。俺はテーブルの上にあった空のコップを見た。
「俺以外もいけるのか?」
さっき自分にやったのと同じ感じで、コップを見ながらテーブルの反対側へ移動するイメージをする。
行け。
コップが消えた。
「おっ」
ほとんど同時に、少し離れた場所へ現れた。倒れても、割れてもいない。普通に置かれている。俺はコップを手に取ったが、変わったところはない。
「物もいけるのか」
次はクッション。これも成功。ティッシュ箱も成功。
「……これ、結構やばくない?」
そこで最初に浮かんだのは、世界平和ではなかった。
「通勤に使えたら、めちゃくちゃ楽じゃん」
毎日の移動時間が消える。朝も今より寝られる。交通費も減る。
いや、それどころじゃない。
「物を運べるなら、副業にも使えるか?」
配送、引っ越し、緊急輸送。考え始めると、いくらでもありそうだ。
俺はここ数年、NISAで全世界株式のインデックスを毎月3万円ずつ積み立ててきた。貯金と合わせた金融資産は、だいたい550万円。
少しずつ積み上げてきた結果だ。でも、目標は8,000万円。まだ遠い。
「これが本物なら、少しは近道できるか?」
そこまで考えて、別の可能性に気づいた。
「……いや、待て」
もし能力が世間に知られたらどうなる。テレビ、研究、政府、海外。よく分からない連中まで寄ってくるかもしれない。
そこまで大げさな話にならなくても、普通に生活できなくなる可能性はある。
「絶対めんどくさい」
金は欲しいし、暇も欲しい。でも、そのために日常そのものが消えるのは違う。俺が欲しいのは自由だ。有名人になりたいわけではない。
「まず能力を把握しないとな」
俺は寝室から廊下へ出た。そして、閉めたドアを見る。ドアの向こうには、さっきまでいた寝室がある。
場所は分かっている。中の様子も覚えている。
「ベッドの横」
行け。
何も起こらない。
「……あれ?」
もう一度。頭の中には、ベッドの位置がはっきり浮かんでいる。
行け。
変化なし。ドアを開ける。ベッドが見える。
「じゃあ……あそこ」
一瞬。
俺はベッドの横に立っていた。
「お?」
廊下に戻る。ドアを閉める。もう一度やる。
失敗。開ける。成功。
「……見えてる必要がある?」
まだ断定はできない。たまたまかもしれない。距離ではなく別の条件かもしれない。
でも、調べる価値はある。こういう時に思いつくまま実験していると、絶対に何か見落とす。俺はスマホを取り出した。
「……AIに聞くか」
普段から調べものや考えの整理に使っているAIチャットを開く。さすがに、
『ワープできるようになりました。どうすればいいですか?』
では話が雑すぎる。少し考えて入力する。
『仮に、ある人間が突然ワープのような現象を起こせるようになったとします。本人と小さな物体で何度か再現できています。安全に能力の性質を調べるなら、何から確認すればいいですか?』
送信。しばらくすると返事が表示された。当然ながら、AIも俺の能力の正体を知っているわけではない。
まず現象が再現できることを確認すること。危険の少ない無生物から試すこと。条件を一度に複数変えず、1つずつ確認すること。
距離、視界、対象の大きさ、動いている物、自分自身、他の生物、連続使用、疲労、移動先の安全性。ほかにも、色々。
「多いな」
画面をスクロールする。考えてみれば当然だ。ゲームなら能力説明が出る。
現実にはそんなものはない。俺が自分で調べるしかない。
「まあ、いきなり危ないことする必要はないか」
高い場所から飛び降りて、落ちる前にワープできるか。そんな実験をするほど俺は勇者ではない。死んだら資産形成どころではない。
まずは安全なところから。さっき気になったのは、視界だ。俺は窓のカーテンを開けた。
外を見る。建物、道路、街灯、遠くの景色。今までは部屋の中、それも数メートルしか試していない。もし本当に、見えている場所なら。
「……どこまで行けるんだ、これ?」
明日の仕事のことは、一瞬だけ忘れていた。
連載開始です。
本日は第10話まで順次公開します。
続けてお楽しみいただければ幸いです。
次回、第2話「見えてる場所なら行ける?」




