第6話:治療は戦いではありません。まずは胃を休めなさい
チク、タク、と頭の奥で刻まれる見えない秒針の音に、すべての神経を同期させる。
主寝室を満たすのは、暖炉の薪が爆ぜるかすかな破裂音と、ジルヴェスタの喉から漏れるかすれがちな呼吸音だけだった。
私は寝台の脇に膝をついたまま、銀のスプーンを微塵も震わせることなく操っていた。
「……もうひと口、いきますよ」
スプーンの縁に乗せたのは、わずか二ミリリットルほどの経口補水液。
それを、ジルヴェスタの渇ききった唇の端、右の口角からそっと滑り込ませる。舌の中央には触れさせない。苦味を感じさせず、嘔吐反射を誘発しないよう、頬の内側の粘膜を伝わせて喉の奥へと導く。
数秒の沈黙の後、ゴクリ、と喉仏が小さく動いた。
微かな、だが力強い嚥下の反応。
「……よし。上出来です」
すかさず、左手の指先で彼の頸動脈の拍動に触れる。
依然として頻脈ではあるが、先ほどまでの「いつ途切れてもおかしくない糸のような乱れ」から、わずかに拍動の輪郭が整いつつあった。脱水によって極端に収縮していた血管内に、ほんのわずかずつだが体液が引き戻されている証拠だった。
だが、この作業は決して一朝一夕には終わらない。
脱水補正の鉄則は「急激な変動を避けること」だ。一度に大量の水分を流し込めば、荒れ果てた胃粘膜が耐えきれずに再度の嘔吐を招き、最悪の場合は脳浮腫を引き起こす。数分おきにスプーン一杯ずつ、患者のバイタルサインと胃の蠕動音を確認しながら、極限の集中力で投与を続けなければならないのだ。
私の額から、たらりと冷たい汗が頬を伝い落ちる。
それを拭う暇すら惜しんで次の一杯をすくおうとした、その時だった。
「……ええい、茶番だ! こんなものは医療ではない!」
耐えかねたように怒声を上げたのは、床から立ち上がった老侍医オットーだった。
割れた黄金のポーションの残骸を踏みつけそうになりながら、激昂のあまり赤黒く染まった顔で詰め寄ってくる。
「小娘のまやかしに惑わされるな! カイエン副団長、貴様もなぜ黙って見ているのだ! 砂糖と塩を混ぜただけのただの湯水で、魔境の主の命が繋ぎ止められるはずがなかろうが!」
「オットー先生、しかし閣下は現に吐き出さずに飲み込んでおられる……」
「それはただ、喉が渇いているから反射で飲み込んでいるだけに決まっておる! あのような生ぬるいもので、体内の魔力毒が消えるか! 傷口が癒えるか!」
オットーは唾を飛ばしながら、私の手元にあるビーカーを忌々しそうに指差した。
「騎士たるもの、傷を負えば苦痛に耐え、骨身を焼くような劇薬を煽って再び戦場に立つのが誉れ! それが帝国軍人の誇りであり、北方を守る鉄則だ! 痛みに耐え、歯を食いしばって魔力を滾らせるからこそ、傷は塞がり肉は盛り上がるのだ! 痛みを怖がり、白湯をすすって寝ているなど、戦士への侮辱以外の何物でもないわ!」
古びた騎士道精神に凝り固まった、危険極まりない根性論。
この世界を覆う、最も根深い「呪い」の正体だった。苦痛に耐えることそのものを美徳とし、肉体が発する限界の悲鳴を「気合い」でねじ伏せようとする悪弊。
前世でも、そんな無茶な働き方をして、身体を壊して運ばれてきたサラリーマンや職人を何人も見てきた。そして私自身もまた――その呪いに囚われた結果、過労死したのだ。
「……う、ぐ……っ」
オットーの怒声に反応するかのように、寝台の上のジルヴェスタが苦悶の声を漏らした。
筋骨隆々な胸板が激しく波打ち、浅黒い額に玉のような脂汗が滲み出る。
紫の瞳は焦点が定まらず、虚ろな視線が虚空を彷徨っていた。譫妄状態だ。高熱と肝性脳症の霧の中で、彼の意識は過去の凄惨な戦場へと引き戻されているらしかった。
「……剣を……」
ひび割れた唇から、掠れたうわ言が零れ落ちる。
「……剣を、寄越せ……ッ。……まだ、防壁が……北の守りを……抜かせるな……。私が……食い止めねば……」
男の大きな手が、シーツを爪が剥がれそうなほどの力で握りしめた。
腕の太い筋が浮き上がり、激しい痛みに全身を震わせながらも、なお起き上がろうと上半身を強張らせる。
痛みに喘ぎながら、内臓を焼き尽くされながら、それでもなお、この男は戦おうとしていた。
不敗の盾。氷血の狂犬。冷徹な辺境伯。
国中の人間が彼をそう呼び、畏怖し、頼り切り、誰も彼が「一人の生身の人間」であることを顧みなかった。傷ついてもポーションを煽って立ち上がるのが当然だと、痛みに耐えて前線に立ち続けるのが義務だと、周囲のすべてが彼を追い詰めていたのだ。
「見ろ! 閣下はまだ戦おうとしておられるのだ!」
オットーが得意げに叫ぶ。
「早く代わりのポーションをお持ちしろ! 強い魔力を胃に叩き込めば、閣下の不屈の闘志が再び肉体を奮い立たせるはずじゃ! 戦士をベッドに縛り付けるなど、死ねと言っているようなものだ!」
「……そうですか」
私はスプーンをビーカーに戻し、静かに立ち上がった。
主寝室の温度が、スッと数度下がったかのような錯覚を周囲に与えるほど、私の気配は冷え切っていた。
麻のエプロンを整え、寝台の傍らに置かれていた清潔なタオルを湯に浸して固く絞る。
そして、ジルヴェスタの元へ歩み寄ると、苦悶に歪むその広い額にかかる黒髪をそっとかき上げ、熱を持った皮膚を丁寧に、慈しむように拭った。
「っ……、誰だ……離せ……私は、戦わねば……」
ジルヴェスタがうわ言のように拒絶を口にする。
その額に濡れタオルを優しく乗せたまま、私は彼の耳元へ顔を寄せた。
そして――。
寝室にいた全員の鼓膜を震わせるほど、凛とした、だが容赦のない一喝を叩きつけた。
「治療を、根性論の戦いと勘違いしないでくださいッ!!」
ピシャリ、と鞭を打つような声が部屋に響き渡った。
オットーが息を呑み、カイエンが肩を跳ねさせる。
寝台のジルヴェスタまでもが、叩きつけられた言葉の鋭さに打たれたかのように、ビクリと身体を震わせて動きを止めた。
「オットー侍医。そしてジルヴェスタ様、あなたもよく聞きなさい」
私はジルヴェスタの紫の瞳を、真正面から見据えた。
「痛みに耐えることが美徳? 苦痛をねじ伏せて立つのが誉れ? ふざけないでいただきたいわ。そんなものは戦士の誇りでも何でもない、ただの『自殺行為』であり、自らの身体を投げ出す『怠惰』です!」
「な……たい、怠惰だと!? 命を賭して戦う閣下のどこが怠惰だというのだ!」
激昂するオットーを一瞥もしないまま、私は冷徹な薬理学のロジックを紡ぎ出す。
「自分の限界から目を逸らし、身体が発している危険信号を劇薬で麻痺させて誤魔化すことが、怠惰でなくて何だというのですか! 痛みとは、生体が『これ以上動けば死ぬ』と警告を発している防衛反射です! それを高濃度の魔力で無理やり焼き切り、動けない身体を動かすのは、折れた剣で岩を叩き割るようなものよ!」
私はジルヴェスタの胸元を、指先でトンと軽く叩いた。
「いいですか。今、あなたの体内で起きているのは、外敵との戦いではありません。過剰な薬物によって疲弊しきった臓器たちの、生存をかけた悲鳴です。今この瞬間に戦うべきなのは、あなたの精神力でも、剣の腕でもない。あなたの体内に残された最後の『自己治癒力』と『免疫機能』です! 意志の強さでアンモニアが解毒できますか? 気合いで胃粘膜の潰瘍が塞がりますか!? できるわけがないでしょう!」
私の言葉は、一切の情緒を排した生化学の真理だった。
異世界の人々が「魔力」や「気迫」という曖昧な概念で覆い隠してきた人体のリアルを、骨の髄まで解剖するかのように暴き立てていく。
「今のあなたに必要なのは、新たな刺激を与えることではありません。体内に蓄積した過剰な魔力残渣と、代謝しきれなかった老廃物を体外へ排泄させるための時間――すなわち『休薬期間』です! 薬を一切断ち、胃腸を休ませ、失われた水分を補い、内臓が自らの力で機能を回復させるのをじっと待つ。それ以外に、あなたが生き延びる道はどこにもないの!」
息を吸い込み、私はジルヴェスタの耳元へ、今度は静かで、どこまでも温かい声を落とした。
「ジルヴェスタ様。あなたはこれまで、十分に戦ってこられました。誰よりも重い盾を背負い、誰よりも過酷な前線で、傷つきながら耐えてこられた。……でも、ここは戦場ではありません。あなたの城であり、あなたの病室です」
エレナの手が、ジルヴェスタのこわばっていた右手を包み込む。
白く小さな手が、歴戦の武人の傷だらけの拳を、解きほぐすように包み込んでいく。
「病気と戦うのは、あなたの肉体と、私の調剤です。患者であるあなたがやるべき仕事は、たった一つしかありません。……すべてを委ねて、眠ることです。痛みに耐える必要も、強がる必要もありません。弱音を吐いていいのです。……まずは黙って、その荒れ果てた胃を休めなさい」
「…………っ」
ジルヴェスタの瞳が、大きく見開かれた。
濁っていた紫の双眸に、確かな光が宿る。
生まれて初めてだった。
幼少期から「ハーディン家の後継ぎ」として叩き込まれ、感情を殺し、痛みを押し殺し、血を吐きながらでも剣を振るうことだけを求められてきた人生。
倒れそうになれば「立て」と言われ、傷を負えば「ポーションを飲んで戦え」と命じられてきた。
誰も彼に「休め」とは言わなかった。
誰も彼に「弱音を吐いていい」などと許さなかった。
その彼を、目の前の小柄な女性は、真正面から叱りつけ、そして――赦したのだ。
ジルヴェスタの喉から、掠れた吐息が漏れた。
それは苦痛の呻きではなかった。
何重にも張り巡らされていた心の鎧が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく時の、深い、深い安堵の吐息だった。
スゥ……と、彼の鋼のような肉体から、頑なな緊張が抜けていく。
シーツを握りしめていた指先が緩み、ベッドへと力なく沈み込んだ。
浅く荒れていた呼吸が、ゆっくりと、規則的なリズムへと整っていく。
ジルヴェスタの瞼が重そうに閉じられ、彼は何年ぶりかも分からない、真の「休息」の世界へと落ちていった。
「か……閣下の緊張が、解けた……?」
後ろで見ていたカイエンが、信じられないものを見たように呟いた。
常に張り詰め、いつ暴発してもおかしくなかった主の全身から、あの狂気じみた殺気が完全に消え失せていたのだ。そこにあるのは、ただ静かに傷を癒そうとしている、一人の人間の寝顔だった。
「……ぐ、ぐぬぬ……!」
だが、長年の侍医としての誇りを粉々に砕かれたオットーは、まだ引き下がれなかった。
顔を真っ赤にして震え、絞り出すように声を絞る。
「だ、だが……! 薬を断つなど前代未聞だ! もし……もしこのまま閣下の容態が急変し、心臓が止まったらどうするのだ! 王都から追放されてきたような男爵令嬢に、この北方の主の命の責任が取れるのか!? 儂は認めん、断じて認めんぞ!」
老人の見苦しい足掻き。
それは保身であり、己の無能を認めたくない弱さの表れだった。
私はジルヴェスタの手をそっとベッドの上に戻し、掛け布を直すと、ゆっくりとオットーに向き直った。
逃げ道を探すような眼差しなど、最初から持ち合わせていない。
前世の臨床現場で、数え切れないほどの生と死の境界線に立ち会ってきた薬剤師の覚悟が、私の瞳に宿っていた。
「オットー先生」
私は静かに、だが主寝室の石壁を震わせるほど澄み切った声で告げた。
「三日」
「……何だと?」
「私に、三日の時間をください」
私は人差し指、中指、薬指の三本を立てて見せた。
「この三日間、閣下へのあらゆるポーションの投与を完全に禁止します。治療は私の指示する経口補水と、微量の生薬による胃粘膜保護、そしてバイタル管理のみで行います」
「そ、そんな馬鹿なことが――」
「もし」
私はオットーの言葉を遮り、自らの首元にスッと指先を当てた。
「もし、この三日間の間に閣下の容態が悪化し、一歩でも死に近づくようなことがあれば――その時は、私のこの首を差し上げます。不敬罪でも国家反逆罪でも、お好きな罪名で処刑台へ送ってください」
「なっ……!?」
部屋中の空気が、再び凍りついた。
カイエンが息を呑み、護衛の騎士たちが目を見張る。
命を賭ける。それは言葉で言うほど容易いことではない。特に貴族の令嬢が、左遷先の見知らぬ土地で、初対面の侍医に対して言い放つ言葉としては、狂気の沙汰だった。
だが、私の瞳には微塵の揺らぎもなかった。
自分の薬理学の知識に対する絶対の自信。そして何より、目の前の患者を救うために退路を断つ、医療従事者としての不退転の決意。
「……本気、なのか……?」
オットーが後退りし、震える唇で呟いた。
これほどの覚悟を前にして、なおも「ポーションを飲ませろ」と主張できるほどの気概は、保身に凝り固まった老侍医には残っていなかった。
「副団長殿……!」
オットーが助けを求めるようにカイエンを振り返る。
しかし、カイエンはすでに眼鏡の位置を正し、その怜悧な瞳を私へと向けていた。
胸焼けの痛みを消してもらったあの瞬間から、彼の中で天秤は完全に傾いていたのだ。
「オットー侍医、そこまでだ」
カイエンの冷徹な声が下された。
「これより三日間、ジルヴェスタ閣下の治療に関する全権を、専属調合師エレナ殿に一任する。……不服がある者は、この私が騎士団副団長の権限において軍規違反で拘束する」
「カ、カイエン副団長……! 本気か……本気で言っているのか……!?」
「本気だ。閣下の命を預けるに足る覚悟を、私はエレナ殿の眼差しの中に見た」
カイエンは私に向き直り、胸元に手を当てて深く一礼した。
その礼は、王都から来た小娘に対する儀礼的なものではなかった。死線を共にする指揮官に対する、最大級の敬意が込められていた。
「エレナ殿。……主を、よろしく頼みます」
「はい。お任せください」
私は力強く頷き、再び白衣の袖をまくり上げた。
オットーはもはや一言も発することができず、項垂れて部屋の隅へと退いた。




