第57話:雪解けの凱旋。舞い散る花吹雪と子どもの笑顔
車輪が軋む音とともに、窓の外を流れる景色が、鉛色の冬から瑞々しい萌黄色へとグラデーションを描いて移り変わっていく。
王都を出立してから十数日。南方の湿った空気から、徐々に肌を刺すような清澄な冷気が混ざり始め、街道沿いの山肌には、分厚い万年雪の合間から顔を出したフキノトウや、淡い紫色の雪割草の群生が点々と姿を現していた。
厳しい冬の終わり。北方の地に、ようやく訪れようとしている春の息吹。
豪奢な馬車の天窓から差し込む陽光は柔らかく、雪解け水がせせらぎとなって岩肌を滑り落ちる音が、心地よい音楽のように響いていた。
「……ふふ、テオ。鼻先を出しすぎると冷たい風でくしゃみが出ますよ」
私が膝の上の聖獣の仔テオの背中を撫でると、銀色の仔獣は「わふっ」と短く喉を鳴らし、窓枠から鼻を引っ込めて、私の手のひらにすりすりと頭を擦り付けてきた。
その向かい側――。
長椅子にゆったりと腰掛け、腕を組んで私を見つめていたのは、黒鉄の胸当ての上に漆黒の毛皮外套を羽織ったジルヴェスタ様だった。
その紫の双眸は、王宮で老王に見せたあの絶対零度の覇気など跡形もなく、春の日だまりのように甘く、穏やかな光を湛えている。
「長旅で疲れてはいないか、エレナ。……顔色が少し白い。脈を測らせてみろ」
「もう、ジルヴェスタ様ったら。さっき測ったばかりじゃありませんか。毎時測るなんて、集中治療室(ICU)の重篤患者じゃないんですから」
私が苦笑しながら左手首を差し出すと、ジルヴェスタ様は「安静時バイタルサインの推移を追うのは、主治医の健康管理における基本なのだろう?」と、私の言葉をそのまま真似して見せた。
手袋を外した大きな、硬い指先が、私の手首の動脈に優しく添えられる。
指先から伝わってくる男の温もり。
規則正しく力強い拍動を刻むジルヴェスタ様の身体は、以前のあの死の淵にいた多臓器不全の面影など微塵もなく、体内の循環器系も消化器系も、完璧な安定域を維持していた。
むしろ、手首を握られている私の心拍数の方が、彼の熱い眼差しに見つめられてトクン、トクンとわずかに跳ね上がってしまう。
「……脈拍、毎分七十八。わずかに速いな」
ジルヴェスタ様は悪戯っぽく口元を歪め、私の手をそのまま引き寄せて、手の甲にそっと唇を落とした。
「私の顔を見て緊張しているのか? それとも……城へ戻るのが待ちきれないか」
「じ、ジルヴェスタ様! からかわないでください! それは自律神経の一過性交感神経興奮です!」
私が真っ赤になって手を引っ込めようとすると、ジルヴェスタ様は低く楽しげに笑い、私の指先を優しく握り直した。
「恥ずかしがるな。……もうすぐ着く。お前が愛し、お前を愛する、私たちの家へ」
男の言葉に応えるように、前方を進んでいた第一部隊長バルツの、雷鳴のような雄叫びが街道に轟き渡った。
「野郎ども、見張り塔が見えたぞッ! 跳ね橋を下ろさせろ! 俺たちのエレナ様の、ご凱旋だァァァッッッ!!!!」
◇
ガガガガガッ……! と重厚な鎖の軋む音が響き、白竜峡谷の防壁を越えた先、ハーディン辺境伯城の外郭城門が左右へと高々と押し開かれた。
馬車が石畳の舗装路へと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
「「「――――ッッッ!!!!」」」
ドォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
大気を震わせ、山脈の谷間に反響する、途方もない地鳴りのような歓声が爆発した。
「エレナ様だッ! エレナ様がお戻りになられたぞォォォッッッ!!!!」
「私たちの聖女様だ! エレナ先生万歳ッ!」
「おかえりなさい、エレナ様ッ! ジルヴェスタ閣下万歳ッ!!」
城門から中央広場、そして城へと続く大通りを埋め尽くしていたのは――老若男女、見渡す限りの領民たちの波、波、波だった。
厚手の防寒着を着込んだ農夫たち、エプロン姿の町民女性たち、肩車された子どもたち、杖をついた老人たち。
誰もが満面の笑みを浮かべ、涙を拭い、手を振り、声を枯らして叫んでいる。
王都から「辺境伯討伐軍が一万の規模で進軍した」「エレナ様が反逆者として捕縛されるかもしれない」という不穏な凶報が届いたあの日から、領民たちは夜も眠れず、城の神殿に祈りを捧げ続けていたのだ。
それが今、王都討伐軍を完全に無力化し、国王からの最高等級の勅許状を勝ち取り、誰一人として欠けることなく無傷で帰還を果たした。
領民たちの喜びの爆発は、もはや祝祭の熱狂を遥かに超えていた。
――ヒュッ、ヒュルルルルッ!
澄み切った青空を切り裂いて、両脇の建物の屋根やバルコニーから、一斉に何かが空中へと放り投げられた。
舞い散ったのは――紙吹雪ではなかった。
赤、黄、紫、白、橙――色とりどりの、細かく刻まれた「乾燥ハーブの花弁」だった。
鎮静と安眠をもたらす紫のラベンダー。
抗炎症と皮膚保護を司る黄金色のカモミール。
血行を促す真紅のサフラワー(紅花)。
甘い香りを放つオレンジピールと、清涼な薄荷の葉。
エレナがこの領地に来てから、領民たちに栽培法を教え、城下の薬局で買い取りを広げてきた、生活の糧であり命の象徴たる生薬の花々。
それらが、雪解けの柔らかな風に乗って、まるで天から降り注ぐ虹色の吹雪のように、馬車の天蓋へ、街道の石畳へと、惜しみなく降り注いでいく。
ふわりと立ち上る、芳醇で温かな薬草のアロマ。
街道全体が、巨大な調剤室であるかのように、清冽で優しい香りに包み込まれていた。
「す……すごい……花吹雪……」
私が窓から身を乗り出して息を呑むと、馬車の横に馬を寄せていた副団長カイエンが、手綱を握りながら涼やかな笑みを浮かべた。
その眼鏡の奥の瞳には、かつて王都で溜め込んでいた胃潰瘍の陰鬱さなど微塵もなく、領地の執政官としての誇りが満ち満ちている。
「領民総出の歓迎ですよ、エレナ様。王都から早馬が届き、『エレナ様が王立薬草院の院長の座を蹴って、この北方の地のために研究所を建ててくださる』と知った瞬間、城下町は狂喜乱舞のお祭り騒ぎになりましてね。昨晩から全員が徹夜でハーブの花弁を集めていたのですよ」
「そうですよ、エレナ様!」
反対側から馬を進めてきた治癒魔術師ロディンが、優雅に銀糸のローブを翻し、魔導杖の先から淡い光の粒子を花吹雪に混ぜて放ちながら微笑んだ。
「王都の有象無象に奪われず、あなたが私たちの元へ帰ってきてくださった。……この北方の民にとって、これ以上の奇跡はありませんから」
パカラン、パカラン……と、馬車が中央広場の噴水前へと滑り込み、静かに停車した。
ジルヴェスタ様が先に降り、私へと逞しい手を差し伸べてくれる。
私はその手を取り、純白の防護外套(白衣)の裾を踏まないよう、ゆっくりとステップを降りて石畳へと足を着けた。
足元には、降り積もったハーブの花びらが、ふかふかの絨毯のように敷き詰められている。
私が姿を現した瞬間、広場を埋め尽くしていた領民たちから、割れんばかりの歓声が再び沸き起こった。
「エレナ様ァッ!」
「お帰りなさい、エレナ先生!」
「私たちの聖女様だ!」
人々の温かな笑顔。
手を振る母親たち、涙ぐむ老人たち。
その光景を前にして、私の胸の奥に、言葉にできない熱い塊が込み上げてきた。
――その時だった。
「エレナ先生ェェェッッッ!!!!」
甲高い、けれど力強い子どもの叫び声が、人混みの合間を縫って響いてきた。
「あ……?」
私が視線を向けると、最前列の人波を押し分けるようにして、一人の小さな男の子が、転がりそうな勢いでこちら目掛けて全力疾走してくる姿が見えた。
後ろからは、母親が「これ、トビー! 走っちゃダメよ、転ぶわ!」と慌てて追いかけてきている。
トビー君。
かつて第16話で、城下町の視察に出た際、路地の奥で激苦ポーションを無理やり喉に流し込まれ、真っ青になって嘔吐し、泣き叫んでいた――あの四歳の男の子だった。
あの時、母親のハンナさんは「飲まなきゃ死んでしまう」と半狂乱になり、トビー君は恐怖で気道痙攣を起こしかけていた。
私が「お薬は戦いじゃないのよ」と抱きしめ、甘いオレンジシロップと自家製スポイトを自作して処方したことで、初めて笑顔でお薬を飲めた、あの小さな患者さん。
「トビー君!」
私が反射的にその場にしゃがみ込み、両手を広げると、トビー君は満面の笑顔で私の胸元へと飛び込んできた。
トンッ! と小さな身体が私の白衣にぶつかり、ぎゅっと私の首筋に小さな腕を回してくる。
温かい。
以前出会った時の、あの冷え切ってガタガタと震えていた呼吸器発作の気配は、完全に消え去っていた。
肺胞を巡る空気の音は澄み渡り、頬は林檎のように赤く、生きるエネルギーに満ち溢れている。
「トビー君、元気にしていましたか? もうお咳は出ない?」
私が優しく尋ねると、トビー君は私の胸からパッと顔を離し、誇らしげに小さな胸をドンと叩いた。
「うん! もうお咳、全然出ないよ! 元気モリモリだもん! ……あ、それでね、エレナ先生! 見て見て、これ!」
トビー君は、ズボンのポケットから、大事そうに折り畳まれた小さな正方形のパラフィン紙の包みを取り出した。
それは――オットー先生が調剤室で調製した、城下の診療所から処方されている通常の「健胃整腸生薬の粉末(散剤)」の包み紙だった。
甘いシロップでコーティングされていない、純粋な乾燥生薬を細かく砕いた、口に含めば独特の苦味と香草の香りが広がる、大人の薬。
「これね、オットーおじいちゃんがくれたお薬なの! 僕ね、もうオレンジのシロップがなくても、お口にお水を含んで、お薬をペッて乗せて、ゴックンって上手に飲めるようになったんだよ! 泣かないで、一回でお水でゴクンってできたの! すごいでしょ!?」
トビー君の輝くような自慢げな瞳。
後ろから追いついてきた母親のハンナさんが、涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
「エレナ様……本当に、本当にありがとうございました。あんなに薬を怖がって、瓶を見るだけで引きつけを起こしていたこの子が……今では『エレナ先生が教えてくれたから、僕はお薬を上手に飲めるんだ』って、自分から進んでお水を用意するようになったんです。……エレナ様が、あの日、この子に『お薬は怖くないよ』って教えてくださったおかげです……!」
「…………っ」
私の胸の奥が、激しく、激しく震えた。
――小児の服薬自立プロトコル(Pediatric Medication Autonomy)。
近代小児薬理学、および行動科学における最も重要なマイルストーン。
乳幼児期において、苦痛や恐怖、窒息のトラウマを伴う強制投薬を経験した子どもは、脳の扁桃体に「投薬=生命の危機」という強固な恐怖記憶を形成してしまう。その結果、成長してからも激しい服薬拒否(メディケーション・拒絶)を繰り返し、適切な薬物治療が極めて困難になる悪循環に陥る。
だが、エレナがあの時行ったアプローチは、その悪循環を初期段階で完全に断ち切っていた。
単シロップによる苦味のマスキング。
頬粘膜への微量スポイト投与による嘔吐反射の回避。
「美味しくて、飲むと身体が楽になる」という成功体験の積み重ね。
そのプロセスを経て、子どもの脳の中では「薬=自分を助けてくれる優しい味方」という確固たるポジティブな認知が確立されたのだ。
恐怖心が消え去れば、成長に伴う味覚受容体(T2R苦味受容体)の感受性の変化や、嚥下機能の発達に合わせて、子どもは自らの意志で、自然にシロップから散剤へ、散剤から錠剤へとステップアップすることができる。
無理強いではなく、子どもの自立心を育むことによって達成された、完璧な「服薬コンプライアンスの完成」。
目の前にいるトビー君は、ただ薬を飲めるようになったのではない。
己の身体を慈しみ、病気と向き合い、自らの手で健康を守るという――人間として生きるための最も尊い「自立の一歩」を、しっかりと踏み出していたのだ。
「えらいわ……トビー君。本当に、本当にすごいわね」
私の声が、震えた。
「ううん、僕だけじゃないよ! これ、エレナ先生にあげる!」
トビー君が、もう片方の小さな手のひらをパッと開いた。
そこに握られていたのは――。
雪解けの野原に咲いていた、摘みたての、黄色と白色の小さな野花の花束だった。
子どもの手のひらの体温で少し温められ、茎の先が不器用に結ばれた、名もない春の野花。
「エレナ先生が帰ってきたら、一番にあげようと思って、朝から裏山で探してきたの! 先生、いつも痛いのを治してくれてありがとう! 大好き!」
「…………っ」
その小さな花束を、私の手のひらに乗せられた、その瞬間。
ポロリ、と。
私の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
止めようとしても、止まらなかった。
次から次へと、熱い雫が頬を伝い、トビー君のくれた黄色い花びらを濡らしていく。
脳裏に去来したのは――前世の、あの果てしなく暗く、孤独だった日々の記憶だった。
総合病院の門前薬局。
鳴り止まない処方箋の機械音。
締め切りのプレッシャーと、医師たちの理不尽な怒号。
患者さんからは「待たせるな」「早く薬を出せ」と罵声を浴びせられ、深夜まで残業してカルテを整理しても、誰からも「ありがとう」の一言すら掛けられなかった。
ただすり減るように働き、ボロボロになってアパートの冷たい布団に倒れ込み、誰にも看取られることなく、三十代の若さで過労死していった前世の私。
あの時、私の心は叫んでいた。
『私のやってきたことには、何の意味があったのだろう』
『私の知識は、誰かの役に立っていたのだろうか』と。
そして、この世界に転生してからも。
元婚約者のユルゲンから「光らない薬しか作れぬ無能」と罵られ、調合室から追い出され、雪山へと追放された。
私の信じる医療は、この世界でも否定されるのではないかと、心のどこかでずっと怯えていた。
――だけど。
今、私の目の前にあるのは、何だ。
「エレナ先生、どうして泣いてるの……? お花、痛かった……?」
トビー君が不安そうに、小さな眉を寄せて私の顔を見上げてくる。
「ううん……ううん、違うのよ、トビー君」
私は涙を拭うこともせず、トビー君の小さな身体を、力いっぱい抱きしめた。
子どもの温かな体温が、前世から私の魂を縛り付けていた、すべての孤独とトラウマの氷を、跡形もなく溶かし去っていく。
「痛くないわ……とっても、とっても嬉しいの。……ありがとう、トビー君。私の一生の宝物にするわね。本当にお利口さん、よく頑張ったわね……!」
「えへへ……! うん!」
トビー君が嬉しそうに笑い、私の白衣に顔を埋めた。
届いていたのだ。
私が前世で積み重ねてきた知識も、薬理学のロジックも、この世界で貫き通した生化学の信念も――何一つとして、無駄なものなどなかった。
こうして、目の前の小さな命を救い、痛みを消し、その子の未来の笑顔を咲かせることができている。
薬剤師として、これ以上の幸福が、これ以上の栄誉が、この世界のどこにあるだろうか。
――スッ。
不意に、私の震える背中に、温かく、力強い掌がそっと添えられた。
振り返らなくても分かった。
立ち上がった私の隣に寄り添い、漆黒の毛皮外套を私の肩へと半分重ねるようにして抱き寄せてくれたのは――ジルヴェスタ様だった。
「ジルヴェスタ……様……」
「泣くな、エレナ」
ジルヴェスタ様の、低く優しい声。
男の紫の瞳は、私を見つめ、そして広場を埋め尽くす何千人もの領民たちを見渡していた。
その瞳にもまた、滅多に見せることのない、熱い感動の光が滲んでいた。
「お前がこの地に蒔いた種は、こうして民の心の中で、美しく芽吹いている。……お前が救ったのは、私の命だけではない。この領地の未来そのものを、お前がその手で救い上げてくれたのだ」
ジルヴェスタ様は私の肩を力強く抱き寄せ、そして、広場の領民たちへ向けて、天地を揺るがすような号令を響かせた。
「ハーディン辺境伯領のすべての同胞たちよ! 我が領の至宝であり、奇跡の薬剤師たるエレナ・ノールが、今ここに帰還した! 彼女の知恵と慈愛を称え、今宵は城中のワインと食糧をすべて開放せよ! 宴だッ!!」
「「「うおおおおおおおおっっっ!!!!」」」
地鳴りのような歓声が、再び青空へと突き抜けた。
バルツが大剣を振り回して叫び、オットー老侍医が涙をボロボロこぼしながら「師匠ォォッ!」と駆け寄ってきて、マルグリット総家政婦長が温かいスープの杯を両手に掲げて微笑んでいる。
色とりどりのハーブの花びらが、私たちの頭上へ、肩へ、足元へと、祝福の雨となって降り注ぎ続ける。
敵味方もなく、身分の隔たりもなく。
ひとつの大きな「家族」となったハーディン辺境伯領の、最高に健やかで、最高に温かな凱旋の瞬間。
私はジルヴェスタ様の胸に身を預け、トビー君の手を握りながら、青空を見上げて心からの笑顔を咲かせたのだった。
◇
――そして。
感動の凱旋から、数ヶ月の月日が流れた。
春の雪解けは終わりを告げ、北方の大地は生命力あふれる初夏の緑に覆われていた。
白竜峡谷の麓、かつて王都軍が毒に倒れ、野外救護ステーションが設営されたあの広大な大地に――。
今や、帝国の歴史上かつてない規模を誇る、白亜の巨大な石造建築物がその威容を現していた。
最新鋭のガラス温室、何十基もの蒸留器が並ぶ大調剤室、薬草の有効成分を抽出するための研究棟、そして全国から集まる医師や薬師を受け入れるための巨大な講堂。
入り口のアーチには、皇帝直々の純金の紋章とともに、誇らしげにその名が刻まれていた。
『国立ハーディン総合薬学研究所』
明日はいよいよ、全国の貴族や学者、近隣諸侯を招いての、華々しい開所式。
初代所長に任命された私、エレナ・ノールの、新たな挑戦が幕を開けようとしていた。
――だが。
その栄光ある研究所の完成したばかりの真新しい廊下に、突如として、怒声と足音がけたたましく響き渡った。
「どけコラァッ! 所長室の真向かいの警護室は、力仕事と重い薬品樽を運ぶ俺が使うべきだろォッ!!」
「何を野蛮なことを仰っているのですか、バルツ隊長。所長室の隣に必要なのは、膨大な研究論文と流通伝票を整理する事務方――すなわち私です」
「ふふ、お二人とも暑苦しいですね。エレナ様の研究室に最高のアロマを漂わせ、魔力循環を整えられるこの私が、最も近くに控えるべきでしょう?」
「「「何だと貴様ァッ!!」」」
ドタバタドタバタッ! と響く、大男たちの仁義なき縄張り争いの足音。
真新しい所長室の机で、ハーブの成分分析ノートを開いていた私は、深々とため息をつき、頭を抱えた。
「……はぁ。明日が開所式だというのに……あの人たちは一体何をやってるのかしら……」




