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第46話:泥まみれの元婚約者。「私のポーションを否定するな!」

ピュー……と、雪原を吹き抜ける冷たい風が、天幕の入り口の隙間からかすかに吹き込んでいた。

先ほどまで何千人もの王都兵が涙を流してひれ伏し、救われた命の温もりに包まれていた野外救護ステーション。

だが、その温かな静寂を暴力的にぶち壊すようにして、一人の男が泥濘(ぬかるみ)の地面を這いずり、転がり込んできた。


「ひぃ……っ! あ、開けろ! 誰か……誰かいないのか! 私を……私を中に入れろぉぉっ!」


その姿は、かつて王都のサロンで傲慢に顎を反らし、人々から「天才」「若き至宝」と持て囃されていた筆頭錬金術師の面影など、微塵も残っていなかった。

金糸で百合の紋章が縫い込まれていたはずの純白のローブは、泥と汚水、そして雪崩の土砂にまみれて黒く汚れ果て、裾は引き裂かれてボロ布のようになっている。

自慢の金髪は油と汗と泥でベッタリと額に張り付き、落ち窪んだ青い瞳は血走り、鼻水と涎が混ざり合って顎先から垂れ落ちていた。

片方の足からは高級な革靴が脱げ落ち、露出した足先は極度の寒冷によって赤黒く鬱血し、ところどころ凍傷の初期症状である水疱が潰れて爛れている。

魔獣の咆哮に怯え、護衛の兵士たちにも見捨てられ、雪深い山林を無我夢中で這いずり回って逃げてきたのだろう。爪の間には黒い泥と小石がびっしりと詰まり、指先は寒さで紫色に痙攣していた。


「あ……あたたかい……火だ……! 生きている……私は助かったのか……!?」


天幕の敷居を這い越えたユルゲンは、温熱結界が保つ暖気と、大鍋から立ち上る蒸気に触れた瞬間、だらしなく口を半開きにして安堵の息を漏らした。

しかし――その薄汚れた顔を上げ、室内の光景を目にした刹那、彼の表情は急速に凍りついた。


そこに広がっていたのは、彼が想像していたような「敗残兵の死体置き場」ではなかった。

整然と並べられた木製ベッドの上で、手厚い手当を受け、温かいスープを啜っている自軍の兵士たち。

傷口には清潔なリネンが巻かれ、頭上からは透明な薬液が点滴となって落ち、かつてないほど穏やかな寝息を立てている者たち。

そして――。

その中央で、ミスリルの糸が織り込まれた純白の美しい防護外套を纏い、威厳に満ちた佇まいでカルテを手に佇む、一人の少女の姿。


「……え……?」


ユルゲンの喉から、掠れた乾いた音が漏れた。

何度も目を擦り、信じられないものを見るように凝視する。

泥臭い下級調合室で、いつも擦り切れた作業着を着て、自分の後ろを伏し目がちについて回っていた、あの女。

無能の烙印を押し、冷笑とともに婚約破棄を突きつけ、極寒の死地へと追放してやったはずの、男爵令嬢エレナ・ノール。

なぜ、その女が――まるで神話の聖女のように、光を浴びてそこに立っているのか。

しかも、その足元には、かつて自分に絶対の忠誠を誓っていたはずの中央騎士団の精鋭たちが、敬虔な信徒のように頭を垂れて控えているではないか。


「エ……レ……ナ……?」


ユルゲンの口から、呆然とした呟きが零れ落ちた。

だが、その驚愕は、次の瞬間にはドス黒い屈辱と、常軌を逸した逆上へと塗り潰された。

泥まみれの床を両手で叩き、男はふらふらと立ち上がったのだ。


「エレナァッッッ!!!!」


鼓膜を劈くような、狂乱の絶叫。

ユルゲンは千鳥足でよろめきながら、血走った目を剥き出しにして私目掛けて突進してきた。


「貴様! 貴様、なぜこんなところにいる!? 辺境の雪山で飢え死にしていなかったのか!? なぜそんな豪奢な衣を纏っている! 誰の許可を得て、そのように偉そうに立っているのだッ!!」


唾を撒き散らしながら喚き立てるユルゲン。

だが、私の周囲に控えていた北方守護騎士団の戦士たちが、即座に動いた。

ジャキィンッ! と鋼が擦れ合う冷たい音が響き、第一部隊長バルツが抜剣するまでもなく、その巨躯でユルゲンの進路を塞ぐように立ちはだかる。

丸太のような太い腕が、ユルゲンの胸元を軽く小突いただけで、泥まみれの男は「ぶへっ!」と間抜けな声を上げて尻餅をついた。


「おいおい、どこの薄汚ねえ野良犬かと思えば……王都の偉い錬金術師様じゃねえか。泥水すするような格好で、誰に向かって吠えてやがる」


バルツの蔑みきった冷たい視線。

だが、恐怖とプライドの崩壊で脳を焼き切られたユルゲンには、周囲の危険な空気など一切目に入っていなかった。

尻餅をついたまま、ベッドの上で点滴を受けている王都兵たちを見回し、さらにヒステリックに甲高い声を張り上げる。


「な、何をしているんだ、お前たち! 中央騎士団の兵士だろうが! なぜ敵の陣地で大人しく寝転がっている! なぜその小娘に傅いているんだ! エレナ! 貴様、敵国の兵を無断で治療するなど、明確な国家反逆だぞ! 王宮の大公廷で八つ裂きにされたいのかッ!!」


どこまでも身勝手で、どこまでもピントのズレた怒声。

自らの軍勢を率いて侵略しておきながら、その兵士たちが救護されている光景を見て「反逆だ」と騒ぎ立てる。

あまりの滑稽さに、天幕の中にいた王都兵たちの顔から、完全に表情が消え失せた。


――そして。

ユルゲンの視線が、天幕の入り口付近の地面――砕け散った無数の硝子片へと向けられた瞬間、男の狂気は臨界点を突破した。


「あ……あぁ……!? な、何だこれは……!?」


ユルゲンは這いつくばり、泥の中に散らばる青白いガラスの破片を、震える指先でかき集めた。

それは、彼が心血を注ぎ、自らの名声のすべてを賭けて全軍に配備した、改良型『ハイ・エーテルポーション』の無惨な残骸だった。

泥水に溶け出し、泡を吹いて汚泥と同化していく青碧の薬液。


「わ、私の……私の最高傑作が……!? 世界を支配するはずだった、神の霊薬が……割られている……!? 捨てられているだとォッ!?」


ユルゲンは自らの髪を両手で激しく掻きむしり、獣のように咆哮した。


「誰だ! 誰がこんなことをした! 私の薬を何だと思っているんだ! 国王陛下からも絶賛され、一滴で金貨数十枚の価値がある国宝の秘薬だぞ! それを、こんな泥の中に捨てるなど……万死に値する冒涜だ! お前たち、正気か!? この神薬を飲まぬから、魔獣に怯えて無様に倒れるのだぞ!!」


その言葉が、雪原の空気を一瞬にして絶対零度へと凍りつかせた。

倒れていた兵士たちが、拳を白くなるほど強く握りしめ、ギリギリと奥歯を噛みしめる音が至る所から響く。

だが、ユルゲンの口から飛び出したのは、さらに救いようのない、醜悪極まりない自己弁護だった。


「そうだ……! 兵が倒れたのは、ポーションのせいではない! この北方の異常な寒さのせいだ! 急激な吹雪で身体が冷え切ったからに決まっている! それに……お前たちの魔力耐性が低すぎるからだ! 軟弱な平民の肉体が、私の高貴なる至高の魔力光を受け止めきれず、拒絶反応を起こしたのだ! そうに決まっている! 私の調合は完全無欠だ! 私のポーションに、非の打ち所など一つもあるはずがないんだァッ!!」


唾を撒き散らし、自らの理論の正しさを必死に叫び続けるユルゲン。

その瞳孔は過度の恐怖と興奮で細かく揺れ動き、額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。


――「認知バイアス」と「医療過誤の否認」。


近代臨床心理学、および医療事故調査において最も警戒される、悪徳研究者の心理的崩壊プロセス。

人間は、自らが心血を注ぎ、自己のアイデンティティそのものと一体化した信念(ドグマ)が根底から覆された時、その耐え難い「認知的不協和」から逃れるために、無意識のうちに現実を歪曲し、外部の事象を都合よく改ざんし始める。

目の前に、自らの処方によって臓器を破壊され、血を吐いて倒れる何千人もの生きた証拠が転がっているというのに。

尿細管の目詰まりも、急性喉頭浮腫も、血小板の減少も――すべてを生化学的な必然として直視することができない。

認めてしまえば、自分が「天才錬金術師」などではなく、ただの「大量殺傷を引き起こした無知な犯罪者」であるという現実を呑み込まざるを得なくなるからだ。

だからこそ、彼の脳は現実を拒絶し、すべての責任を「寒冷」や「兵の根性不足」という外部要因へとすり替え、自らの虚飾の城の中に閉じこもろうとする。


だが、その醜悪な自己防衛は、次の瞬間、最も邪悪な「責任転嫁」へと舵を切った。


「……ちがう。寒さだけではない……」


ユルゲンが、ギロリと濁った視線を私へと向けた。

その唇が、歪んだ三日月のように吊り上がる。


「お前だ……! エレナ! 貴様の仕業だなッ!?」


「……何ですって?」


私が冷ややかに問い返すと、ユルゲンは確信を得たように狂乱の笑みを浮かべ、泥まみれの指先を私へと突きつけた。


「貴様が何か細工をしたのだ! あの時、王立薬草院から追放される直前、貴様は我が研究所の原料保管庫に細工をした! あるいは、この北方の地から、私のポーションを妨害するための邪悪な呪詛毒を風に乗せて撒き散らしたのだろう! そうでなければ、私の完璧な薬で兵が倒れるはずがない! 貴様が私を貶めるために、意図的にこの惨劇を引き起こしたのだ!!」


天幕の中の空気が、シンと静まり返った。

誰もが絶句していた。

己の調合ミスを認めたくない一心で、ここまで破廉恥な妄想を事実として叫び立てることができるのかと、その底知れぬ浅ましさに鳥肌を立てていた。


「そうだ、そうに決まっている! 貴様は昔からそうだ! 私の輝かしい才能に嫉妬し、影でコソコソと泥臭いメモばかり取って私を馬鹿にしていた! 読めもしないデタラメな暗号ノートを残して私を嘲笑い、今度は私のポーションの成果を横取りする気か!?」


ユルゲンは膝立ちになり、まるで駄々をこねる子供のように両腕を振り回して喚き散らした。


「私の地位を奪うな! 私の名声を奪うな! 王立薬草院の筆頭は私だ! 国王陛下に不老不死の霊薬を献上し、歴史に名を残すのはこのユルゲン・フォン・ブラントなのだ! お前のような無能の男爵令嬢に、私の栄光を泥水で汚されてたまるか! 責任を取れ、エレナ! 今すぐ兵たちに『すべてはエレナの呪いのせいでした、ユルゲン様のポーションこそが正しかったのです』と証言しろ! そして、その月光花のエキスをすべて私に差し出せぇぇぇっ!!」


喉が張り裂けんばかりの絶叫。

床に額を擦り付け、唾液と泥を撒き散らしながら、なおも他人の成果を強奪しようと手を伸ばす姿。

そこには、一国の医療を担うべき者の尊厳など、塵芥ほどにも残っていなかった。

ただ、自らの虚栄心と権力欲に憑りつかれ、壊れた操り人形のように喚き散らす、哀れで、醜悪で、救いようのない道化。


「…………」


天幕の中を満たしていたのは、怒りですらなかった。

それは――あまりの浅ましさに対する、凍てつくような、底知れぬ「軽蔑」だった。


ベッドの上で横たわっていた王都兵たちが、無言のまま、冷え切った眼差しでユルゲンを見下ろしていた。

小隊長ルークの瞳には、かつて上官に向けられていた忠誠の光など欠片もなかった。

あるのは、ゴミを見るような、汚物に対するような、純粋な嫌悪と侮蔑。

自分たちの命を弄び、苦痛に喘ぐ姿を「根性不足」と切り捨て、今また自らの保身のために奇跡の恩人を泥棒呼ばわりする男。

兵士たちの心の中で、ユルゲンという存在は、完全に「軽蔑すべき敵」として定義されていた。


「……ふん」


腕を組んでいたジルヴェスタ様が、鼻で冷ややかに笑った。

腰の黒剣を抜く価値すら見出せないとばかりに、紫の瞳はゴミを見るように細められている。

カイエンは手帳にペン先を走らせながら、「重度の自己愛性パーソナリティ障害、および急性妄想状態……軍法会議の前に、精神隔離病棟の申請書が必要ですね」と吐き捨てるように呟き、ロディンは「汚らわしい。あんな下劣な声を私の女神に浴びせるなど、舌を引っこ抜いてやりたいですね」と指先で青い火花を弄んでいた。


誰も、ユルゲンの言葉など信じていなかった。

誰も、彼の喚き声に耳を傾ける者はいなかった。

彼は完全に孤立していた。己の愚行によって築き上げた、軽蔑の檻の中に。


――そして。


トン。


静まり返った天幕の中に、乾いた小さな音が響いた。

私が、手に持っていた木製のカルテ板を、調合台の白大理石の上へと、静かに置いた音だった。


「……ひっ?」


ユルゲンの喚き声が、ピタリと止まった。

カルテを置いた私の動作があまりにも静かで、あまりにも冷徹だったため、男の本能が反射的に恐怖を感知したのだ。


私は、純白の防護外套の裾を整え、ゆっくりとユルゲンの前へと歩み出た。

足音は一つもない。

首から提げた聴診筒が、歩みに合わせて微かに揺れる。

床に這いつくばる元婚約者を見下ろす私の視線。

その翡翠の双眸には――かつて王立薬草院で彼に向けていたような、遠慮や躊躇い、あるいは同情の色など、微塵も存在しなかった。


絶対零度の、氷壁。

感情を一切排し、ただ病魔の根源を冷酷に直視する、臨床薬剤師としての不退転の眼差し。

その瞳に射すくめられた瞬間、ユルゲンの喉がヒュッと鳴り、男は泥水の上を後ずさった。


「え……エレ、ナ……?」


震えるユルゲンを見下ろしたまま。

私は、静かに、だが天幕の隅々にまで透き通るような声で、告げた。


「……ユルゲン様。あなたのその見苦しい言い訳は、もう聞き飽きました」


言葉の刃が、静寂を切り裂く。

これまで一度も見せたことのない、凛冽たる医療従事者の鉄槌が――今まさに、哀れな愚者の頭上へと振り下ろされようとしていた。

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