第十四話 夜会
夏の盛りに向かって、昼の日差しが次第に熱を帯びてくると、王都の夜も随分と過ごしやすくなる。
その日、シュタイン侯爵家のタウンハウスで催された夜会は、格式としては中規模に属していた。王家主催ほどの堅苦しさはなく、とはいえ集う顔ぶれは十分に華やかだ。音楽、談笑、思惑――社交界特有の熱気が、磨き上げられた大広間に満ちていた。
その空気が少しばかりざわめきに揺らいだのは、夜会も終盤に差し掛かった頃のことだった。
黒の礼装に身を包んだ長身の青年――レヴィエント・ターズウェルは、自然な足取りで会場へと入ってきた。飾り気のない装いでありながら、鍛え抜かれた体躯と研ぎ澄まされた立ち姿が、それだけで人目を引く。戦場に立つ男特有の張り詰めた気配は、華やかな社交場にあってなお消えない。
「……レヴィエント卿では?」
「珍しい……」
囁きは波紋のように広がっていった。
レヴィエントがこうした夜会に姿を見せることは稀だった。彼が社交に出てくるのは、王家主催の公式行事か、ターズウェル伯爵家主催の催しくらいである。それも、騎士の仕事で前線に出ることが多く、王都に帰った際も鍛錬を優先するため、後者でさえめったに出てこない。規模こそそれなりではあるが、特別な意味を持つわけでもない、いわば普通の夜会に姿を見せたこと自体が、噂好きの貴族たちにとっては格好の話題であった。
レヴィエントは周囲の視線を気にする様子もなく、主催者のもとへと歩み寄る。
「シュタイン侯爵閣下にご挨拶申し上げます。本日はお招きいただきありがとうございます。到着が遅れましたこと、深くお詫びいたします。任務が予想以上に長引きまして」
「なに、まったく構わんよ。むしろ多忙の中、こうして足を運んでくれたことを嬉しく思う。レヴィエント君が顔を出すとは、今宵は少しばかり運が良いらしい」
「閣下にそう言っていただけるとは、光栄です」
シュタイン侯爵は、レヴィエントの父が騎士として現役だったころの上官だった元第一騎士団員だ。六十を過ぎた今でも、背筋はまっすぐと伸び、立ち姿は堂々とした威厳に満ちている。レヴィエントの剣を「気に入った」と、少年時代は何度も稽古をつけてもらった相手だった。
シュタイン侯爵との挨拶を終えると、レヴィエントはすぐに周囲の貴族たちに取り囲まれた。
戦場の話を求める者、近況を探る者、さりげなく縁談を匂わせる者。さらには、遠巻きに視線を送っていた令嬢たちも、機を見ては声をかけてくる。
久方ぶりの社交にしては、なかなかに骨が折れる。
「前線の様子はいかがですかな」
「ご無事で何よりでございます、レヴィエント卿」
「今後のご予定は……」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉を、レヴィエントは一つ一つ丁寧に受け止め、過不足なく返していった。必要以上に踏み込ませず、それでいて無礼にもならない距離感。貴族としての立ち回りは相変わらず得意ではないが、ターズウェル伯爵家の人間として問題のない程度にはこなすことができる。レヴィエントの立場は昔よりずっと複雑で、社交も腹の探り合いも難易度は段違いだったが、レヴィエント自身もまた成長しているのだ。
目の前の貴族を相手にしながら、頭では別のことを考える余裕さえあった。
(……あの方は)
相手の注意が逸れた時、話題が変わるときの一瞬、会話の相手が離れてからまた話しかけられるまでのわずかな時間。さりげなく、視線だけを静かに巡らせる。広い会場の奥、光の集まる場所、人の流れの中心。
それはすぐに見つかった。
テラスの近くにある、もう一つの人だかり。その中心に――テレシアがいた。
彼女の周囲にもまた、婚約を望む家門の者たちや、有力貴族、令嬢たちが集まっている。高位貴族が多いからか、周囲の貴族たちの装いは会場の中でも特に華やかだった。
だが、それでも。
(……やはり)
人の波の中にあって、ただ一人、迷いなく目を引く。深青のドレスを纏ったその姿は、周囲の華やかさの中にあってもなお際立って見えた。
それは容姿の問題ではない。立ち方、視線、空気の纏い方――すべてが違う。自然と、視線がそこに留まる。
相変わらず、彼女は美しかった。立ち居振る舞いのすべてが洗練されていて、指先ひとつが優雅だった。身動ぐたびにふわりと揺れる金髪も、シャンデリアの光を取り込む碧い瞳も、麗しく微笑む様も、すべてが。
その時だった。
ふ、と。テレシアの視線が、こちらを向いた。
(――あ、)
ほんの、一瞬。――確かに、目が合った。
次の瞬間には、彼女は別の貴族に話しかけられ、何事もなかったかのように視線を外す。あまりにも自然な所作だった。他の誰と目が合ってもきっとそうするように、柔らかな微笑みを浮かべ、再び社交の輪の中へと戻っていく。
ただレヴィエントだけが、その背を見送っていた。
目が合ったのは、ほんの一瞬のことだ。だが、レヴィエントにはその一瞬で十分だった。
(……ああ)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。静かに、しかし確実に。
まるで、燻っていた火種に風が吹き込まれたかのように。
「――レヴィエント卿?」
呼びかけに、はっと意識を引き戻される。
声をかけてきたのは初老の男性だった。フルリエ公爵閥の子爵だ。物腰の柔らかな男で、柔和な顔立ちにはどこか人の好さを感じさせる笑みを浮かべている。
レヴィエントが一瞬だけ視線を外した、その先を――子爵は見逃していなかった。
人の波の向こう、光の集まる一角。そこにいる人物へと向けられた視線に込められた熱。
(……なるほど)
子爵は内心で小さく得心する。かつて耳にした噂と、今しがたの様子が綺麗に結びついた。若い騎士の初恋の相手が誰であるかなど、この社交界では半ば公然の話だ。
だからこそ、子爵はそれ以上何も問わなかった。
レヴィエントは一瞬だけ言葉を探し――すぐに決めた。
「失礼しました。――少し、外してもよろしいでしょうか」
「もちろんさ。どうぞ、お気になさらず。挨拶はまた後日させてもらおうかな」
「――はい、必ず。……恐れ入ります」
「はは、構わないよ」
レヴィエントは子爵に深く一礼し、さっと踵を返した。美しくさばかれた礼服の裾が翻る。向かう先は決まっていた。
「……若いねえ」
一直線にテラスへと向かっていく青年の背中を見ながら、子爵はそう小さく呟いた。
――――
人波を縫うようにして、レヴィエントはテラスへと――テレシアのもとへと急いだ。レヴィエントの様子に何を感じたのか、テレシアの周囲にいた貴族たちが自然と道を空ける。
背の高いレヴィエントからは、人混みの中でもテレシアの姿がよく見えた。テレシアは友人のご令嬢と歓談しているようだ。楽しそうな横顔が美しくて、レヴィエントは少しばかり目を眇める。
(……何が、確かめるしかない、だ。……まったく、どうしようもないな)
分かっていたことだった。とうに知っていたはずだった。
それでも、今この瞬間、改めて理解する。
それは激しい衝動ではない。叫ぶような感情でもない。ただ、揺るぎようのない事実として、そこにあった。胸の奥で、静かに揺らめき燃えている。この火が消える日など、きっと。
(――確かめたところで、諦められなどしないくせに)
「テレシア嬢」
「――レヴィエント様」




