平相国殿五十賀事附薩摩守帰参事(「清盛、五十の宴」)
さても平相国清盛、五十の賀を祝ひ給ふ御宴には、異腹の弟ばら教盛・経盛、小松の嫡男・重盛、時子腹の子ども・宗盛・知盛・重衡、小松谷の御孫ども、他にも係累数多数列座し給ひて、各々相国を祝ひ奉るべく舞をなし、楽をなし、一門こぞりて悦び給ふ御姿、誠にめでたき有様に、これ平家一門栄華の極みとこそ人々の申しつれ。
さりながら武門の子の殿上に昇りて、遂に相国とならせ給ふは、前代未聞の珍事なり。平家には栄華の極みといえども、それより殿上におはしつる摂関・公卿・殿上人にはなべてやすからざる次第にて、殊に厳島社修繕の趣、元来権門の許しのあらざれば適はざるを、相国私事になしつるは、人々あさましく思し奉る。
この日も、五十の賀には、摂政基房卿・右大臣兼実卿、参上し給ひて、各々相国に祝ひの御事ども申し奉らせ給へども、心のうちには、武門の宴席をいみじくあさましきものとて嫉み給ひ、時あらば「恥みさせむ、恥かかせむ」と思して、武門には適うまじき舞・楽を奉るを望みなどし、清盛の子らのほどをはからむなどし給ひけり。されども相国ちっとも臆さず、小松大臣重盛・後の内府宗盛をして舞を奉らしめ給ふ。この日の笛は経盛なれば、舞のめでたき様にもつけ、楽のおもしろき様なども、さながら式部が古物語に、光君・頭中将の奉り給ふ青海波の如くなり。これには摂政基房卿も嘆息し給ひて、めでたき公達ぶり、武門にしかずと思し召し給ふ。さりながら「歌のほど如何」とばかり覚えて、右大臣兼実卿、「歌を奉らむと思せども、平家一門に歌の上手はおはしまさずや」と仰せ給へば、これには舞楽の覚えのめでたき一門も、色をなし、「如何にせむ」とぞ覚えける。この右大臣兼実卿、古今に並びなき歌の上手、朝廷にもめでたき歌詠みにして、これに歌を合はすを能くする者は、平家一門といへども覚えなきが故なり。人々、ざざめきてありければ、相国は末弟・薩摩守忠度殿を召し、右大臣と競ふべき由命ぜらる。
この薩摩守忠度殿と申すは、相国には異腹の御兄弟、経盛・教盛・頼盛にも末弟にして、長く熊野におはし給ふを、兄の五十の宴席と聞き侍り、熊野を下りて急ぎ都にのぼらせ給ひぬるなり。相国にまみえ奉るはこの日が初にて、他にも経盛・教盛にも顔さえ知らぬ弟にて候とかや。あさましき地にて卑しき者どもに養はれつるが故にやあらむ、風体いみじくあさましく、御顔には黒ひげの、浅茅が如くに生い茂り、埋めむばかりにて、召したる直垂のなへたるなど、さながら乞人の如くして、六波羅に参上し給ふ折にも、「強盗にやあらむ、盗人にやあらむ」と、女房ばらにいみじく怖れられ奉る御有様なり。「歌のほどは知らず、右大臣殿と並ぶべきやうもあらず」と、列座の人々、いみじく怖れ給ふ。
しかれども、右大臣殿、有明の月と詠みければ、薩摩守殿、津守の浦の松とぞ返し奉る。歌の有様、雅やかにておもしろき風情、右大臣殿に適ふばかりにや非ず、ほどを越すばかりにて、列座の人々、目を驚かす有様なり。また、右大臣殿、待つ心を詠めば、恨み心地を返す。この御返しもめでたき衣通姫の御歌の如くして、遂に右大臣殿、薩摩守殿をめでたき歌詠みと評し、これを見給ふ基房卿も、「これほどの歌の上手、平家におはすとは知らず」と仰せ給ふとかや。
これ、薩摩守殿は鄙人にておはし給へども、御父君忠盛公の歌の上手はなべて言うべうもあらず、御生母も聞こえたる歌詠みにて候へば、都には天下第一の歌の誉れの俊成卿に教えを受け、勅撰集にも採られたりつるなり。さながら髭黒大将の今におはしつるが如き風体なれども、歌の上手下手のなべて人の表に現わるるべきか。
相国これを知るや知らず、薩摩守殿を召したるは、人の材、才をば見つつ、能くたつべき上手に候ゆえなり。歌こそあえて上手には候はねども、かくなる才のあれば、武門の子も天下第一のおぼえめでたき太政大臣にのぼらせ給ふも叶ふべし。これ偏に歌の功徳、前世の功名、仏性厚きがゆえなり。薩摩守殿のめでたき有様を誉めざる人もなければ、相国の政道の誉れ高きをめでたく思はざる人もなし。いずれもいずれもめでたきこと限りなし。




