第10章 — 見えない代償
夜明け前の空気は重い布のようにタケダのガレージを覆っていた。
リョクは車のシートに座り、頭の中を整理しようとしていた――
だが、そこには奇妙な空洞があった。
まるで“部屋ひとつ”丸ごと抜き取られ、
埃ひとつ残っていないような、そんな空っぽさ。
タケダが金属の扉を開け、欠伸をする。
「また走ったんだろ?」
リョクの目の奥に宿る奇妙な光を見て、タケダは眉をひそめる。
「何があったんだ、まったく?」
リョクは首を振るだけだった。
勝ったのに……
何かを失った。
そしてその“失ったもの”に、名前すら与えられない。
遠いあの日、母が笑って抱き寄せてくれた午後を思い出そうとすると、
映像はぼやけ、
音は消え、
温もりは一瞬で霧散する。
リョクは強くハンドルを握りしめた。
その“欠落”は、どんな怪我より痛かった。
タケダが肩に手を置く。
「青白いぞ。幽霊でも見たみたいだ。」
リョクは笑う――笑いにならない笑いで。
「……見たのかもしれない。」
室内のルームミラーが一瞬だけ暗く曇る。
まるで“見えない呼吸”がガラスを曇らせたかのように。
あの存在が、熱い油のように彼の精神を滑っていく。
――心配するな。記憶なんて過大評価だ。
大事なのは……速度だ。
リョクの胃の奥に、
物理的ではない吐き気が湧いた。
“失うことそのもの”に対する酔いのような感覚。
自分の手を見ると、
そこには今まで存在しなかった細かい震えが走っていた。
タケダはまだ話している。
問いかけ、理解しようとしている。
だがリョクにはもう耳に入らない。
彼の視線は、
ガレージの暗がりの片隅へ向けられた。
風もないのに、影がわずかに揺れた。
そして――
深く、満足げな声が囁いた。
「これが……最初のひとかけらだ。」
リョクは悟る。
その代償は、
もう二度と取り戻せないのだと。




