65.自覚のある執着
ティアディケは、後ろからテオドアの襟首を優しく掴んだ。
「矢張り、目を離してはならなかった。意に沿わない事を強要された人間は、そこから逃げ出そうと躍起になる。分かっていたはずだった」
声音はいつも通りだ。触れる手も、あくまで優しい。
だが、この、静かに這い上がってくるような威圧感はなんだろう。
テオドアは、感じたことのない恐怖に、知らず唾を飲み込んだ。
「何が不満だ。何が汝を駆り立てる? ここには危険が何も無い。何人たりとも許可無く立ち入る事はできない。吾らは楽園を創り上げた。汝の母親も居る。不自由など無いはずだ。何故、逆らおうとする」
どうして、逃げようとしたことがバレたのか。魔法は当然のように失敗したはずだ。発動していない魔法を察知できるほど、『戦と正義の女神』は気配に敏いのだろうか?
――そんなことを考えている場合ではなかった。
テオドアは、真っ白になりかける頭をなんとか働かせて、言葉を絞り出した。
「お、お三方に不満はありません。あるわけがない。ここに危険がないというのも、分かります。母もいますから、現実世界にほとんど心残りはありません」
「……」
じわじわと這い寄る命の危機に、冷や汗を流しながら、テオドアは言い募る。
しかし、同時に、「嘘を吐いてはいけない」ということも、強く感じ取っていた。
少しでも不誠実な受け答えをすれば、彼女は容赦をしないだろう。殺される――よりも、もっと取り返しのつかない事態にだって、陥るかもしれない。
具体的に何が、とは言えないが。本能が強く訴えるのである。
「本当だったら、こちらからお願いしてでも、この世界に住み続けていたい。僕なんかにはもったいないくらい、たくさんご厚意をいただきました」
でも。
――でも、それは、テオドアの本意にはそぐわない。
テオドアは、心にもない美辞麗句が飛び出しそうになった口を、一度ぎゅっと閉じた。
そうして、一瞬のためらいの後、口を開く。
「僭越ながら、お伺いします――ティアディケさま。先ほど、貴女さまは、『楽園を創った』とおっしゃいました。でも、それは誰にとっての楽園なのですか?」
確かに、ここは楽園だ。
テオドアは何もする必要がない。過剰に持ち上げられることも、貶められることもない。〝依代〟という身分もない。魔力があってもなくても何も言われない。心配だった母も近くにいる。
なにより、テオドアの「魂」をこの上なく好いてくれる、美しい女神が三柱もいる。
喜ぶべきだろう。耽溺するべきだろう。
――だが、そこに、テオドアの意思はひとつもない。
勝手に環境を全て整えて、「快適だろう」「望んでいたんだろう」と押し付けられる。放り込まれる。
彼女たちの目に、「テオドア」はいない。はるか昔に喪われた男の残滓を求めて、代替品のように扱われるだけ。
ここは、彼女たちのとっての、楽園。死んだ男の記憶を追いかけ、保存し、飼い続けるための檻。
例え、テオドアが前世の記憶を持っていて、うまく迎合できるかもしれなくても――テオドアはもう、「死んだ番人」ではない。
死んだ番人の記憶を持つだけの、違う人間。「テオドア・ヴィンテリオ」に過ぎないのだ。
テオドアは、恐怖を抑え込み、震える声で続けた。
「ここに、僕の居場所はありません。無いように思えてしまいます。お三方が欲しいのは、僕ではなくて、僕の肉体に入っている魂だけ。……違い、ますか?」
「……」
背後の女神は、微動だにせず、呼気を乱した様子もなく、しばしの沈黙を保った。
だが、首からそっと手を外されたかと思うと、肩をものすごい力で掴まれる。
「!!」
驚く暇もなく、テオドアは無理やり、ティアディケに向き直させられた。
急に身体を反転させられたせいで、視界がくらくらする。
ティアディケは、ことここに至っても、ほとんど無表情のままだった。
「……承知している。吾らが欲するのは、汝そのものではない。死体を生かし続け、目の前の真実から目を逸らし、過去にしがみついている。吾らは狂っているのだろう」
彼女は、片手に持っていた槍を放り捨てた。絨毯が敷かれているため、音はほとんどない。
しかし、転がった槍に目を向けたまま、ティアディケは淡々と続ける。
「汝は、誰かを愛したことはあるか。恋という意味で、だ」
「……僕は、今のところ……」
「そうか。それは、倖せなことだ」
――吾らは、今も囚われ続けている。
「恋に理由を求めるのは野暮だ。然し、吾らが惹かれた理由は分かっている。初めは興味、次いで単純接触による好意、そして人柄を好ましく思うが故の愛情だ」
「人柄……」
「吾らを、女神、という括りで見ない人間は、あの男しか居なかった」
神や女神は、常に「尊いもの」として、人間の視線に晒され続ける。
加えて、「女神を手に入れた」という成果が欲しいだけの、自尊心が高い人間も集まってくる。
三柱は、百年前に地上に降りて、初めてそれを自覚した。
翻って、天界の神々はどうかと問われれば――
「天界にいる男は、良くも悪くも自身が〝神聖な存在〟であることに拘る。そして、そんな神聖な己には、女神だけが相応しいと考える。而も、まだ己らが手を出したことのない、若い女神を欲する」
「……」
「断り続けるのにも面倒がある。そんな天界に倦んでいた。変わり映えのしない環境にも。故に地上へ降りたが、地上も似たようなものだった。そこへ――現れたのが、あの男だった」
初恋。そうだな、初恋だ。
ティアディケは、今初めて気が付いたかのように、真剣な口調でそう呟いた。
「あの男は、他と比べる事をしなかった。新鮮な驚きを齎した。他のどの女でもなく、他の二人と優劣を付けるでもなく、真っ直ぐ吾ら一人一人に向き合った。無理に己を大きく見せる事も、卑屈になる事もなかった」
「でも……そんな男性は、他にもいるでしょう。探せば、いくらでも」
「ああ、居るだろうな」
テオドアがおずおずと口を挟むと、ティアディケはあっさり肯定した。
「何も、全ての男が嫌だと言うつもりは無い。ああ、居るだろうとも。吾らを尊重し、吾らと対等に接し、平等に愛する事の出来る男が」
「でしたら、」
「――だが。其れは、あの男ではない」
そう言い切られ、テオドアは息を呑んだ。
ティアディケの赤い瞳が、ようやくこちらを向く。クリーム色の短い髪が少し乱れているのを、気にする素振りもない。
彼女はこちらに歩み寄り、わずかな距離を一気に詰めた。
「この感情は、最早執着に近い。他の二人は分からないが、吾は自覚している。純愛などと誤魔化す積りはない」
「ティアディケさま――」
「――安心すると良い。今の汝は閉じ込められて不服だろうが、じきにそういう感情も失せる」
不穏なものを感じて、テオドアは一歩、また一歩と後退る。
だが、すぐに、背後の書物机に行き当たって止まった。
「テオドア、もう少しの辛抱だ。全ての準備が整えば、汝は幸せな人間に生まれ変わる。汝を慕う三人の処女と、優しい母親と、汝を想う父親と――」
ゆっくりと顔が近づいてくる。あくまで自然な仕草だった。
美しい尊顔がすぐそこまで迫っている。逃げ場はない。
彼女は目を閉じ、テオドアに口付けを――
「ちょっと待った。悪いんすけど、それだけの理由では渡せないっすね」
急に横から腕を引っ張られ、テオドアは体勢を崩して倒れた。
唇は触れる直前で、掠めることもなかった。ティアディケは目を見開き、あっという間に槍を手にして「闖入者」に突きつける。
それを、いとも容易く掴んで止め、ハンナの姿をした何者かは、してやったりというふうに笑った。
「生憎、現実の世界には、坊ちゃん本人を好きってヤツもいるんですよ。――オレが姿を借りてる、この娘とか!」




