60.「お前はなにを望むのか」
――絶句した。
ペレミアナは、黙り込んだこちらを意に介さず、平坦に続ける。
「人間のあいだでは、〝依代〟はずいぶんと美化されているみたいですね。でも、神々はそんなに慈悲深くないです。いくらでも勝手に生まれる人間の一人くらい、使い潰したところでなんの支障もありませんし」
「……」
「わたしだって、あなたじゃなければ、特になにもしませんでした」
彼女は語る。『神代の大戦』のときには生まれていなかったから、どうしてそんな結論に至ったかは分からない、と前置きをして。
〝依代〟制度を考えだしたとき、神々は致命的な欠点に気が付いた。
それは、自分たちよりも『高位』の人間が誕生するという、矛盾である。
人間は神よりも下位でなければならない。それこそが世界の理であり、世界創造の折からの真実だ。神に召し上げればいい、と言う意見も出たが、その権限を持つのは最高神である。
神にさえできれば、神の世界の法で縛れるものを。
神々は恐怖に陥った。たったの百年で自壊するとはいえ、そのあいだ野放しにしていれば、驕り高ぶった〝依代〟が反逆を企てないとも限らない。
強固な牢に閉じ込めておくか?
いや、結局は、牢を突破される恐れは拭えない。
では〝依代〟ではなく代案を考えようか?
――いいや、もっと単純に考えよう。
反逆もされず、〝依代〟制度の良いところだけ使える方法を。
「そうやって、彼らは、天界に昇ってきた〝依代〟を殺すことにしました。要は、最高神の権能を持った肉体があれば良いんです。魂は二の次……もちろん、そこらへんの人間ではダメで、『天界に行くのに耐えられるくらいの強度』がある肉体と魂が必須ですが」
だから、素質のありそうな人間を選び出して、競わせるんですよ。
彼女の説明は続く。
「人間側が〝依代〟を崇めるのも、〝依代〟候補者が神と同等の地位だと謳われるのも、そう仕向けた神の罠です。だって、そんなに素晴らしいものではありません。神が自分の地位を守るために、なおかつ安全に利用するために――問答無用で殺されるだけの哀れな生贄なんですから」
「……」
テオドアは、驚愕から醒めやらぬ中、それでもなんとか情報を得ようと口を開いた。
口の中が、からからに乾き切っていた。
「……〝依代〟の質が落ちていると、『光の女神』さまに伺ったことがあります。それも、ただ、天界に登るのが危うかったという意味で……?」
「もちろん、世界の安定は〝依代〟に依存しますから、その意味も含まれているかと。でも、おおむねは、天界に行けるか否かですね」
「……そう、ですか……」
それだけ言って、テオドアは膝を抱え、顔を伏した。
『光の女神』は、知っていたのだ。
そうでないとおかしい。彼女は〝依代〟候補の選抜者だ。つまり、生贄を自ら選び出す役目を負っていた。加えて、千年以上前から生きているという神である。
――〝依代〟制度を考えた会議に、彼女も、いたのだろう。
心の奥底では、今の話を「嘘だ」と断じたかった。
だが、辻褄が合ってしまうのである。
テオドアが〝依代〟に選び出されたときの、悲しげな表情。「守れなかった」という言葉。
受肉したまま地界にまでついてきた理由。急に、テオドアの子どもを産めると宣言したこと。
いいや、もっとそれ以前に、違和感はあったじゃないか。
先代の〝依代〟が、「ハーレムが作れると思ったのに」と暴れたという話。
そのときは他人事として聞いていたが、今は――。
「ああ、可哀想に。本当になにも知らなかったんですね」
俯いたテオドアを、『知恵と魔法の神』は優しく抱き締めてくれた。『光の女神』とは違う、けれど柔らかな体温は、衝撃を受けたばかりのテオドアによく沁みた。
「怖がらなくって良いんですよ。そうならないために、わたしたちが助けたんです。あなたの魂が消滅するのが、本当に嫌なんです。なにより――」
彼女の声が、甘く、優しく、心の隙間に染み込んでくる。
「あなたをひどい目に遭わせた人間を、殺せます。あなたの手を汚さずに。良い考えですよね」
テオドアは、なにも答えることができなかった。
それから、どんな会話をしたのかは覚えていない。
俯いていたのはほんの数分だった。落ち込んでいるつもりはなかったが、ペレミアナがやたらと慰めてくれるので、表面上は立ち直ったように振る舞った。
けれど、どこか心が置き去りで、ふわふわと落ち着きのない意識のままだった。
ゆえに、記憶は断片的だ。
それなりに長く喋って――最後のほうに、「今度は魔術についてお教えしますね」と言われたことしか、確かなことは分からない。
気がつけば、テオドアは見覚えのない部屋で、ぼんやりと佇んでいた。
ペレミアナが案内してくれて、扉の前で別れて、自分の足で部屋に入った。のだろう、たぶん。ここがテオドアに用意された部屋なのだろう、おそらく。
ぼんやりし過ぎて、ここでもいまいち自信を持てなかった。
自然と、その場にへたり込む。
衝撃はなかなか去らなかった。なにを考えて良いかも分からない。最悪の未来を避ける方法も分からない。
そもそも、避けるという選択肢が、ない。
「死ぬ……? 一年後に……?」
それも、完膚なきまでに。魂の転生も望めず。今度こそ、完全に、「テオドア」という存在は消滅する。
死にたくなかったから、頑張ったのに。
そのせいで〝依代〟になったのに。
「――!」
どうしようもなく、行き場のない感情が湧き上がった。
額を打ちつけ、床を何度も殴る。手の痛みなど、今はどうでも良かった。
前世があるから、達観しているつもりだった。
そう、それこそ驕っていた。いろいろなことを諦めたフリをしていた。仕方がないと受け入れたフリをしていた。憎しみを捨て、もっともらしく善い人間として振る舞おうとしていた。
分かっていたはずだ。自分は、そんなに綺麗な人間じゃない。
生きていたい。死にたくない。殺されたくない。楽をしていたい。
でも、悪い人間にはなりたくない。みんなに頼られる良き人でありたい。
中途半端だった。ずっと。嫌な人間なんだと開き直ることもできず。さりとて善人になりきることもできない。
――異母兄が身代わりになるのだから、喜んでしまえばいいのに!
ざまを見ろと笑ってやりたい。悔しがり、絶望に突き落とされる様を見てやりたい。ありったけの罵倒を返してやりたい。
そうだ、それこそ! テオドアと『公爵家』のしがらみを断つのに、またとない機会じゃないか!
そうして、テオドアは〝依代〟の役目から解放されて。自身を好いてくれる女神たちとともに、ここで楽しく暮らすのだ。
なにも考えず。ここでの生活が飽きてもなお、永遠に。
「でも、それは……」
それは。
テオドアが真に欲するものではない。
「……」
テオドアはゆっくりと身を起こした。
あの夜、馬車の中で聞いたルクサリネの声が、今になって脳裏に響く。
『お前は、なにを求めている? なにを望んでいる?』
「……僕が、求めるものは……」
前世と今世。ずっと向き合わずに逃げてきた、問いだった。
だからこそ、多少強引にでも、向き合うときが来たのかもしれない。
テオドアは顔を上げた。
上向いた拍子に、右目からひと粒、涙がこぼれた。




