52.混迷を極める現状
刃をテオドアの首から離し、彼女はぐるりと回り込んで、目の前に立った。
手にしているのは、平民が常用しているような小型のナイフだったが。武器はこの際、分かりやすく脅せればそれで良いのだろう。
あの二人を――ハンナとルネリーゼを殺す、と断言しているからには。
脅迫している側とは思えないほど自然体なのも、隙だらけであるのも、やろうと思えば一瞬でハンナたちを殺せるから、なのかもしれない。
『知恵と魔法の女神』と、今のテオドアは、同じくらいの背丈だった。それだけに、目線が近い。
「やっと二人きりでお話しできますね。あなたが地上に降りてから、『光の女神』がいつも周りをうろついていて、とっても邪魔だったんです」
言うに事欠いて、『光の女神』を邪魔者扱いとは。
彼ら神々の力関係について、テオドアはまったく知らないが……『光の女神』は長生きだし〝依代〟候補選定者だし、偉い部類の女神なのではないのだろうか?
『知恵と魔法の女神』が、嫌悪感たっぷりに喋るのにも驚いた。前世の記憶のせいで、穏やかで引っ込み思案だった印象が強いのである。
困惑しながらも、テオドアはなんとか問い掛けた。
「……僕の母を誘拐したのは、貴女ですか」
「そうです。でも、安心してください! 傷ひとつつけていませんし、これからもひどいことをするつもりはありません。誰よりも丁重に扱っています」
あっさり肯定された。傷ひとつつけていない、は、彼女の言葉なので信憑性に欠けるが、少なくとも母が殺されていることはなさそうだ。
少し安堵していると、彼女はナイフの柄を持ち直し、優しく微笑んで続けた。
「大切に扱わないわけがありません。だって、あなたを育んだ大切な母体ですから」
「……母、体……?」
その言葉に。テオドアは、彼女との決定的なズレを感じ取った。
緩みかかった思考がさっと引き、頭が急激に冷えていく。
にわかに警戒心を強めたテオドアに、気づいていないのか、あるいは気づいていても「どうとでもなる」と思っているのか。『知恵と魔法の女神』は、ゆったりとこちらへ体を寄せた。
『光の女神』とはまた違う、甘く控えめな匂いが、ふわりと香った。
「まさか、冥界を経ずに、転生している魂があるとは思いませんでした。お父さまの領域ですから、冥界であれば、すぐに連れて帰れたのに」
顔が近い。吐息が触れ合いそうな距離で、彼女はテオドアの頬に触れる。冷たい指先が、ゆっくりと撫で下ろされた。
「でも、不思議です。顔も姿も、まるであの人と違うのに。同じ魂というだけで、こんなに愛おしく思えるなんて」
だから、と、彼女は言う。
「――〝依代〟になってはいけません。絶対に。わたしは、わたしたちは、あなたが永久に失われることが、どうしても耐えられません」
「……どういう……」
「『光の女神』は、あなたを騙しています。心地の良い言葉で真実を誤魔化しています。本当のことを言わないのが、優しさとも限らないのに」
彼女は、テオドアの目を見つめながら、なにかを投げ捨てた。――ナイフだ。そのまま、両腕でぎゅっと抱きついてくる。
「あと三日、待っていてください。お迎えに来ますから。わたしだけじゃなくて、他にも二人いるんです。あと、あなたのお母さまも。みんな、あなたのことを待っています」
にわかに、建物のほうから賑やかな声が聞こえてくる。
ハンナと、ルネリーゼだろう。数分、という宣言通り、彼女たちはテオドアへの「渡すもの」を携えて、すぐに戻ってきたのだ。
『知恵と魔法の女神』も、それに気づいたのか、少し後ろを振り向いて「頃合いですね」と呟く。
「三日後ですよ。その日はなにが起こっても、絶対に抵抗しないで、大人しくしていてくださいね」
「待っ――」
「じゃあ、またお会いしましょう。テオドアさん」
言うなり、『知恵と魔法の女神』は、煙のように消えてしまった。
『空間移動』ともまた違う。本当に、姿がぱっと掻き消えてしまったのだ。髪のひと筋すら、幻だったと思えるくらいに。
咄嗟に止めようと上げかけた手は、なにも掴めず空を切った。
「……」
向こうから、元気に駆けてくるルネリーゼと、その後ろを急いで追いかけるハンナの姿が見えた。
テオドアは、視線を地面に移す。そのまま、そばに落ちていたナイフをそっと拾った。
「テオー! もってきたー!」
「お待たせしました、テオドアさま。お嬢さまが――テオドアさま?」
「……ああ、いや。なんでもありません」
なんの変哲もないナイフだった。
しかし、前世で見た彼女は、このような武器とはまったく無縁に過ごしていたはずだ。ましてや、「動いたら誰かを殺す」と脅すなんて。
……自分の知らない百年がある。
テオドアは、豹変した『知恵と魔法の女神』について考えを巡らせながら――ハンナとルネリーゼに対して、にこりと微笑んだ。
本心を隠すのも、少しは慣れてきた。
テオドアもまた、以前とは変わっているのである。
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「これは〝誓いのゆりかご〟ですね」
夕食どきのこと。
今日もまた、光の女神はテオドアのために、忙しく立ち働いた。いい加減、テオドアとしても申し訳なさすぎるので手伝わせてほしいのだが、頑として受け入れてくれない。
なんなら、新しくこの建物の住人となったハンナの申し出も、きっぱりと断っていた。
「貴女は、リゼお嬢さまにお仕えしているのでしょう? 他のことに気を取られてはいけません」
と言って。
しかし、「リゼお嬢さま」もまた、同じ食卓でご飯を食べるのである。ハンナが、「せめてお嬢さまに関わりのあるところだけでもお手伝いを」と引き下がって、やっと受け入れてもらえたらしい。
「テオとおんなじところでたべるの、はじめてだね!」
ここに滞在して以来、テオドア専用だった長いテーブルは、ルネリーゼたちのおかげで賑やかになった。
ルネリーゼは、にこにこ笑いながら、それでも上品にスープを飲んでいる。
数ヶ月前に見たときは、テーブルマナーもなにもあったものではなかったが、誰かが行儀を教えたのだろうか。
「そうだね、初めてだよ」
「おにーさまたちも、いっしょだったらよかったねー!」
「うん」
とは言うものの、仮にそんな機会が訪れても、絶対にお断りである。
テオドアは頷きつつ、そばに控えるルクサリネに目をやった。
「その花のことですか?」
「ええ。空気の薄い高山……しかも、雪の降る季節にしか咲かないという、貴重な花です」
彼女の手には、ルネリーゼの「渡すもの」が握られている。青く美しい、一輪の花だ。保存の魔法、もしくは魔術がかけられているのか、多少粗雑に扱っても散らない。
現に、ルネリーゼが花の部分をむんずと掴んで渡してくれたが、花は美しい形を保ったままだった。
「魔力を多分に含んでいて、魔道具の材料にもなります。こう見えて、炎を扱う魔法に適しておりますから」
ハンナたちの目があるからか、女神は「ルリネ」として、謎の花の解説をしてくれた。
へえ、と、テオドアは感心しながら、〝誓いのゆりかご〟を受け取った。雪の季節に咲くというから、氷に関する魔法に適していそうなものだが。
「そんな花を、どうしてリュカさんが……?」
ルネリーゼの食事を補助していたハンナが、最もな疑問を口にする。
彼女によると、リュカがこの花を渡してきたのは、ほんの数週間前。
危機を覚えて公爵家の小屋に住み始めたころ、ひょっこりとリュカが訪ねてきたそうだ。
ひとしきりルネリーゼと遊んだあと、「いちばん最初に会った〝お兄さま〟に渡してほしい」と、〝誓いのゆりかご〟を預けていったとか。
そもそもが希少で、魔道具の材料にもなる花なら、市場価値も推して知るべし、高価なものだろう。
彼はそれを、どこから手に入れたのか。
そして、なぜ、おかしな条件をつけて預けていったのか。
まるで、行動の意味が分からない。
ただでさえ最近は、怒涛のようにいろいろなことがあり過ぎているというのに。人目がなければ、頭を掻きむしって叫びたい気分である。
――『光の女神』は、あなたを騙している。
不意に、そんな言葉が脳裏に蘇った。
女神のほうへ顔を向ける。視線に気づいたルクサリネは、「下級精霊」として丁寧に用向きを伺ってくれたが、振る舞いも雰囲気もいつも通りだ。
不審なところなど、どこにもない。
しかし、それすらも騙すため、と言われたら――?
「どうして、〝誓いのゆりかご〟と呼ばれているんですか?」
ほのかに芽生えた疑念を振り払うように、別の疑問を口にする。テオドアのわずかな変化に気づいた様子もなく、女神は快く説明を引き受けてくれた。
「この花が咲く山の麓の村では、この花は『火除けの花』とされておりました。各家庭に一輪、冬の間に摘んだものを、保存してお守りとして飾るのです」
その風習は、旅人からか商人からか、いつしか村の外にまで広まった。伝承が人から人へ伝わる間、長い時間をかけて転じ、『魔除けの花』として扱われるようになったのだ。
例えば、戦地に赴く青年に、家族や恋人が願いを込めて贈るとか。
例えば、旅の安全のために、旅人自身がお守りとして携えるとか。
なにごともなく、行って帰って来れるように。贈る側も贈られる側も、無事を願って帰還を誓う。
ゆえにこの花は、いつしか、〝誓いのゆりかご〟と呼ばれるようになった――らしい。
「物知りですねえ、ルリネさん。あたし、そんな花のことも初めて知りました」
「精霊は長生きですから。私がハンナさんくらいの年だったときは、無知そのものでしたよ」
「あははっ、精霊さんがあたしくらいの年のときって、ちょっと想像できません!」
くすくす笑い合う二人は、互いとの会話を楽しんでいるように見える。少なくとも、相性が悪くて衝突する心配はなさそうだ。
ハンナは、思い出したように、「あ、でも」と声を上げた。
「物語の読み聞かせとかは、あたし、得意ですよ。お嬢さまも一発でぐっすりです」
「それはそれは。ぜひ一度、傾聴したく思います」
「お嬢さま、あたしたち庶民がよく知ってるようなお話も、全然知らなかったりするんですよ。昨日は――『三人の女神と愚かな男』をお話ししました」
「えっ?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
ハンナが驚いてこちらを見る。テオドアは、「ごめんなさい」と手を振ってから、恐る恐る聞いた。
「その……昔話。有名なんですか?」
「えっと、はい。『三人の女神と愚かな男』ですよね? 有名というか、この国に来たことある人間なら、誰でも一度は、聞いたことあるはずです」
童話として本になってますし、文字が読めない人でも劇とかを見れば。ちょっと古いですけど、吟遊詩人とかからも。それくらい、身近なお話です。――
それを聞いて、テオドアは、リュカのことを思い返した。
おそろしく器用で、頭の良い少年。公爵家へ通える範囲に住んでいるらしい少年。
しかし、彼は、『三人の女神と愚かな男』の昔話を知らなかった。
極端にそういうものに疎い、という可能性もある。現に、テオドアは、その話が本や劇になっていることも知らなかった。だが――
リュカについても、よく考えなくてはならないのかもしれない。
テオドアは、そっとこめかみに手をやった。
(ああ……頭がこんがらがってきた……)




