40.〝依代〟は、ここに決した
前世で関わりのあった存在と、今世で出会ったことは一度もない。
それは、前世ではほとんど他者との繋がりがなく、関わりのあった者はそうそうお目にかかれない存在――女神や魔獣――であったことが、要因である。
生まれ変わり、候補者として選ばれ、分不相応な立場に引き上げられて。
三女神に会うことがあるかも――という可能性を、考えなかったわけではない。
だとしても、こんなに唐突に。なんの覚悟もできぬまま、対面することになろうとは。
彼女の姿かたちは、まったく変わりなく、百年の時の隔たりなど感じられない。
立ち止まっているテオドアと、歩いてくる女神。距離が近づくのは必然だった。
そうして、自らへ釘付けとなった視線に、彼女も気がついたのだろう。
ふと、目が合う――
――次の瞬間、テオドアの視界は、薄灰色に埋め尽くされた。
薄灰色は薄灰色でも、『知恵と魔法の女神』の瞳ではない。
文字通り、視界いっぱいに広がる羽毛。喉の奥でくるくると鳴きながら、これでもかと甘えて擦りつけてくる。
「わ、ちょ、ちょっと……」
忘れていた。テオドアとルチアノの後ろから、怪鳥ネフェクシオスも着いてきていたのだ。彼女は長い首と大きな翼で後ろからテオドアを囲い込み、外界と一切を遮断してしまった。
人間で言う、「抱き締める」ような行為だろうか。
嫌悪はないが、ぎゅうぎゅうと圧迫されてちょっと苦しい。隙間を作ろうともがいたところで、頭上から可愛らしい声が聞こえてきた。
『パパ、おかえり! おかえり!』
『パパ、ぎゅーして! ぎゅーして!』
もがいてできた隙間から見上げると、ネフェクシオスの雛たちが、遥か頭上をくるくると飛び回っていた。
さすがに、母鳥の翼の中に突っ込むつもりはないらしい。
「おお、君たちが噂の雛か!」
『だれ? だれ?』
『しってる! オージ! メガミ、いってた!』
『オージ!』
「ううむ、王子か。まあ、間違ってはいないのだが……」
翼の向こうで、なにやらルチアノと雛が、親交を深め始めた。
「君たちの父君は、今、母君といちゃついておられる。愛を育んでいるのだ。邪魔をしてはいけないぞ」
「いいいいちゃついてはいないよ!?」
『ヤダ! パパと、あそぶ!』
『でも、メガミ、アイをハグクムのは、フーフのダイジなシゴトって、いってた!』
『そうなの? そうなの?』
『パパたちが、ヨルにくっついてるとき、なにもみなかったフリで、そっとしておきなさい、って!』
「光の女神さまも雛たちになにを吹き込んでるんですか!?」
突っ込みを入れながらも、もがき、頼み込み、なんとかすぐに解放される。
怪鳥は心なしか満足げに顔を上げたが、テオドアは全身に抜けた羽をくっつけたまま、よれよれと歩み出た。
「ど、どうしていきなり……」
「君が、先ほどの女性に見惚れていたからじゃないか?」
ルチアノが、両肩に雛を留まらせたまま、非難するような瞳でこちらを見た。
「奥方としては、夫の浮気は見過ごせないだろうに。なあ?」
『やっぱり、うわき!』
『パパ、うわきもの!』
「嫉妬だけで許していただいたのを、感謝するべきだぞ、君は」
「うう……! どんどん事実無根が積み重なっていく……!」
そもそも、怪鳥と夫婦になった覚えがない。外堀が爆速で埋まっているだけだ。
……もう手遅れかもしれないが、結婚は両者の同意あってこそ。地道に否定していくしかない。
「……しかし、見惚れたのも分からなくはないぞ。あの女性は、ことに美しかった。女神であらせられたのかもしれん」
「そう――かもしれないね」
この騒ぎの最中で、『知恵と魔法の女神』はとっくに、どこかへ行ってしまっていた。
あの一瞬、目が合ったけれど。
考えてみれば、前世と今世で、テオドアは姿も形も変わっている。別人に生まれ変わったからだ。
前世の姿を、それほどよく覚えているわけではない。が、どうも今世は、ヴィンテリオ公爵に似ているらしいので、顔も姿も違っていると見做していいだろう。
(気づかれるわけがない、か。『ほとんどの神は、魂を区別することができない』って、光の女神さまもおっしゃっていたし……)
あそこまで緊張しなくても、良かったのかもしれない。
テオドアは少し安堵して、胸に飛び込んできたふわふわの雛たちを、優しく抱き止めた。
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「ああ、『知恵と魔法の女神』か? いたぞ。会議の帰りに、話が弾んでな」
その日の夜。
ルチアノと別れ、怪鳥の親子と戯れ、屋敷に帰り、のんびりしてから寝支度を整えたテオドアは。
なぜか、光の女神に呼び出されていた。
いつもの応接間は、カーテンも閉め切られ、女神以外は誰もいない。
女神と会う時、誰もいないのは良くあることなのだが、なにか――言い表すのが難しいが――ピリついた雰囲気を感じる。
しかし、女神も、目に見えて怒っているわけではない。いつも通りの振る舞いである。
彼女は席につかず、窓辺に立っていた。カーテンの隙間から、月光がちらちらと差し込み、彼女の足元を照らした。
「なんでも、夫に愛を捧げたいが、どう言って良いか分からないと……まあ、恋愛相談だな。他の二人は、わりと情熱的なことを平気で言うから、負けたくないらしい」
テオドアは、なんと言っていいか分からず、ただ黙って立っていた。
まさか、女神が座っていないのに、自分だけ座るわけにもいかない。少し距離を空けて、閉め切った窓辺の女神を、眺めている。
女神は、こちらが困っていることを聡く気づいたのだろう。「詳細は野暮だな」と言って、こちらに向き直った。
「安心しろ。お前についてはひと言も話していない。現に、すれ違っても話しかけられなかっただろう?」
「はい」
仮にこちらの存在を悟られていたとしても、あのドタバタの最中に話しかけてくるのは、相当の猛者だろう。
……とは言わず、テオドアは頷いた。
別に聞きたいことがあったからだ。
「その、会議とはなんでしょうか? お聞きして良いものなのですか?」
「決まっている。〝依代〟を決めるための会議だ」
候補者を選別するのは、光の女神の役割。
しかし、さすがに、〝依代〟を選ぶときは独断ができない。『第三の試練』が終わった時点で、彼女は天界に戻り、さまざまな神々を集めて話し合うのだとか。
来ない神も女神もいるがな、と、光の女神は心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「決まった〝依代〟は、どうやって通知を?」
「初めは本人に知らせる。次は、その者の出身国に。そのあと、残りのすべての国に。……出身国では一年ほど大祭が開かれる」
「い、一年……」
「次の〝依代〟が決まったとしても、引き継ぎで五年は掛かる。驚くほどのことではない」
その間、前の〝依代〟の残滓と、神々のもたらす神気が、世界を維持し続けるらしい。
ゆえに、世界の情勢も不安定になりやすい、とも。
「テオドア」
「は、はいっ」
急に名前を呼ばれて、どきりとする。
今までは、「お前」や、家名も含めたフルネームでしか、呼ばれていなかったのに。
いよいよ、本題に入るらしい。テオドアは背筋を伸ばした。
反対に、女神は目を伏せる。
「……『試練』の前、お前は言ったな。〝自分には相応しくない〟と。その気持ちは、今も変わりはないか」
「ええと、はい。僕が、〝依代〟の候補者に選ばれるなんて、不相応だったと思います」
「そうか。……私は、お前を、他の候補者たちを焚きつけるために利用した。生き残るだけで良いと、そう言って」
「そうでしたね……」
光の女神は、いったい、なにを言おうとしているのだろう?
彼女の顔を、失礼を承知でまじまじと眺めて、気がついた。
このピリついた雰囲気は――なにも、女神が怒っているからではない。
彼女は、ひどく後悔している。そして、とても、申し訳なく思っているのだ、と。
「すまない、テオドア。お前を守りきれなかった」
「それは、どういう……」
疑問に、答えはなかった。
ただ、女神は歩んでくる。テオドアの近くまでやってくると、そのまま、足元に両膝をついた。
「えっ――」
長い銀の髪が絨毯に広がり、肩からさらさらとこぼれ落ち、膝立ちになった女神の姿を美しく彩る。
彼女は、服の裾をきちんと整え、胸に手を当て、頭を下げて言った。
「ここに、〝依代〟は決定いたしました。アルカノスティア王国候補者、テオドア・ヴィンテリオ。あなたこそ、千年前に身罷られた最高神を継ぐ者に相応しい」
呆然と見下ろすテオドアに向かい、女神は顔を上げる。
女神らしく微笑む彼女が――なぜか、悲しんでいるように見えてしまった。
「宣言しましょう。最高神の〝依代〟は、テオドア――あなたである、と」




