39.尊いお方にお目見えするとき
ライルインから発つ日、太陽が顔を出したばかりの早朝。
身支度を終えたテオドアとルチアノが、揃って伯爵家の屋敷から出ると、追うように駆け出してきた女性がいた。
「候補者さま! どうか、お待ちください!」
「貴女は……」
呼び止められて、テオドアは振り向く。少し先を行っていたルチアノも、わざわざ戻ってきて並んだ。
よほど急いで来たのだろう。女性は、肩で息をしながらも、笑って顔を上げた。
女性使用人のお仕着せをまとっているが、痩せているためか、布が少し余っている。
「きちんとお礼が言えていなかったので、走って参りました。ぎりぎりで失礼かとも思いましたが……ありがとうございました」
「いいえ、お礼なんて。僕たちも、『試練』だったので、打算で動いた部分もありましたから」
テオドアは微笑み、「娘さんの具合はどうですか?」と問うた。
女性は、少しだけ表情を曇らせたが、明るい口調で答える。
「……治りは、緩やかです。ですが、それは他の人々も同じこと。着実に、元に戻ってきています」
「早く良くなることを祈っています」
「ええ、本当に。……ドロシィにも、早くお二人の武勇伝を語って聞かせたいのですが」
表情こそ暗くなったものの、瞳にはあの時の警戒は微塵もなく、希望に満ちている。
その様子を見るだけで、テオドアは、「この国を建て直すことができて良かった」と思えるのだ。
――テオドアが街を散策している時に出会った、みすぼらしい格好の母娘。
彼女たちは、もともと、伯爵家にお仕えする使用人である母と、その娘だったらしい。
家族揃って伯爵家に仕え、夫は従者として伯爵に従い、彼女は令嬢つきの侍女として侍り、まだ幼い娘は手伝いとして母親のもとへついて回っていた。
ところが、ロムエラの者たちが押し入り、伯爵夫妻が狂い、夫が突然死したことで、状況が一変する。
その頃は、彼女もすでに湖の呪いによる『洗脳』を受けていたが。
夫が不可解に死んだこと――そして娘がある日を境にほとんど自由意志を持たなくなったことから、疑念が生じ始めたそうだ。
彼女は、詳細は分からないまでも、娘がおかしくなったのは「食べ物」のせいなのではと当たりをつけた。聖ロムエラ公国から現れた者が、信用できない、ということも。
そうして、夫の死を契機に辞める――という体で、伯爵家から逃げ出し、なるべく最小限の飲食で日々を暮らしていたらしい。
彼女の逃亡は、無論、主人であるフィナリラも、多分に後押ししたという。
身を隠す生活に備え、ヴェルタ王国から来た旅人から密かに譲り受けた保存食や、換金できそうな宝石類を持たせるだけ持たせ、彼女を送り出したのだ。
推測通り、夫は存在が邪魔だと殺され、娘は『洗脳』が異様に効きすぎて放心状態に陥っていた。
今は、国が正常に戻ったため、伯爵家の仕事に戻り、娘をゆっくり療養させていると聞く。
「むしろ、貴女の助言がなければ、僕は違和感の正体に辿り着けませんでした。ありがとうございます」
「いえ……」
彼女は、だいぶ血色の戻った頬を緩ませ、はにかんだ。
「――そういえば、フィナリラ嬢はどこに? ご挨拶をして帰りたかったのだが、屋敷では姿が見えなくてな」
探してから発つつもりだった、と言いながら、ルチアノは周囲を見渡した。
女性使用人も首を傾げ、「今朝はお見かけしていませんが」と言った。
「もしかすると、湖にいらっしゃるのかもしれません。なにか、儀式に重要なものが、失われかけたのでしょう?」
「ええ、そうですね」
『尊いお方』のことは、口に出さないほうが賢明か。
テオドアは、深い事情を言わぬまま頷いた。ルチアノは思案げな顔をする。
「だとすると、あまり邪魔をしてはまずいか。仕方がない、非礼だが、挨拶をせずに旅立――」
「私は、ここにおりますよ」
屋敷の裏から、薄紫のドレスを身にまとった少女が、顔を覗かせた。
フィナリラだ。
だが、どこか、様子がおかしい。
「お、お嬢さま……? なぜ、ずぶ濡れなのですか……?」
女性使用人が、戸惑って駆け寄る。
姿を現したフィナリラは、頭のてっぺんからつま先まで、まるで湖で泳いで来たかのように濡れていた。
美しい髪や服の袖から、水滴がぽたぽたと垂れ落ちている。
急いでお召し替えを、と言う女性使用人を微笑んで下がらせ、フィナリラはそのまま、テオドアたちの前に進み出た。
そして、ドレスの裾をつまみ、優雅に礼をする。
「このような格好でお目通りすることを、お許しくださいませ、候補者さま。一身上の都合により、こうしなければお目に掛かることもままなりませんの」
「……?」
少し、引っかかる部分はあったが、黙って先を聞く。
「ライルインを救ってくださったこと、本当に感謝しております。お二方がいなければ、この国は緩やかに死んでおりました。私も、近いうちに死んでいたでしょう」
顔を上げたフィナリラは、おもむろに右手を上げ、ふんわりとした光をまとわせた。
魔法だ、と気づいた瞬間、テオドアの手の内には、赤い表紙の本が現れていた。『ご令嬢は神罰係』と題されている。
横を見ると、ルチアノの手には、綺麗な縁取りが施された封筒が、出現していた。
――フィナリラさんは、魔力が少なくて、精神系以外の魔法はあまり得意ではないはずでは……?
フィナリラに視線を戻すと、彼女は口もとを覆って笑う。
「ふふふ。私の可愛い子が、お二方へと。私のわがままを聞いてくれたので、あの子はここに来れませんでしたの。ですからどうか、責めないであげてくださいませ」
(あ……)
そこまで聞いて、テオドアも気がついた。
湖に住む『尊いお方』は、水の中でしか生活ができない。だから、ここに来るために、水を被って――
「あの……貴女さまは……」
言いかけたテオドアを、フィナリラは……。
否、フィナリラの姿をした『尊いお方』は、控えめに、自らの唇の前に人差し指を立てて、遮った。
「いくら祀り上げられていても、大恩があるお方たちには、直接お礼を申し上げなくてはなりません。それが、私に流れる人間の血に沿う誠意です。……そうでしょう?」
早朝にライルインを出たからか、ヴェルタ王国に着いても、人混みに揉まれることはなかった。
国王を動かしたため、「隣国ライルインに〝依代〟候補がいる」ということは、一ヶ月をかけてじわじわと国民に知れ渡ったらしい。
ただでさえ、門番には権力を以て――言い方は悪いが――言うことを聞かせて、通させたのである。
そこから多少の情報が漏れるとは思っていたが、まさかここまで大ごとになるとは思ってもみなかった。
もちろん、門の前にちらほらと見物に来た人もいたものの、すぐに馬車を雇って乗り込んだので、そこまで騒がれずに済んだ。
がたがたと揺れる車内で、テオドアとルチアノは向かい合って座っている。
ルチアノは、言いにくそうに切り出した。
「先ほどのフィナリラ嬢は……その……」
「……だろうね。ご足労をかけて申し訳なかったな……」
結局、彼女は最後まで、フィナリラとして見送ってくれた。
いくら水を被っているとはいえ、水の中に住む彼女にとっては、相当な無理をしていただろう。我々からすれば、空気もない場所で長く活動するようなものだ。
あの後、どうやって本物と入れ替わるのかは不明だが、うまく湖に戻れていると信じたい。
「それで、手紙には、なんて?」
ルチアノは、持っていた手紙にざっと目を通し、「私と君に宛てたお礼の手紙のようだ。直接会わないお詫びも書かれていた」と言って、テオドアに手渡してくれた。
テオドアも読んだが、確かに、その通りのことが書かれている。
「君の方の――本は?」
「ああ、これはね、フィナリラさんがいちばん好きな恋愛小説らしいよ。恋人作戦の時も、ここのセリフにお世話になったし」
そういえば、フィナリラから内容を聞いただけで、読んだことはなかった。
表紙を開くと、紙が一枚挟まっている。
「いつか、感想を聞かせてくださいませ」と、手紙と同じ、可愛らしい筆跡で書かれていた。
テオドアは、知らず知らずのうちに微笑んで、「今、ちょっと読んでみようかな」とページをめくってみる。
「馬車で読むのか? 酔ったら事だぞ」
「たぶん、大丈夫。僕の無自覚治癒魔法はきっと酔いにも効くよ」
「そうなら良いんだが……あとで私にも読ませてくれ」
「うん」
ルチアノも、普段は触れない「恋愛小説」なるものに、興味を持ったらしかった。
数時間もかかる道中、二人は、順番に本を読み――
見事、揃って気分を悪くした。
馬車で本を読んだからではなく、『ご令嬢は神罰係』の拷問描写が、あまりにもリアルで、詳細で、エグすぎたからである。
-------
「恋愛小説って、みんなああなのか……?」
「いやっ、僕もあれ一冊しか読んだことないから分からないけど! あれは特殊な例……だと……思う、思いたい……!」
ところ変わって、ここは、空の上。
数時間の馬車旅より、読んだ小説のせいでふらふらになりながら、『境界の森』近くの門まで戻ってきた。
ここで、探せば「越境馬車」を雇えるのだが、それを探す前に、壁の上に巨大な鳥が舞い降りた。
言わずもがな、怪鳥・ネフェクシオスである。
しかし、巨大な鳥を目撃した人々が、恐怖で半ば混乱状態に陥り、あわや討伐隊が組まれる事態にまでなりかけた。
これはいけないと、急いで出国の手続きをし――ルチアノのブローチで簡略化できたが――慌てて怪鳥に乗って飛び立った、というわけだ。
「後で、父に弁明の手紙を書いておかなくてはな……」
「でも、迎えに来てくれて助かったよ。ありがとう」
テオドアが、後ろから首に手を回して撫でると、怪鳥は羽ばたきながら高く鳴いた。
言葉は分からないが、「どういたしまして」と言ってくれているような気がした。
「セラさまか、光の女神さまが気を利かせてくださったのかもしれん」
「たぶんね。お二方なら、僕たちがいつ着いたとか、把握なさっていそうだし」
徒歩で数日、越境馬車でも数時間はかかる『境界の森』を、眼下に眺める。
……本当は、「越境馬車」にちょっと乗ってみたかったのは、内緒だ。
お金持ちしか乗れない、前世では縁のなかった乗り物に対する憧れも、もちろんある。
しかし――「森の番人」がいなくなった後の森は、どうなっているのか。それを見てみたかったのだ。
(僕が死んだのは、昔話にもなっているから、たぶん――各国に知られているはず)
もしかすると、どこかの国が、代わりの人間を立てたのかもしれない。
もしくは、「番人」という職業自体がなくなって、魔獣が幅を利かせているのかもしれない。
改めて、前世の自分がしたことが、どれほど考えなしであったのか、と思う。叶わぬ願いを抱いてさっさと死んで、さまざまなところに迷惑をかけているのだから。
その上、今世でも、余裕がなかったころは前世の所業など考えもせず。多少なりとも力をつけた頃になって、今さら思い至るのだから、世話がない。
(小さかったあの子は……魔獣の仔は、成熟するまで生きられただろうか)
前世に住んでいた小屋は、もはや、どこにあるかも分からない。
同じような風景が続く地上をじっと見下ろしていると、ルチアノが気遣わしげに、「疲れたのか? もうすぐ着くぞ」と、声を掛けてくれた。
テオドアは生返事をして、目の前にそびえ立つ山に、目を向けた。
(『試練』が終わったら、やりたいことが、たくさんある)
魔法や魔術の勉強に、公爵家との決着。『境界の森』が、今どうなっているかの調査。
数ヶ月前には、想像もしなかったことだ。
(でも、帰ったら真っ先に、母さんに無事な顔を見せてあげたい)
母は自分の身を、きっと心配してくれている。だから、それを最優先としよう。
考えているうちに、怪鳥は山の頂上へ至り、見覚えのある岩場に二人を下ろしてくれた。
ルチアノは怪鳥に礼を言ってから、大きく伸びをする。テオドアも、怪鳥を撫で、よく労った。
「しかし、本当に疲れたな。帰ったらすぐに眠れそうだ」
「あはは。僕もだよ。でも、その前にお風呂に入りたいかも」
「違いない」
取り留めのないことを言い合いながら、洞窟を抜け、暖かな日差しの森を抜け、噴水の広場まで差し掛かる。
そこで、ふと、テオドアの足が止まった。
「? ……どうした?」
ルチアノが怪訝そうにこちらを見るが、答えることができない。
視線は遠く、光の女神の屋敷がある方に釘付けだった。
黒髪の女性が歩いている。
――いや。近くで見ると、あの髪は、深い青色だったはずだ。
眼鏡をかけている。
ああ、あのレンズの奥には、薄灰色の瞳があるはずだ。
女神らしく、古代風の衣服を身にまとった女性。
『知恵と魔法の女神』。
前世でテオドアが求婚し、おそらくは死の発端となった、三女神のうちの一柱が。
光の女神の屋敷の方から、まっすぐこちらへ、歩いてきていた。




