31.悪竜の住まう国へ
光の女神の筆跡は、丁寧で怜悧な印象を受けた。
手紙の内容は、さして特別なことが書いてあるわけではない。
好きなお茶菓子の話だとか、最近読んだ恋愛小説の感想だとかが、他愛もなく書き連ねられている。
もちろん、神という存在が、地界で信じられているよりよほど人間臭いものだ――というのは、なんとなく知っていたけれど。
女神が使用人を観察していて驚いたこと、などを読むと、彼女の存在がぐっと身近なものに感じられるから、不思議だ。
「?」
「ああ、ごめんね。起こしちゃった?」
大きな頭がのそりと動き、テオドアの持っている手紙を覗き込む。
くちばしが当たらないようにだろう、微妙に頭を逸らして、左目だけで見ている形だ。
テオドアは、寄りかかっていたふかふかの羽毛から、少し身を起こした。
「女神さまからの手紙だよ。さっき頂いたんだ。早く読んで、お返事を返さなきゃと思って」
「……」
すると怪鳥は、頭のてっぺんでテオドアの肩をぐいぐいと押した。充分に手加減された強さだが、テオドアの身体はものすごく揺れる。
手紙が気に入らないのだろうか。
そう思って、急いで手紙を畳んで便箋にしまうと、怪鳥は満足げに顔を上げた。
「ごめん、ちょっと集中できてなかったね」
今、テオドアは、怪鳥の卵の孵化作業に勤しんでいる。
ルチアノから借りた資料によれば、怪鳥の孵化は、三ヶ月から六ヶ月に渡って行われるらしい。
選ばれたオスが番となり、同じ巣穴に入って、メスの産んだ卵に魔力を渡す。
そのとき、卵全体に行き渡るようにゆっくりと、魔力を流し込むそうだ。
一日に数時間。期間は三ヶ月から六ヶ月に及び、そこでようやく、卵は孵る準備を整えるのだとか。
つまり、あの二羽は、大量の魔力によって、ものすごい速度で誕生したことになる。
(それで、悪い影響が出なければ良いけど……)
見たところ、飛べないとか身体が動かないとか、そういう異常はなさそうに見える。
むしろ、雛たちはすこぶる元気だ。先ほどまで、卵を温める母鳥と、その横に座って地面伝いに魔力を流すテオドアの周りを、自由に飛び回っていた。
今は、巣の隅で身を寄せ合って眠っている。彼らがお喋りをしないと、巣が今まで以上に静かになった気さえする。
(母親の気持ちを通訳してくれるのが、嬉しい誤算だなあ)
言葉は拙いものの、母親の喜怒哀楽の様子を喋ってくれるのが、地味にありがたい。
おかげで、テオドアが察そうと神経を張り巡らせなくとも、怪鳥の気持ちを知ることができた。
これなら、残りの卵が孵ったあと、今後について話し合うこともできそうだ。
半年ほど孵らないことを見越して、例えテオドアが〝依代〟に選ばれなかったとしても、この巣に通う許可は取った。
女神のご厚意によるものだ。
本当に、感謝してもしきれない。
(……いや。こんな弱気じゃダメだ。次の『試練』も、僕が勝つんだから)
順当に行って、もし次の『試練』にも通れば、テオドアは確実に〝依代〟となる。
今でも、〝依代〟の座には興味がないが。それが正々堂々とぶつかった結果で、なおかつ、怪鳥や雛と会いやすくなるのだったら――目指すのもやぶさかではない、と思うのだった。
「〝依代〟が交代するのは、百年後だしね」
最高神としての権能に耐え切れず、〝依代〟の肉体が自壊して滅ぶまで、百年かかるという。
普通の人間に置き換えれば、百年生きるのは相当な長寿である。寿命を考えなくて良いぶん、こちらのほうが得、かもしれない。
「それよりまず、最後の『試練』を突破することを考えないと」
「……」
「うわっ」
怪鳥は、大きく片方の翼を広げ、テオドアを優しく抱き込んだ。
テオドアは、されるがまま、暖かい羽毛の中に埋もれる。
「……励ましてくれるの?」
「……」
「ありがとう。優しいね」
それには応えず、怪鳥は前を向き、黙って瞼を閉じた。
もしかしたら、眠れ、と言ってくれているのかもしれない。
確かに、最近、忙しい日が続いていた。
三つ目の『試練』に向けた準備に、魔力や魔法の稽古、次に向かう国についての情報収集、そして卵の孵化作業。
起きている間は、休む暇もなく目まぐるしい。やっとひと段落ついたころには、寝支度を整えて寝台に飛び込まなくてはならない。
疲れた様子は見せないつもりでいたが、それを見抜かれていたのかもしれず。
ここにいる間はのんびりしろ、という、怪鳥の気遣いなのだろう。
(……暖かいなあ……)
こんなふうに気遣われるのも、〝依代〟候補になってから、たくさん経験することができた。
――候補者に、選ばれて良かった。
羽毛に身を埋め、天井を見上げながら、テオドアはしみじみそう思った。
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今回は、目的地まで、『空間移動魔法』を使わない。
テオドアとルチアノで話し合って決めたことだった。
「空間移動で行くのも、悪くはない! だが、当該の国は、自国が『試練』の対象であることを知っているだろう。それでは、〝建て直し〟を測ることなどできん!」
「今回の『試練』の条件に含まれてるね、建て直し」
とは言え、そのやり方は、テオドアにはさっぱりだった。
これが、第一夫人たちから迫害されておらず、学院に通っていれば、また違っていたかもしれないが。
いち庶民の感覚しか持ち合わせていないため、悪竜討伐よりも、〝建て直し〟のほうがよほど難関だった。
ルチアノは頷き、「どこまで事情に踏み入るかにもよるが」と前置いて、続けた。
「私たちが『候補者』であることは、分かる人間には分かるだろう。『空間移動』を使えば、魔法を使った気配がするからな。いくら小国とは言え、それを察知できる人間が、一人もいないとは考えづらい」
「そうだね」
「それでは、問題を洗い出し切れない! 得てして、上流階級には分からぬ問題が、下層階級には蔓延っているものだ! いずれ国の長に挨拶せねばならんとしても、一日くらい、色眼鏡なく国を視察したい!」
要は、「初めから候補者として歓迎されると、為政者に不都合な部分が隠されがちなので、一日くらいは自由に国を見て回りたい」ということだ。
その部分には、テオドアも納得ができる。
わざわざ相談しに来るあたり、抜け駆けもしたくなかったのだろう。ルチアノの、『正々堂々』勝負をしたい気持ちは、未だ健在のようだ。
しかし――そうなると、致命的な問題が浮上する。
「でも、『境界の森』はどうするの? この山の麓は、もう森だよ?」
そう。候補者たちが集められる山は、大陸の中央にそびえ立っている。どこの国にも属さない「神聖な山」だ。
つまり、山の周囲には、どこの国の手も及んでいない。手付かずの『森』である。
言い換えれば、山の麓からどこかの国へ辿り着くまでがすべて、魔獣たちの住む魔境・『境界の森』なのだった。
すると、ルチアノは、「しまった!」と叫んで頭を抱えた。
「そこをまったく考えていなかった! と、徒歩でも良いが、時間がかかり過ぎる!」
「魔法を使って飛ぶのも、本末転倒だしね」
「ぐああっ! こういうところがいかんのだ! 目先の綺麗事に囚われ過ぎる! 腹を切ったほうがいいか!?」
「デヴァティカみたいなこと言ってる……」
いや、彼は腹を切らせようとした側だから、違うか?
そんなことを考えつつ、テオドアはふと、思いついて口にした。
「それなら、ひとつ、当てがあるかもしれない。確実ではないけど……」
そうして、『第三の試練』――より、一日前。
楽園のような場所から、岩肌が剥き出しになった山頂に出た、候補者二人は。
目の前に立つ巨大な鳥――怪鳥ネフェクシオスを見上げていた。
「ごめんね、卵を守らなくちゃいけないのに」
いつもより少し装備を増やしたテオドアが、外套を羽織りながら、申し訳ない気持ちをいっぱいにして言う。
――正面から抜けられなければ、空から行けばいい。
そう考えて、卵を抱える怪鳥に、ダメもとでお願いをしてみた。
すぐに断られると思いきや、雛通訳曰く、「困っているなら乗せて行ってやる」とのこと。
もちろん、未成熟な雛二羽は、「弟か妹になる卵を守る」と言う名目で、お留守番である。
それでも、テオドアとしては気が咎めてしまうのだが。
怪鳥は、「いつまでも気にするな」と言うように、少し呆れ気味に首を振り、大きな頭を擦り付けてきた。
「私からも礼を言うぞ、ネフェクシオス殿! 道案内は任せてくれ!」
と、胸を張って宣言するのは、ルチアノだ。
彼は、テオドアとともに乗せてもらう代わりに、目的地へ案内をする役目を負っている。大切な奥方に乗せていただくのなら、と、交換条件の形だ。
……みんな、どうしてこの子を、僕のお嫁さんにしたがるんだろう?
疑問は尽きないが、もう慣れてしまった。特別に訂正することもせず、テオドアは条件を受け入れた。
ルチアノは、しっかりと装備を身につけた上で、古地図などが描かれた紙を、数枚抱えている。
「さあ、行こう! こうしている間にも、悪竜が人々を脅かしているに違いない!」
それを合図に、ネフェクシオスは、乗りやすいように座ってくれた。
二人が彼女の背に掴まり、『肉体保護の魔法』を掛け終えると、ゆっくりと翼を広げて飛び立つ。
雲よりも高い山頂から、地上が見渡せるくらいの高さまで。
――『第三の試練』開始の宣言は、明日、行われる。予定通りに行けば、目的地で聞くことになるはずだった。
霧のような雲の中を降下する最中、冷たい風に吹かれながら、隣のルチアノが叫ぶ。
「目的地は、『ライルイン伯爵自治領』だ!」
ライルイン伯爵自治領。
名目上は独立国家だが、大国の庇護下に入ることで、国主が爵位をいただき、自治を行なっている。
その、大国とは――
――セブラシトの出身国。
聖ロムエラ公国である。




