29.完璧じゃない人間たち
「ねえ、――て」
――夢?
いつもの夢にしては、不自由な状況だった。
目も開けられず、視界は真っ暗で、どこかに横たわっている感覚がする。
寝台の上……だろうか。指先ひとつ動かせずに、ただ呼吸を繰り返すことしかできない。
前世で、このような状況になった記憶は、まったくない。
いつもの夢ではないのだろうか?
訝しみながら、感覚を研ぎ澄ませる。
どうやら、身体の上にシーツが被せられていて、誰かが寝台のそばでそれを覗き込んでいるらしい。
女性の声、だ。
聞き覚えがある。
どこで聞いたかは、どうしてだか、思い出せない。
「もう――年よ。もう少し、――ても良い――しら」
女性はそう言って、ひんやりとした手で、首筋に触れてきた。
そのまま、なぞるように胸元まで撫で下ろし、掛かっていたシーツをそっと剥ぐ。
自分が裸であることに、そのとき、初めて気がついた。
「せめて、一緒に――、――でしょう?」
衣擦れの音が響く。ぱさぱさと布が床に落ちる音も。
寝台に乗り上げてきた彼女が、首に腕を回して抱きついてくる。――服ではなく、柔らかい肌とこちらの肌が、静かに触れ合った。
「まだ、夢を見ているのね」
間近で囁かれた声が、耳の底に残る。
普段ならば、ここまで異性に近づかれて平然としていられないだろうが、ここではその自由もない。
心臓は規則正しく脈を打ち、呼吸はわずかたりとも乱れない。
動くことが、できない。
女性の冷たい手が、頬を撫でる。
「愛してるの。本当に」
声がより近づく。吐息が触れ合うほど。
「だから、早く」
唇に、温かな唇が、ほのかに触れて――
「――っ!?」
飛び起きた。
慌てて辺りを見渡して、自分の身体を確かめる。
ここ一ヶ月ほどで見慣れた、屋敷の寝室。服はきちんと着ていて、一糸の乱れもなかった。
そばには誰もいない。
当然、身体も自由に動く。
「夢……?」
それにしては、感覚が現実と近過ぎた。
女性に触られた箇所に、まだ感触が残っている気がして、思わず首筋に手をやる。
(あの人は、僕に語りかけているみたいだった。でも……)
甘い響きの中に、ほんの少し、悲しみが入り混じった声だった。
どうしてあんな行動に出るのか、彼女との関係はなんなのか、一切分からないままだ。
「……考えても仕方がないか」
そう呟いて、テオドアは寝台から降りる。
夢のことを考えていても仕方がない。今は、現状の把握に努めないと。
寝起きで混乱していた頭の中が、徐々に整理されていく。
『試練』はどうなったのか。どのくらい寝ていたのか。誰かに教えてもらわなくてはならない。
テオドアは、扉を開き、廊下のほうに頭を出した。
「あっ」
ちょうど、使用人服に身を包んだロムナが、扉の前に立っていた。
右手を掲げているのを見るに、今まさに、ノックをしようとしていたところらしい。左手には、タオルや服の入った籠を下げている。
なんでもそつなくこなす彼女には珍しく、丸く驚いた瞳で、こちらを見下ろしていた。
「ロムナ、おはよう。えっと、僕はいつから……」
テオドアが問おうとするより早く。
ロムナは、籠を取り落とし、テオドアを勢いよく抱き締めた。
「……ロムナ?」
「よく、お目覚め、くださいました。……テオドアさま……」
抱き締められているので、ロムナの顔は見えない。
ただ、震える肩から、彼女に相当な心配をかけてしまったことは、分かった。
聞くところによれば、一時、死をも危ぶまれたらしい。
なんでも、過度に魔力を使い過ぎた弊害として、脳の一部が焼き切れかけていたとか。
普通なら、子供のころから徐々に魔力を使う練習をして、自身の限界を知ることから始めるそうだ。
だがテオドアは、コツが掴めずに四苦八苦していた反動で、一度使えるようになった途端、己の限界を無視してしまった。
いや、そもそも、限界を知らなかったのだ。
また、机上の空論で終わりそうな魔法を、軽々とやってのけられるほどの魔力を有していたことが、今回の暴走に繋がる要因だという。
「『回復』や『治癒』は、外傷には強いんだが、身体の内の傷や病にはどうにも弱い。魔法も万能じゃないな!」
と笑ったのは、目覚めた翌日にお見舞いに来てくれた、ルチアノだった。
テオドアとしては、傷も疲れも違和感もまったくないし、自由に動き回れるつもりなのだが。
ロムナを筆頭とする使用人たちが、「安静にしていて欲しい」と強く言って心配するので、寝台の上で身を起こすだけに留めていた。
「まあ、それに関しても、君は異次元だ。頭の中の傷さえ自分で治してしまった。一週間で目覚めて、後遺症もなく動けるなど、治癒魔法専門の医術師たちが見たら卒倒するだろうな」
「普通は、動けないんだ?」
「まず治ることがないな。奇跡的に治療が上手くいったとしても、足に違和感が残ったりする。それでも、命が残るだけありがたい」
ルチアノは、寝台のそばの椅子に座り、難しげな顔で腕を組む。
「だからこそ、セブラシトとデヴァティカの棄権は妥当だ。あれは到底、一日二日で治るようなものではない。集中治療が必要だ」
「……」
この『第二の試練』では、三人の〝依代〟候補が脱落した。
セブラシトは、テオドアが頭を少し狂わせたせいか、別人のようになっている。
ぼんやりとして反応が鈍く、受け答えも穏やか――と言うより、静かになっているらしい。
無理を押せば、最後の『試練』にも挑戦できるだろうが――あまりにも無謀であることを理由に、彼付きの精霊判断で棄権が選ばれた。
デヴァティカは、骨の髄まで雷に焼かれたために、未だ目覚めない。
外傷は治ったそうだが、ルチアノの言う通り、身体の中身が治らないと、どうにもならないのだろう。
ネイに関しては――
「ネイは……すべてを放棄しているようだな。なにもかもを暴露して、暴れて、部屋に閉じ込められていると聞く。私は、恋情に関してとやかく言う立場にはないが――」
と、ルチアノは首を振った。
「ああなっては、誰の気持ちも素直に受け取れないだろう。ありのままのネイを、好いていた者だって、きっといるはず。目が曇ってしまうのは、悲しいことだな」
「でも……僕が、女神さまとこっそり、会っていなければ」
ネイがすべてを暴露した事実は、当然、テオドアの耳にも入っていた。
彼が、テオドアと女神の関係に嫉妬を募らせ、凶行に走ったのだということも。
だからこその呟きだった。しかし、それにもルチアノは首を振る。
「君には〝魔法が使えない〟という不利があった。そもそも、候補者になることすら予想外だったんだろう? 女神さまがお気をかけてくださるのは、不自然なことじゃない」
「でも……」
「だいたい、先に加害してきたのはあちらのほうだ! なにを気に病む必要がある?」
「……魔法が使えるようになったとき。自分が、自分じゃなくなるような感じがした」
テオドアは、とつとつと語る。
あの、魔力が一気に自分のものとなった感覚。
ありとあらゆるものが、自分の思い通りになる万能感。
高揚しきっていたせいか、自分以外の存在を、どこか俯瞰したように眺めていた。
あのとき、もし、三人が治癒不可能なまでに損壊し、死んでしまっていたとしても。
――治す努力はするだろうが、途中で、「まあいいか」と放り出していたかもしれない。
そうでなくても、人の脳を狂わせるなど、最低の行いだ。
「でも、僕は、そんなに優しい人間じゃない。侮辱されたら怒るし、恨みもする。傷をつけられたら、やり返したいって思う。だから、彼らにやったことを、そこまで後悔していないんだ」
だからこそ、恐ろしい。そう思う。
「僕が僕じゃない感覚だったけど。でも、あの非道な一面も、確かに僕なんだ。力を持ったことで――あれが――」
「あの暴走が、普通の……日常のものになってしまわないか。それを恐れているんだな?」
テオドアは、自分の手を見つめ、深く頷いた。
「そもそも、女神さまとこっそり会っていた僕に、まったく非がないわけじゃない。もちろん、逆恨みは心外だけど。もっと徹底的に、隠せば良かったんだ」
「なのに、あの仕打ちは、やり過ぎだったんじゃないか……と?」
「うん、そう」
「うーむ。難しい問題だな」
ルチアノは首を捻る。そのまま深く考え込んでいたが、やがて姿勢を戻して、テオドアを見た。
「テオドア。完璧な人間はいないぞ」
「……分かってるよ。魔法を上手く使えるようになれば、今回みたいな暴走も減るだろうし……」
「ああ、その通りだ。よし、ここでひとつ、私の恥ずべき欠点も話そう」
彼はにやりと笑い、大仰な仕草で立ち上がった。
そして、言う。
「テオドア。私は今まで、君のことを見下していた」
「……え?」
「完全に下のものだと思っていた。はっはっは! あれほどセブラシトたちを糾弾していたというのに、だ! 笑えるだろう?」
これは、私の欠点だ。
ルチアノは笑顔のまま、いつも通りの暑苦しい口調で言う。
「どうしても、自分の物差しで相手を測る癖があってな! それで何度も失敗している。しかも、口では綺麗なことを言う厄介なおまけつきだ!」
「……やっぱり、僕、弱く見えた?」
「それはもう! セブラシトの言う通り、すぐに死ぬだろうと思っていたぞ! ……だから、まあ、ヤツに関しては同族嫌悪だな。あちらのほうが、まだマシかもしれん」
「自分の意見を、思うように言っていたから?」
今度は、ルチアノが深く頷いた。
座り直してから、再び口を開く。
こちらを見据える瞳は、真剣そのものだった。
「私の悪癖は、どうしても治らん。だから、治すよう努力するのと並行して、癖との上手い付き合い方を探っていくしかあるまい」
「……そうだね」
それにだ。と、ルチアノはわずかに身を乗り出す。
「君は、誰彼構わず優しくはしないが、他者に真摯でありたいとは思っているだろう? それだけでいいと思うぞ。君の強さも、そこにあると思う」
「そうかな。そうだったら、嬉しいよ」
「単純な強さでも、今だったら私より上かもしれんな! 一応、私も『試練』を合格したんだが……」
曰く。
気絶したテオドアたちが、精霊たちの手によって運ばれていったあと。
かなり遅れて、這々の体で『元・魔女の結晶があった部屋』に辿り着いたルチアノは。
ちまちまと瓦礫を掘り返して、魔女の結晶を見つけ……天井に、自身の記憶から抜き出した夜空を映し出すことで、なんとか合格をもぎ取ったらしい。
その様子を、あまりにも臨場感たっぷりに語るものだから、逆に面白い。
テオドアは、自然と笑みをこぼした。
「じゃあ、最後の『試練』は、二人で戦うことになるんだ」
「そうだな。そこで、正々堂々と勝負をしよう」
「弱い僕と?」
「う、それを言ってくれるな……いや! 君が弱くても強くても、関係ない! 君が勝ったら、潔く謝ろう! 見くびっててごめんなさいと!」
「あ、今、謝ってくれるわけじゃないんだ……?」
まあ、直接に暴言を吐かれたわけでもなし、それは良いのだけど。
彼の悪癖、いや、プライドの片鱗を垣間見つつ、テオドアは右手を差し出した。
一瞬遅れて、ルチアノも、同じく右手を出す。
硬く握り合った手は、これ以上のない「対等」の証に思えた。
「勝負は、次の……最後の『試練』だね」
「ああ! 私は全力を出す! 君も全力で掛かってきてくれ!」
「うん。――絶対に、負けないよ」




