終話.世界が変わってしまっても
一年前、ヴェルタ王国に『光の女神』さまが降臨してから、世界は変わった。
そのことを、アルカノスティア王国のヴィンテリオ公爵家に勤めるハンナは、他の平民よりも割と早く知ることができた。
ヴェルタ王国の王と第一王子が立て続けに亡くなり、それと時期を同じくして各地に魔物が突如発生した。ヴェルタでは即位前のルチアノ王子が果敢に魔物を討伐したが、周辺国では甚大な被害が出た国もあった。
アルカノスティアも、国境付近はかなりの被害だったと聞く。
その現状を憂いたルチアノ王――即位したので王となった――は、単身で天界に向かい、『最高神』を再び復活させる方法を神々に提言した。彼は元〝依代〟候補であったから、神々も話を聞く気になれたのだろう。
だが、ルチアノ王は、天界の空気に耐え切れず亡くなった。天界は人間にとって生存の難しい世界だ。だからこそ、神々はルチアノ王の勇気を褒め称え、今生きる神の中から『最高神』を選ぶことを決めた。
それによって、千年の長きに渡って存在した〝依代〟制度は、終わりを迎えた。
ハンナは、己に課された仕事を終えると、お仕着せを脱いで私服に着替えた。屋敷の外は、陽が沈んで夜が始まっている。
今日から三日間は、『最高神』が再び世界を統べるようになった記念の祭りだ。屋敷の使用人も、それぞれ交代で休みを取っている。ハンナが早退できるのも、同僚たちが手を貸してくれているからだった。
こんなに労働環境の良い職場も珍しい。今代の公爵さま……ツィロさまは、案外、良い領主なのかもしれない。
ハンナは外行きのおしゃれ着に外套を羽織り、化粧をして、街へと繰り出した。双子の兄のクレイグは、まだ仕事中だ。別に一緒に行かなくても、祭りは三日間続くから……彼もどこかの時点で繰り出すだろう。
『光の神殿』への道は、どこもかしこも出店が立ち並び、祭りの熱気を高めている。人がごった返す様子と言い、なんとなく、あの日のことを思い出させた。
(クレイグと、テオドアさまと、一緒に歩いたっけ……)
自然と目が人波に向き、鮮やかな赤い髪色を探してしまう。
……いるわけがないのに。彼は、もう、遠く隔たったところにいるというのに。
そもそも、テオドアとは一年以上も会っていない。あちらはハンナのことを忘れているだろう。今がいちばん忙しくて、やることがいっぱいの時期だろうから。
いいや、そうでなくても。自分のような平民を覚えておく意味なんてない。
(〝依代〟ではなくなったけど、神々の補佐をする役目を新しく仰せつかった、んだっけ)
『光の女神』は、「ルチアノ王の提言もあり、昨今の世界情勢の不安定さに危機を覚え、会議の末に〝依代〟制度を見直した」と言った。
それゆえに、本決まりとなっていた〝依代〟は、代替わりをすることなく役目を終えた。
アルカノスティアの王国民は殊更に嘆いたが、『光の女神』が〝依代〟制度に代わる選抜儀式を行うと言っていたので、不満は一切漏れなかった。
元〝依代〟のテオドア・ヴィンテリオは、新たに創設された栄誉の職を拝命した。神々の補佐役である。地上の意見を取りまとめ、神に奏上する重要な役目だ。
しかも、彼は生きている限り、神と同じ地位に位置付けられる。彼が死ねば、〝依代〟選抜の儀式のように、大陸の人間から選りすぐりの一人が同じ地位に付けられる。
つまり、〝依代〟の栄誉は、形を変えてこの大陸に在り続けるということだ。
しかも新しい栄誉は、五大国の若い少年のみならず、あらゆる小国にも、少女にも開かれた。命の危機がある試練は行われないが、代わりに性格や為人をよく見て選ばれるらしい。
大陸の人間たちは、誰もが、新しい世界の到来を予感した。
(ヴェルタの王さまも、天界の方々が選りすぐって、王家の血筋から相応しい人を選んだって言うし……)
『最高神』が再びお決まりになるなんて、歴史に残る大事件なのに。ほとんど混乱もなく滑らかに、世界は新しい方向を向こうとしている。
ハンナは、それに少し、戸惑う気持ちがあった。
何も不満はない。ただ、本当に全てが滞りなく進むので――まるで、ルチアノ王が死ぬところから予定通りだったのでは、と思わずにはいられない。
だって、今まで、『最高神』を誰も継げないから〝依代〟が選出されていたのに。こんなにあっさりと『最高神』が代替わりできるのなら、最初からそうすれば良かったのでは?
日常の中でほんの僅かに芽生えかけた疑念を、幾度となく打ち消す。神さまのやることに間違いはないのだから、適切に『最高神』を代替わりさせる方法を取っただけのことだろう、と。
何かがあったとしても、それは、ハンナには預かり知らぬことなのだから。
人混みの中を苦労して進み、やっと『光の神殿』まで辿り着く。
祭りに来て、何か目的があったわけではない。ただなんとなく、あの〝依代〟候補選定の日に、テオドアたちと共に神殿を眺めた木陰が懐かしく思った。だから、こっそりとその場所を訪ねて、記憶に想いを馳せたいと思ったのだが――
テオドアが『光の女神』に見出された木陰は、ある種の信仰の対象と化していた。人々は、太い柵で囲われた木の周りに集まり、女神降臨の奇跡の残滓を感じ取ろうとしている。
これでは、とても近付けない。ハンナはそっとその場から離れ、人を避けつつ、神殿の裏手にある丘へ進んだ。
舗装された道の先には広場もあったのだが、そちらも人が多く、とても静かに過ごせそうになかったからだ。
どさくさ紛れの暴漢が出るかもしれない、と警戒しながら、適度に草木の生えた斜面を登る。明らかに手入れが行き届いていた。
あと少しでてっぺんに着く、というところで、ハンナは思わず立ち止まった。
頂上に立って神殿のほうを眺める先客がいたからだ。
「あ、……」
その後ろ姿に見覚えがあった。髪の色は暗く、茶色がかっているが、きっと変装しているのだろう。
彼の赤い髪色は、今ではずいぶんと有名になってしまったから。
お忍びだと察し、咄嗟に言葉を飲み込んだものの――僅かな声に反応して、彼は振り向いた。
テオドアは、ハンナを見ると、変わらぬ優しい声音で「お久しぶりです」と微笑んだ。
「お……お久しぶりです、テオドアさま」
「こんなところで会うなんて。ハンナさんも、あの人混みから逃れてきたんですか?」
「はい。し、静かなところで、ゆっくりお祭りを眺めたかったんです」
動揺のあまり声が裏返っているし、言葉が上手く続かない。だが、テオドアはその場から一歩横にズレて、「こちらにどうぞ。神殿がよく見えますよ」と示してくれる。
ハンナはおずおずと言葉に従った。隣同士で祭りの風景を見下ろすなんて、まるで……二人で出掛けているみたいじゃないか。と思ったが、自制心を働かせて妄想を打ち消した。
ことここに至っても、ハンナは、テオドアに恋していたのだ。
「……お祭りに来たのも、天界のお仕事の一環ですか?」
しばらく遠くの明かりと喧騒を眺めていると、心も落ち着いてくる。ハンナは、頭を冷やすように息を吐いてから、テオドアに問うた。
テオドアは、嫌な顔ひとつせず答える。
「そうなんです……と言いたいんですが、実は、女神さま方から休暇をいただきました。今の仕事は――引き継ぎが多くて、少しずつ身体も慣らさなくてはいけなくて。そんな生活ばかりでは苦しかろうと仰っていただいたので、息抜きにこちらへ」
「なるほど。大変なんですね」
ハンナは無難に答えた。上手い返しなど分からない。どんな仕事をしているのか、突っ込んで聞いて良いのかも分からない。
ただ、緊張からかときめきからか、鼓動がいつもより早い。焦燥のようなものも薄っすらと感じる。
何か言わなければ、とハンナが取り敢えず口を開いたと同時に、テオドアが穏やかに切り出した。
「……僕、公爵家の爪弾き者から、ずいぶんと出世しましたよね。自分でも、時々、遠いところに来たなと思うことがあるんです」
「えっと……そ、そうなんですね」
「はい。つい先日も、アルカノスティア国王に、新しい爵位と家を創設して献上する、と言われました。たぶん、天界と繋がりのある僕が無爵のままだと、国の威信に関わるんでしょうね」
そんなことを、部外者の自分に話しても良いのだろうか。ハンナがそう考えていると、テオドアは少し口籠もりつつ、続けた。
「……女神さまに、『いい加減にあの娘への態度をはっきりさせろ』と言われたので……その。僕は……つけ込むような真似はしたくないんですが……」
「? はい?」
「えっと……聞いてくれますか? 僕が今までやってきたこと、どんな犠牲を払ってきたかを。本当は今、どんな地位にいるのか、も。初めから終わりまで、全部」
「それは、あたしが聞いて良いものなんですか?」
問うと、テオドアは迷いなく首肯した。
『光の女神』さまに、「乙女心を振り回し続けるな」と助言を受けたらしい。その言葉の意味することを悟り、ハンナは頬が熱くなっていくのを自覚する。
いや、恋心は隠していなかったけれど。想いが本人に伝わっているというのは、やはり気恥ずかしいものである。
テオドアは、ハンナに向き直った。涼しげな風が二人の間を通り抜ける。
「全部聞いたら、僕を軽蔑するかもしれません。でも、聞いて欲しいんです。神でも精霊でもない、貴女に」
「……」
「もちろん、断っていただいても構いません」
ハンナは、テオドアの瞳を見た。
他人を利用しようとする目ではない。自分の意見を押し付けようとする目でもない。ただ純粋に話を聞いてほしいと思っているだけなのだろう。
惚れた欲目を抜きにしても、きちんと話を聞いてあげたいと思うような、真剣な表情だった。
しばらく言葉を選び、ややあって、答える。
「仮にテオドアさまを軽蔑するとしても……気持ちが吹っ切れるんだから、良しとします。どうぞ、話してください」
とは言いつつも、やっぱりテオドアが好きだ。
どんな話を聞かされても、きっと理由と信念があったのだと、そう信じられてしまうくらいには。
ハンナは、彼の心地の良い声に耳を傾けた。
「これは、あの日……僕が『光の女神』さまに見出された後のことなんですが、神殿にペガサスに乗った少女が舞い降りて――」
どんなに変わり続ける世界でも、この人はきっと変わらないんだろうな。
ハンナにとって、それは救いであるような気がした。




