228.確かな迷い
その夜、テオドアは、独りで『楽園』へと向かった。
他の面々は王城に詰めて、ヴェルタ王国の政治を滞りなく回すための下準備を進めている。次に立てる王の血筋を見繕ったり、有用な人物を選び出したり。すべてが夢の中にある今だからこそ、できる作業を。
テオドアは、一度だけ抜け出す許可を得た。ひと通りの話し合いが終わってから、考えることが山ほどできたのだ。
女神たちやリュカ、セラも、テオドアが考え込むのは仕方がないと思っているようだった。それだけ大きな決断を迫られている。『最高神』を消滅させるまで先送りにされていた問題が、今、再びテオドアを悩ませていた。
花畑を歩き、『境界の森』を模した森を抜け、女神たちの城に辿り着く。
三女神がいないからか、辺りは妙に静かだった。今のほうが――ルクサリネや女精霊たちに『秩序の女神』と、人数も多いのに。不思議なことだ。
『光の女神』ルクサリネは、広い居間で本を読んでいた。
暖炉には炎が赤々と燃えている。外は暗く、光源は唯一それだけだ。彼女は安楽椅子に腰掛け、ゆったりとページをめくっていた。
扉を開けたままのこちらに気がつくと、彼女は目を上げ、「疲れただろう」と笑った。
「アレを――『最高神』を討伐してから、まったく休む暇がなかったようだな。今夜ばかりはゆっくり寝ろと言われたか」
「あ……ええと、はい。皆さまには気遣っていただいて……」
「そうだな。今にも倒れそうな、思い詰めた顔をしている」
テオドアは黙り込み、俯いた。薪の爆ぜる音がしばらく響いたあと、ルクサリネは溜め息を吐き、「とりあえず座れ」と言う。
そろそろと足を踏み出し、暖炉近くで空いている席に座る。ちょうど、ルクサリネと向き合う形だ。
顔さえまともに見ることができない。彼女の喉元あたりを眺め、まとまりのない言葉を整理しようと努力する。
ルクサリネは、開いた本を足に置いたまま、燃える炎を見ていた。視線をこちらに向けず、口を開く。
「……天界が壊滅した今、ここは清浄な神気に満ちた唯一の場所だ。精霊たちの容態は落ち着いている。早々、消滅することはないだろう」
「そう、ですか。良かったです。……僕の見知った方々も捕縛されていたのは、良かったと言うべきか、悪かったと言うべきか……」
「生き残った、という意味では幸いだっただろうな。アレら以外の精霊は、女も男も、みな殺された」
ルクサリネは静かな声で続ける。
「『秩序の女神』は、この城の一室に監禁してある。最愛の者を再び失って気力が失われたのか、抵抗もせず抜け殻のようだったが、油断はできない。もっと頑丈な檻を作ることができれば、そちらへ移したほうが良い」
「そうですね」
「……『愛』というものは難儀なものだ。神でさえ、一度囚われれば逃れられない。昔、それを司っていた私だからこそよく分かる。たまに分からなくなることもある」
その矛盾こそが『愛』の本質なのだろう、と彼女は語る。
そうして、美しい瞳がそっとこちらを向いた。
「何があった?」
「――三女神さまと、セラさまと、リュカと話し合いました。今後について。地界のいざこざをなんとかする前に、まずは『最高神』を立てなければ、と」
「ああ。私がその場にいても、そう提案するだろうな」
今まで通りに〝依代〟制度を利用して――テオドアとて死にたくはないので運用方法は考えるにしろ――天界を復興できないかと聞いたが。リュカ曰く、それは「平和な時ならば有用」だった。
そも、『最高神』がいなくても千年続いて来れたのは、〝依代〟制度だけの功績ではない。天界に住まう神や精霊が、少しずつ維持に力を貸していたから成り立っていたことだ。
でなければ、百年に一度の〝依代〟の交代などできない。次代に継ごうとした瞬間に瓦解する。
人間側からすれば非情な「〝依代〟ぶつ切り問題」も、〝依代〟の権力を増大させない以外に、効率を考えた上でも意味のある行為ではあった。
だが、神々は死んだ。精霊も死んだ。
〝依代〟を維持するだけの力は、残った神と精霊では賄えない。ただでさえ人手が足りず、世界に不安定と歪みをもたらし続けていたというのに。
リュカは、『最高神』を再び立てることを推した。テオドアがふさわしいと言い切った。
三女神もセラも、同じ意見だった。普段はあまり仲良くないというのに、こういう時だけは団結している。
……リュカなら、突拍子もない解決策を知っているのではと、期待していた節はある。が、だからと言って、まったく不満はない。
ただ、先送りにしていた問題に直面して、決断のときが近いことに戸惑っているだけで。
説明をしながら、テオドアは視線を下げた。剣ダコのある手が見える。己の――〝テオドア・ヴィンテリオ〟の手だ。『番人』の、戦いとは無縁のそれとは違って。
ここに至るまで、常に難しい選択を迫られては一方を選び取ってきた。今回も飛び込んでしまえばいい。そうは思うものの、あまりの重圧に、やはり尻込みしてしまう。
小さく息を吸って、言う。
「……やっぱり、僕を『最高神』に推したいと。諸々の都合が良いし……いちばんしがらみがないから、祭り上げやすいんだ、と言われました」
「そうだろうな。人間を神に召し上げる『最高神』がいないものの……壊滅した天界を一から復興するよりは、お前を神にするほうがずっと簡単だ。いくらでも方法は思いつく」
「僕は、」
この際だから、全て言い切ってしまおう。テオドアは手を握り込み、悩みごとを口にする。
「……僕にそんな大役が務まるのかというのも不安です。でも、必要であるならお受けする覚悟はあります。僕がいちばん不安なのは……」
「不安なのは?」
「あの『最高神』のようにならないか、ということです。僕は平凡で傲慢な人間ですから、調子に乗って……あのようにならないとも限らない」
『最高神』と対峙したのは、ほんの僅かな間だ。それだけで彼の全てを測れるはずもない。
だが、テオドアは不安になった。女神さまたちも、セラさまも、精霊たちも、リュカも、自分のことを肯定してくれる。否定されてばかりの半生だったのを取り返すかのように、肯定され、讃えられ、甘やかされてきた。
調子に乗っていた面も確かにある。その慢心に付け込まれてルチアノに殺された。反省を生かして、しばらくは調子に乗らずにいられるだろう。
しかし、それがいつまで続くかも分からない。
仮に神になったとして。『最高神』になって永久に近い命を生きるようになったとして。長い生に狂い、いつ暴走してもおかしくはない。
『最高神』は――ルクサリネへの愛に狂う前は、真っ当で、少し愚かだが善良な神だったと聞く。
同じことが我が身に起こらないと、どうして言えるだろう?
いつかペレミアナが、『秩序の女神』を責められない、と言った。自分たちも同じことをしたし、これからもするだろうからと。
それを言うなら、テオドアだって『最高神』を馬鹿にできない。少し道を違えば、彼のようになっていたかもしれないのだから。
そして、その可能性は、未来にもある。
「『最高神』になったら、周りは基本的に、僕を肯定してくれるでしょう。多少のわがままは許される。そのお目こぼしがどんどん増えていって……神代の『大戦』や、今回のようなことを引き起こしてしまうのではないか。それが、とても心配です」
言い切ってしまってから、テオドアは目を閉じた。どんな答えが返ってきても、『最高神』という大役は受けるつもりでいる。だが、大きな決断をする前に、誰かに気持ちを吐き出してしまいたかったのだ。
――ルクサリネは、たっぷり十分は黙り込んでいた。テオドアが目を開け、彼女の顔を見ても。美しい横顔が虚空を見上げ、答えを探しているようだった。
やがて、再び、彼女がこちらを向いた。
麗しく微笑みながら、言う。
「それなら、安心しろ。そうなった時は――私が手ずから、お前を殺してやる」




