215.巨大な箱庭
もちろん、『最高神』は倒れなかった。
苦痛を頭から素早く消し、深々と突き刺さった短剣を引き抜く。僅かにのけ反った体勢を戻したときには、「バン」は既に背を向けて逃亡していた。
「小癪な真似をッ!!」
傷は瞬時に治したが、ただの人間に隙を突かれたという事実が許し難い。『最高神』は周囲を構わずに暴風を巻き起こした。風そのものが鋭利な刃となり、石造りの外廊下に無数の傷とヒビを入れる。
ただ、肝心のバンは、広範囲を襲う暴風を器用に避けていた。風と風がぶつかり合う隙間を縫い、さっさと大きな建物内に逃げおおせる。
『最高神』に対して、これ以上のない侮辱だった。本気を出していなかったとは言え、簡単に斬り殺せなかった事実が不愉快だ。
湧き上がる憤怒をどうしようもできず、『最高神』は怒り任せに叫んで駆け出した。
「舐めるなよッ、下等生物の分際でぇぇぇぇ!!」
警告のつもりか、内側にいるルチアノが、〝落ち着いて自分と代わって欲しい〟と叫んでいる。しかし、頭に血が上った『最高神』は聞き入れない。
ありとあらゆる権能を使った。炎を広げ、雷を落とし、硬化した氷玉を撃ち出し、毒を撒き、腐食させ、幻覚を見せようとした。彼の進んだ後には、荘厳な建物など見る影もない。
バンが逃げ込むところを襲撃し、執念深く追い回しているのだが、どうにも直前で避けられ、ひらひらと逃れられてしまう。もともと我慢強くない『最高神』の怒りは、収まるところを知らなかった。
未だ己のものではない肉体を使っているからか、人間のものだからか――いくら脚を強化しても走りは鈍り、一向に追いつけない。
だが、その状況も長くは続かなかった。建物を破壊し尽くしていくうち、バンが逃げ込める場所もだんだんと少なくなっていく。今までは遮蔽物を上手く利用して逃げられていたが、じきにあちらも根を上げるだろう。
そう思うことで、『最高神』の気持ちも幾分か落ち着き、ほんの少しの余裕が生まれた。
瓦礫の山を踏み分けながら、彼はふと、違和感を覚えた。
――バン以外の人間に、一度も出会わないのである。
つい先ほどまで、中庭には大勢の人間がいた。あらゆる建物の中にも神官を始めとした人間が行き交い、『最高神』と対話し、それでも見つけられぬセブラシトに苛立っていた覚えがある。
それが、この大騒ぎの中で、誰も姿を見せない。
『最高神』は深く息を吸った。他者の魔力を探知するため、感覚を研ぎ澄ませる。結果は、驚愕すべきことに――この大神殿の敷地内に動く存在が、『最高神』とバン以外にないということだった。
『秩序の女神』さえいない。彼はようやっと立ち止まり、周囲を見渡して、違和感の元をさらに探った。
……空に浮かぶ雲は固まったまま、風は『最高神』が作らなければまったく吹かず、壊した建物の残骸もどこか空虚に作り物めいている。
覚えがある感覚だ。景色は異なれど、同じような「世界」を作って他者を閉じ込めた経験が、『最高神』にはある。
「まさか、ここは……」
「ようやくお気付きですか」
『最高神』が思い至るのを見計らったかのように、バンが壊れかけた石壁の向こうから姿を現した。
咄嗟に強力な魔法を打ち込むも、またもや軽やかに避けられる。すぐに追撃を用意しようとする『最高神』に、バンは苦笑しながら、「まあまあ」と右手を上げた。
「そうお急ぎになるものでもありませんよ。争うのはいつでもできます。ここはそういうふうに作られた世界です」
「……短剣に細工をしたな。俺を刺すことで〝鍵〟が開くように作ったか。小細工の腕だけは褒めてやろう」
「ありがとうございます」
嫌味も気にせず受け流し、バンは『最高神』と距離を置いて立った。
ここは、現実の大神殿とはまた違う世界。「大神殿とその周囲を模しただけの別世界」なのだろう。『最高神』はすぐに、目の前の男が短剣で刺してきた意図を悟った。
あれが一種の引き金となり、その上で隠していた魔法陣を踏ませるか結界をくぐらせるかして、意識させずに別世界へ引きずり込んだ。
のらくらと逃げていたのも、そのため。短剣を刺すことを引き金としたのは、癇癪を起こしがちな『最高神』をコケにすることで、正常な判断を狂わせるためでもあったかもしれない。
徐々に怒りも落ち着き、冷静さを取り戻してくる。『最高神』は、微笑んだままのバンへ吐き捨てた。
「ここを作るためにどんな手を使ったかは知らないが、無駄なことを。いくら俺が全盛期の力に遠く及ばないとは言え、この世界をぶち壊して帰るくらいの神気はある。権能もある。お前をさっさと殺して出ていくのは容易い」
「それは無理だと思いますが……あの、いったん話を聞いていただけますか?」
もちろん、そんな命乞いを誰が聞き入れるものか。手の内に、超高温の光で作った剣を出現させ、その場でバンの首を撫で切る。
刃が届かなくとも、押し出された熱と風が同じ役割を果たす。ただの人間の首など瞬時に消失し、首のない溶けた死体になる――はずだったのだが。
今度は、バンは一歩も動かなかった。確実に首を切ったはずだ。それでも、彼は無傷で立っている。
「は?」
魔術も魔法も使われた気配はない。そも、目の前の男からは、平民たちと同じくらい微量な魔力しか感じられない。
完全に状況が飲み込めずにいる『最高神』へ、バンは労るように口を開いた。
「まず、結論から申し上げます。この世界は脱出の条件が決められておりまして、それが、『僕を完全に絶命させること』です」
「は……あ?」
「それ以外の手段は完全に無効となります。貴方さまがいくらご高名な神でも、どんなに強力な魔法を使おうとも――僕の息の根を止めない限り、絶対に外界への逃亡は叶いません」
彼は右手を下ろし、左手の薬指に嵌った指輪にそっと触れた。微笑から真剣な表情へと移り変わる。
「また、外界からの干渉もできません。外にいらっしゃる女神さまは、今ごろは因縁の相手と対面なさっていると思われますので、助けは見込めないかと」
「……何が目的だ。お前、本当にただの人間か?」
用済みになった光の剣を消し、『最高神』は憎しみさえこもった目で男を睨み据える。ただし、バンは動じない。
彼は鋭い眼光を真っ直ぐに受け止め、「目的、ですか」と続けた。
「僕は――僕たちはただ、たった一人のために世界が一新されるなんて馬鹿げた未来を、阻止したいだけです。だって、得をするのが、貴方さまお一人だけですから」
「馬鹿げた、だと?」
「事実です。……そして、脱出条件は僕を殺すこと、と先ほど言いましたね。これも先に言っておきますが、不可能です」
「……はあ?」
貴方さまは絶対に、僕を殺すことはできません。
そう言いながら、バンはすっと目を細めた。その奥に剣呑な光が宿る。
「恨むのなら、過去のご自分を恨んでください、『最高神』。貴方が僕の先祖に下した〝祝福〟こそ、僕をほぼ不死身たらしめているのですから」




