197.栄光の冠は彼方
今日、この頭上に冠を戴き、王となる。
ルチアノは、まるで死地に向かうような心持ちで目覚めた。血の気の引いた顔を鏡で眺め、自嘲の笑みを浮かべてから支度をする。
父と兄が身罷って以来、ルチアノは侍従も侍女も排し、一人で寝起きして支度するのが常になっていた。誰かと言葉を交わすのも億劫で、「朝くらいは一人でいたい」と思ったからである。
もちろん、自室の外には兵士が待機しているが、本当に切羽詰まった状況でなければ入ってくるな、ときつく言い置いてあった。
以前のように明るく取り繕う必要も、もう無い。
運命の時は刻々と迫っている。ルチアノは静かに着替えを終えると、寝台近くの窓を開き、早朝の清々しい空気でゆっくりと胸を満たした。
まあ、少しは気分がマシになるか、といった程度だ。ここで軽く身辺を整えても、一時間も経てば戴冠式の準備のため大わらわとなる。逃れられない喧騒を思い、嘆息した。
「あら? 王さまってば、今朝はお加減が悪いんですか〜?」
間延びした声が近くから聞こえてきて、ルチアノは思わず顔をしかめた。
返事をせず窓を閉めようとすると、外から白くたおやかな手が差し込まれ、阻止される。ここは四階です、と言っても、目の前の女性には通じない。
「〝この子たち〟が、見咎められないように姿を隠して、あたしを浮かせてくれてるんですよ〜。ほら、他の人から見たら、あたしが一人で浮いているように見えるでしょう?」
マリレーヌ・トッカフォンディ。ルチアノが昔、彼女の夫とともに慕っていた相手であり、今は複雑な感情を抱く女性である。
彼女は、宮廷内では「魔女」を自称していた。自身に求められる役割が、残虐かつあまりにも人道に反することを知っているからだろう。
マリレーヌはいつものように淑女の姿で、窓枠に掴まって笑う。ルチアノは視線を逸らさずに何歩か退がり、「まだ王ではありません」と低く言った。
「あら。でも、実質にはもう王さまだし……今日の夜には王さまなんだから、そう呼んだって構わないんじゃないかしら」
「……そう思うなら、それで良いです。私はこれで」
なるべく感情を交えずに言って、踵を返して歩き出す。ここで彼女と話し続けるくらいなら、使用人たちに囲まれたほうがよほど良いと思ったからである。
マリレーヌは追ってこなかった。ただ、笑みを含んだ柔らかな声だけが追ってくる。
「今日はたくさん人が来るんでしょう。いろんな国の王族に、皇帝に、大司教さまも。きっと良い日になるわ。だって、素晴らしい我らの神が、再びこの地を治めてくださる始まりの日なんですもの」
言葉が空虚な響きなのは、彼女自身がまったくそう思っていないからなのだろう。
マリレーヌは神を信仰していない。ただ、人間よりは超常的な力を使える生き物、としか見ていないのではないだろうか。
ねえ、そうでしょう? と、マリレーヌは続ける。
「素敵な王さま。あたしが細工して差し上げた〝魔石のブローチ〟を、お部屋に忘れないようにしてくださいね」
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王子として生きてきたルチアノでも、ここまで大勢に歓迎される状況は初めてだ。
耳をつんざくほどの歓声が、飾り立てられた馬車の中にも響く。馬車と同じく盛装したルチアノは、詰めかけた観衆に手を振りながら、同乗している女神に言った。
「本当に姿を隠しておられるのですか。私には、貴女さまが誰かに見咎められるのではと気が気ではありません」
「お前にだけ見えるのだから、当然でしょうに。ほら、笑顔がぎこちないわ。すぐに直しなさい」
『秩序の女神』は、ルチアノの対面に座りながら、流れる景色を眺めている。ルチアノに視線を向けたのはほんの一瞬だった。
近ごろはいつもそうだ。
以前の彼女であれば、事あるごとに絡んできたり、城内の誰かにちょっとした悪戯を仕掛けたりして余暇を楽しんでいたというのに。ほんの二週間ほど前から、心ここに在らずといったふうに、ぼんやりとすることが増えたのだ。
――念願を目前にして、これまでの千年を思い返しているのだろうか。
ルチアノには、推し量ることしかできない。そして、理由を聞いてお慰めするほど親しくもない――と、思っている。
「それより、あの方のご様子はどう? 今もまだお眠りになっているの?」
「はい。この後の出番を前に、英気を養っておられるのでしょう」
戴冠式の行程はこうだ。
まず、宮廷神殿の司祭から祝福を受けたルチアノが、馬車に乗って国中を巡り、集まった民に顔を見せる。
城に帰り着いた後、来賓の見守る中で、同じ司教から戴冠される。
その後――『秩序の女神』が降臨し、「正しい王が戴冠したことにより奇跡が起こり、『最高神』がお目覚めになられた」と宣言する。ルチアノは、『最高神』から祝福を受けた人間、という立場になるのだ。
信憑性を増すため、『最高神』にさまざまな魔法を使っていただく。そのため、今は、かの魂は眠りについている。
ルチアノは、左胸につけた不気味な色のブローチに触れながら、「どれほどで」と口を開いた。
「どれほどの期間で、この世界を作り直すおつもりですか。私の治世を続けても良いのなら、いつまででも延期していただいて構いませんが」
「……そうね。それほど……遅くはないわ。半年も掛からないくらい」
と、『秩序』は答えるが、どこかふんわりとした口調である。
ルチアノは、この『最高神』陣営の弱点を知っていた。
(皆さまには、力を持った味方がほとんどいない)
いくら目障りだったとしても、神や精霊、半神をことごとく殺してしまったのは悪手だった。捕まえた精霊はごく僅かで、ほとんどが下級精霊。『最高神』の愛人候補のため見目は麗しいが、搾り取れる神気などたかが知れている。
――神気を得るために神をもう何柱か生け取りにしていれば、と思わなくもない。しかし『最高神』の陣営は、実質的に動けるのが『秩序』一柱だけだったゆえ、管理が難しいためにほとんど殺したか埋めたかしてしまったのだろう。
地下に捕らえていた数少ない女神……『戦と正義の女神』と『夢と眠りの女神』も、二週間ほど前に逃げ出している。
力の大部分を奪われた女神たちに何ができるとも思えないが、念のため、戴冠を終えたら本格的に捜索するつもりでいた。
戦力の薄さ。これが、『最高神』たちの弱点であり、付け入る隙である。
「……」
微笑みを貼り付けながら、ルチアノは窓の外の民衆を見下ろした。舗装されていない土の道だが、小石などは退けてあるのか、馬車の揺れは小さい。
道の両脇に子どもが並び、籠に入った花びらを撒く。その光景に目を向けていると――不意に、馬車が不自然に止まった。
何があった、と声を張り上げると、わずかに動揺した御者の声が答えた。
「申し訳ありません。道の真ん中に、人が倒れ込んでいて。轢くのは……」
「論外だ。私のことは良い、助け出してあげてくれ」
言うなり、ルチアノは自ら戸を開いて馬車の外へ滑り出た。降り立った「王」に民衆がひときわ大声を上げるが、頓着せずに馬の前に行く。
そうして、助け起こす直前で、立ち止まった。
道の真ん中に倒れ込んでいたのは、見間違えようもない。
赤い髪の青年――テオドア・ヴィンテリオだったからである。




