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祈りが人を支える場所


治療棟は、封書庫より先に匂いで分かった。


乾いた紙の匂いではない。

温めた湯。薬草を刻んだ青い匂い。洗った布の匂い。少しだけ血の匂い。眠れない夜を何度も越えた部屋にだけ残る、薄い汗の匂い。


神殿の中なのに、ここは静かではなかった。


低い声。水を替える音。器を重ねる音。寝台の脚が床を擦る音。誰かを起こさないように小さく動いているはずなのに、動いている人間が多すぎて、部屋全体がずっと少しだけ鳴っている。


「止まらないで」


とイリスが言った。


封書庫からここまでの廊下は、昨日より明るかった。けれど明るいから柔らかいわけではない。治療棟へ近づくほど、人の出入りだけが増えていく。神官。見習い。担架持ち。薬湯係。書記。全員、急いでいるのに走らない。走ると余計なものが増える場所なのだと、見ているだけで分かった。


ローデリックは先頭を歩いていた。今日も長衣は黒に近い灰で、飾りは少ない。治療棟に入っても、その地味さは変わらない。むしろここでは、ああいう色の方が目立たなかった。目立つのは白衣と血と湯気だからだ。


---


最初の部屋を通り過ぎる。寝台が六つ。軽い熱と擦り傷の患者。見習い神官が同じ言葉を繰り返していた。


「息を整えて。水はここ。熱は落ちる。焦らないで」


祈りではない。

だが、ただの会話でもなかった。繰り返しの調子が一定だ。声をかける順番も同じ。誰かを落ち着かせるための手順が、もう身体に入っている声だった。


「ここでは、まず声を覚えなさい」


とローデリックが言った。


「読むのはそのあとだ」


リリエルは少しだけ顔を上げた。


「紙じゃなくて?」


「紙は逃げない。人は逃げる」


治療棟に似合う言い方だった。きれいではない。でも正しい。


---


二つ目の部屋は空気が違った。熱い。湿っている。寝台の数も多い。ここは急ぎの患者が入る部屋らしい。床際に水の桶。壁際に細い灯柱。寝台の頭側には、どれも同じ位置に短い祈り札が差してある。


神官が一人、子どもの手を握っていた。八つか九つ。顔が赤い。熱だけではない。怯えている顔だった。


「お母さんは」


と子どもが言う。


「外にいる」


と神官。


「泣いてる?」


「泣いてない」


「うそだ」


「少しだけ泣いた」


そこで、子どもが少しだけ笑った。神官も笑わない。ただ声の高さだけを、ひとつぶん落とす。


「だからお前は息をしろ。ここはそのための部屋だ」


横で見習いが湯を替える。別の見習いが札を確かめる。さらに向こうでは、傷口を洗っている音がする。


祈りの場所、というより、壊れたものを少しでも朝まで持たせる場所だった。


---


三つ目の部屋は、傷の匂いが濃かった。


扉をくぐった瞬間、リリエルの視線が寝台の脚の怪我より先に、灯柱と床線へ行った。


ローデリックがそれを見ていた。


若い男が寝台の上で唸っている。脚だ。膝から下が黒ずみ、巻かれた布の端がもう濡れている。作業場か、荷の崩れか。王都にはそういう怪我も多いのだろう。


男の脇に、女が一人立っていた。妻か姉かは分からない。両手を組んで、何もしないように必死で立っている人の立ち方だった。


神官が三人いる。一人は傷口。一人は灯柱。一人は女のそば。


そばの神官は、ずっと同じ短い文を繰り返していた。


「切らない。まだ切らない。今は落とす。熱を落とす。流れを戻す」


祈りではない。だが、祈りの形をしている。そうすると、女はその言葉にしがみつける。何も分からないまま待つより、ずっといい。


リリエルは寝台の足元の床を見た。細い白線が三本。導流溝に近い。だが王都技術部の床線より粗い。後から足したのかもしれない。灯柱の流れと、床線と、寝台の札がひとまとまりになっている。


「見ているわね」


とイリスが言う。


「うん」


「何に見えるの」


「ここは、ちゃんと使ってる」


イリスは少しだけ目を細めた。


「封書庫の聖遺物みたいに、眠ってるものではないってこと?」


「そう。止まってない。人が毎日、使えるところまで持ってってる」


その返事に、イリスは小さく頷いた。否定でも肯定でもない。だが、聞き捨てはしなかった。


ローデリックが立ち止まる。


「中へ入る」


扉の前で、母が小さく言った。


「血は」


「問題ない」


とリリエル。


「昨日の鏡よりは平気」


カイルが横から低く言う。


「比較対象が嫌ですね」


「嫌なものばっかり比べるようになったね」


「この二日でだいぶ増えました」


その返しが少しだけいつも通りで、緊張が一枚だけ薄くなる。


---


神官の一人が、傷へ手をかざした。今度の詠唱はローデリックよりずっと短い。けれど見習いのものよりは長い。温度。止血。鎮静。固定。必要なものだけを細く束ねた詠唱だった。


傷口の黒ずみが、少しだけ境目を持つ。全部は戻らない。だが、崩れる速度が遅くなる。


女が小さく息を吐いた。


その息を聞いて、リリエルは少しだけ喉の奥が冷えた。


これだ、と思った。


仕組みがある。手順がある。古い系統が下にある。


でも、それだけじゃない。


この女がいま掴んでいるのは、術式の理屈じゃない。「まだ切らない」「今は落とす」「流れを戻す」という言葉だ。分からないまま待つ時間に、手を置くための言葉だ。


ここを紙の上だけに直したら、何かが抜ける。


ローデリックが振り返らずに言う。


「何を見た」


問いは短い。昨日と同じだ。


リリエルは少しだけ考えた。


「手順」


「その先は」


「待つための形」


ローデリックが初めてこちらを見た。


「形?」


「うん。理屈が分からなくても、待ってる間に崩れないための」


昨日の神託文みたいに、言葉の骨だけを抜いてしまえば、ここはもっと速くなるかもしれない。でもそれだけだと、この女はどこに手を置けばいいか分からなくなる。


「祈りの言葉が、全部ごまかしじゃないのは分かった」


リリエルは寝台の脇の女を見たまま言った。


「隠してるものもあるけど、それだけじゃない」


イリスが小さく息を吐く。昨日の封書庫では聞かなかった種類の息だった。


「そう。そこを飛ばして“全部記録だ”と言われるのが、一番困るの」


「言わないよ」


とリリエル。


「もう」


その二文字で、昨日より少しだけ距離が縮んだ気がした。


---


部屋の奥で、別の寝台が騒がしくなる。


若い見習いが「湯!」と叫ぶ。別の見習いが走る。小走りではない。必要な速さだけの走り方だ。神官の一人が札を差し替える。灯柱の白が一度だけ揺れる。


その瞬間、奥の仕切り扉が開いた。


入ってきたのは、鎧の男だった。


神殿騎士、と見れば分かる。だが礼拝区の飾り騎士ではない。銀ではなく鈍い灰。磨かれているのに光りすぎない鎧。外套は短い。動くための人間の装備だ。


年は若い。二十代前半くらいか。背は高い。肩も広い。顔立ちは整っているが、愛想のある整い方ではない。まず最初に見るのは人の顔ではなく、出入り口と床と、危ないものの位置だという顔だった。


彼は部屋へ入るなり、状況を一度で見た。騒いでいる寝台。走る見習い。札を差し替える神官。立ち尽くした家族。そして、見慣れない顔――リリエルたち。


最後のそれで、目が少しだけ止まる。


「外部の見学か」


声は低かった。嫌ってはいない。だが歓迎もしていない。必要な確認だけを先に通す声だった。


「封書庫案件」


とイリス。


「ローデリック卿立ち会い」


「そうか」


それで、その男の視線はもうリリエルたちから外れた。いま優先すべきではないと判断したものを、一瞬で棚上げする目だった。


彼は騒いでいる寝台へまっすぐ歩く。女の肩へ手を置き、立つ位置を半歩だけずらす。


「ここにいろ」


短い。それだけで、女は少しだけ楽になった顔をした。


リリエルはそれを見た。


この人も、祈りではない。

でも、待つ形を知っている。


---


ローデリックが、昨日までの封書庫にはなかった少しだけ乾いた声で言う。


「シオン」


男は振り向かないまま返す。


「はい」


「今日は見せる日だ」


「見学なら邪魔をさせないでください」


ぶっきらぼうだった。だがローデリックは怒らない。イリスも口を挟まない。


神殿騎士シオン。その名前だけが、リリエルの中に残る。


見せる日。

邪魔をさせない。

待つ形。

支える手。


シオンはようやく一度だけこちらを見た。視線は短い。だが鋭い。


「その子、近づけすぎるな」


誰に向けた言葉か、一瞬分からなかった。イリスか。ローデリックか。それとも母か。


「何に」


とイリス。


「灯柱にも、札にも、起きかけのものにも」


シオンは男の傷口を見たまま言った。


「見れば分かる顔をしてる」


部屋が一拍だけ静まった。


言い返しかけた言葉を、リリエルは飲み込んだ。腹が立たないわけではない。でも、間違ってはいないとも分かるからだ。


ローデリックの口元が、ほんの少しだけ動く。


「そういう顔をしているか」


「しています」


とシオン。


「はっきりと」


その返しが、ひどく真顔だったので、リリエルは少しだけ息を詰めた。


カイルが横で小さく咳払いをする。たぶん笑いそうになったのだ。


イリスが低く言う。


「覚えておくわ」


「そうしてくれ」


シオンはそれで終えた。注意のための言葉で、それ以上ではない。


---


だがその一言で、治療棟の空気がもう一段だけ現実に寄った。


神託文の下に事務文がある。聖遺物は中継ノードかもしれない。王都高位魔法は古くて重い。それは全部本当だろう。


でも、ここでは怪我人が痛がる。家族が立ち尽くす。湯が足りなくなる。札を差し替える手がいる。立つ位置を半歩ずらす人がいる。


神殿の祈りは、その全部の上にかぶさっている。ごまかしのためだけではなく、崩れないための形として。


---


ローデリックが言う。


「今日はここまでだ」


意外なくらい短かった。


「もう?」


とリリエル。


「十分見た」


「どこを」


「お前が、どこで読み違えるかを」


それは嫌な言い方だった。でも、たぶん正しい嫌さだった。


ローデリックは続ける。


「読める。だが、ここを落とすなら使えん」


その言い方は、昨日より少しだけ重かった。


リリエルは頷いた。


「分かった」


「まだ全部ではないだろう」


「うん」


「それでいい」


ローデリックはそれ以上言わない。イリスも、今日は補足しなかった。


---


部屋を出る前に、リリエルはもう一度だけ振り向いた。


神官はまだ同じ言葉を繰り返している。見習いは湯を替えている。女はさっきより少しだけ立っている。シオンは灯柱の下で、何かが倒れないようにただそこにいる。


母はノートに何かを書いていた。リリエルが覗くと、数字でも手順でもなかった。


先に置く言葉

立たせる位置

待機中の手


リリエルが言ったことを、母は母のやり方で残していた。


祈りは、仕組みを隠す。でも、隠すだけではない。


たぶん、支えてもいる。


その二つを切り分けずに持ったまま進むのが、ここから先の読み方なのだと、少しだけ分かった気がした。


---


廊下へ出ると、治療棟の匂いがまだ服に残っていた。


カイルが小さく言う。


「今日はだいぶ静かですね」


「何が」


とリリエル。


「言い返さなかったので」


「言い返すところじゃなかったから」


「成長ですか」


「ちがう」


少し考えてから、リリエルは言い直した。


「たぶん、まだ途中だから」


ローデリックは前を歩いている。イリスはその半歩後ろ。母は何も言わず、もうノートを閉じている。


神殿の奥は、祈りの形をしている。その下にあるものだけを読むには、まだ早い。


廊下の先で、さっきの治療室とは別の方角から、短い悲鳴が上がった。


誰かが走る音。

何かが倒れる音。


シオンの足が、音より先に動いていた。


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