表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

37/56

聖遺物管理官イリス


王都へ入る時、リリエルはもう壁を見上げなかった。


六年前は「うわ」で足りた。

今は足りない。足りなくなったというより、その先に見るものが増えた。


門の内側の人の流れ。

荷車の寄せ方。

役人の札の色。

灯りの柱の並び。

遠くの中継塔の輪の向き。


王都は大きい。

その感想は変わらない。

ただ、大きいだけで終わらなくなった。


「見ない方がいいです」


とカイルが言った。


「何を」


「塔です」


「まだ見てない」


「見ようとする顔をしていました」


その返しが少しだけいつも通りで、リリエルは息を吐いた。


---


神殿からの封書を受け取ってから四日。

準備の三日は短かった。


父は出立の朝も領地の顔をしていた。けれど荷車に記録箱が載るところまでは自分で見た。母は持ち込む紙を最後まで削った。ノアとミナは留守中の棚を整えきった。念話石は、同行用の一組だけを布箱へ入れた。短語限定。緊急時のみ。神殿の奥で勝手に開かないよう、封じ札まで重ねた。


「帰ってきた時に棚の並びが違ってたら怒るからね」


とミナが言い、


「それ、わたしの台詞では?」


とノアが返した。


父は最後に一度だけ言った。


「面白くなっても、勝手に潜るな」


「それ、誰に言ってるの」


「お前と、お前の隣にいる若いのだ」


カイルが珍しく、少しだけ目を逸らした。


そのあと王都までの道は、あまり話にならなかった。

急いだわけではない。

ただ、話すより先に考えることが多かったのだ。


---


そして今、三人は王都神殿の東書庫門の前に立っていた。


技術部の白い建物とは空気が違う。


高い。

静か。

石が古い。

だが古いだけではない。新しい石と古い石が何層かで継ぎ足され、そのどれもが「古くからここにありました」という顔をしている。そういう建て方だった。


門の左右に立つ神官は、槍を持っていない。代わりに細い杖を持っていた。飾りではない、とリリエルは思った。長さも重心も、持ち方も、殴るための杖だった。


「アストラ工房の一行です」


母が封書を差し出す。


東書庫門の神官は封を確かめ、中の札を見てから、余計な敬意も敵意もない声で言った。


「お待ちしておりました」


待っていた、という言い方は普通だ。

だが、その普通さが少し嫌だった。歓迎ではなく、予定されていたものを予定通り受け取る声だったからだ。


門が開く。


中は薄暗い。礼拝堂の華やかな明るさではない。通路の灯りは低く、白く、必要なところだけを照らしていた。


石の床は、外の王都の石畳よりずっと滑らかだった。磨かれているのに、冷たい。壁際には古い書架が並び、ところどころに鍵付きの扉がある。扉ごとに刻印が違う。輪。枝。塔。滴のような印。見たことのない分類なのに、どれも機能で分けている形に見えた。


「止まらないでください」


先導の神官が言う。


「ここは祈りのための通路ではなく、保管区への導線ですので」


その言い方に、リリエルは少しだけ顔を上げた。


祈りのためではない。


神殿の人間が、自分でそう区切るのか。

意外というより、少しだけ安心する言い方だった。


---


二つ目の角を曲がったところで、人が待っていた。


女だった。


年はセレナより少し上だろうか。背は高くない。痩せている。色の薄い髪をひとつにまとめ、灰青の上着の上へ神殿の白衣を羽織っている。祈りの人というより、紙と鍵と記録で生きている人の空気だった。


目が細い。だが冷たいというより、物の傷を見逃さない目だとリリエルは思った。


「聖遺物管理官イリスです」


女はそれだけ言った。


「リリエル・アストラ」


「はい」


「セレナ・アストラ。記録担当」


「ええ」


「カイル・ベルナール。技術部側読み」


「はい」


名前を確認する口調に無駄がない。

この人は、人を見る前にまず配置を見ている、とリリエルは思った。


イリスは三人を順に見てから、最後にリリエルの布箱へ目を落とした。


「持ち込みは記録箱、測定具、念話石一組、封じ札、補助筆記具」


「確認済みです」


と母。


「それ以上は」


「持っていません」


イリスは頷いた。


「結構。祈祷塔側の人間なら、ここでまず文句を言いますが、私は物が増えなければそれで構いません」


「神殿の人も、そんな言い方をするんだね」


とリリエルが言うと、イリスの目だけが少し動いた。


「神殿の人間も、物が増えると困るの」


それだけ言って、踵を返す。


工房の棚を守る時の声に少し似ていた。

だからこそ、たぶん油断してはいけない相手だとリリエルは思った。


---


通されたのは、礼拝区でも応接間でもなかった。


細長い室。

高い天井。

壁一面の棚。

棚の中は、写本と箱と、封じられた何かで埋まっている。


そして、部屋の中央に長机が一つ。


王都技術部の白い机とは違った。もっと古い木だ。傷がある。だが置き方が正確すぎる。机の中央線と灯りの位置、椅子の間隔、筆記具の角度まで、誰かが何年もかけて一度も狂わせなかったみたいに揃っていた。


「座って」


とイリス。


「ただし、勝手に棚を見ないで。見てもいい棚と、見てはいけない棚の区別は、あなたにはまだつかないでしょうから」


「見たら分かるものもあるよ」


とリリエル。


「分かるものほど、先に触らない方がいいわ」


イリスは即答した。


そこでカイルが、ほんの少しだけ口元を動かした。笑いそうになったのだと分かる。たぶん今の返しは、この人にも少し刺さった。


---


「あなたがイリス管理官か」


母が言う。


「ええ」


「封書庫上層保管群、というのは」


「名前の通りです。祈りより前に、残すことを優先する区画」


「信仰より?」


「壊れたら信仰も何もなくなるでしょう」


その言い方は平坦だった。

けれど、平坦なまま神殿の中でそこまで言える人間は、たぶん多くない。


リリエルは部屋を見回した。


棚。箱。札。封じ紐。古い金具。鍵穴。

そして、部屋の奥、机の向こうの壁に、細長い台が置かれていた。


上に何かが三つ、並んでいる。


鏡のようなもの。

鈴のようなもの。

石板のようなもの。


どれも飾りには見えない。供えられているのではなく、置かれている。待機している。そういう顔をしていた。


視線がそこへ行った瞬間、胸の奥が小さく軋む。


知っている単語と、まだ曖昧な単語が混じる。


端末。

それは丘で見た。

中継。

それも聞いた。

認証。

意味はまだ曖昧なのに、指先だけが嫌に覚えている。


「見てるわね」


とイリス。


「見えるから」


とリリエル。


「何に見えるの」


仕分けているだけだ。信じるものと、まだ信じないものを。

リリエルにはその声がそう聞こえた。


少しだけ考えた。きれいな言葉に直すと、たぶんズレる。


「祈りの道具じゃなくて」


「ええ」


「もっと……用途が狭いもの。決まった時だけ使うもの」


イリスの目が、そこで初めて少しだけ細くなった。


「誰にそう教わったの」


「教わってないよ」


「なら、なぜそう思うの」


「置かれ方がそうだから」


部屋が少し静かになった。


母は口を挟まない。母はノートを膝の上に置いたまま、台の上の紐の結び目を見ていた。結び方に年代が出ることを知っている目だった。


カイルも動かない。こういう時、二人は余計な助けを出さない。自分で置いた言葉が、自分で立つかどうかを見る。


イリスはリリエルを見たまま言った。


「面倒な子ね」


「よく言われる」


「でしょうね」


少し間があった。


「でも、祈りの道具ではない、は半分だけ正しい」


イリスは奥の台へ歩いた。鏡型のものの脇に指を置き、しかし触れずに止める。


「祈りに使われてきたのは本当よ。ただし、最初からそのために作られたかは別」


その言い方に、胸の奥の何かが少しだけ近づいた。


最初から。

作られた。

別。


言葉が、きれいに重なる。


リリエルが一歩だけ前へ出る。

その瞬間、視界の奥に白い文字がふっと浮いた。


短い。昔より、少しだけ読める。


> `TEMPLE RELAY NODE`

> `LOW POWER STANDBY`


息が止まる。


鏡のような聖遺物は、何も光っていない。部屋の誰も反応していない。見えているのは、たぶん自分だけだ。


「どうしたの」


と母。


リリエルは答えず、鏡型のものを見たまま言った。


「……待機してる」


イリスが初めて、はっきり止まった。


「何が」


「これ」


リリエルは鏡を指さした。


「眠ってるけど、死んでない」


カイルの顔色が一段変わる。この人は、そういう時だけ眉のあたりが少しだけ硬くなる。


イリスは鏡の脇に置いた指を、ようやく引いた。


「面白くないわね」


「そう?」


「ええ。封書庫上層の中でも、その鏡は十五年、誰にも応えなかったから」


その一言で、部屋の空気が変わった。


十五年。


長い。

その長さは、祈りの沈黙というより、装置の待機時間の長さに近く聞こえた。


「触らせろ、とは言わないで」


とイリス。


「まだ」


最後の二文字だけが、少し重かった。


まだ。つまり、いずれはあり得る、ということだ。


---


リリエルは鏡から目を離さなかった。白い文字はもう消えている。だが感覚だけが残っている。あの丘の祠とも、王都の白い机とも違う、もっと高いところに繋がる薄い返りだった。


イリスは机へ戻った。


「話を進めるわ」


その声は、最初より少しだけ硬かった。


「あなたをここへ呼んだ理由は二つ。ひとつは、技術部提出記録の中に、封書庫保管聖遺物と一致する反応系が含まれていたこと」


「念話石?」


とカイル。


「だけではない」


イリスは即答する。


「記録の書き方。停止手順。用途限定。組み合わせの固定。技術部は成果を見ていたけれど、こちらは系統を見ていた」


カイルの指先が、膝の上で一度だけ動いた。何かを書き留めたい手つきだった。


リリエルは少しだけ背筋を伸ばした。


成果ではなく、系統。

それは技術部より一段奥の見方だった。


「もうひとつは?」


と母。


イリスは机の上に、薄い紙束を一つ置いた。


古い写本だった。紙が違う。匂いが違う。保存のされ方が違う。表紙の端に、読めない古い印。


「再読してもらうため」


「神託文?」


とリリエル。


「ええ」


イリスは頷く。


「ただし、最初に言っておく。ここにあるものは、信仰を壊すための紙ではない」


「壊すつもりもないよ」


「そう言う人間ほど、平気で土台を剥がすの」


その返しは少し刺々しかった。

だがこの人は守る側の言葉で刺してくる。そこに嘘が少ない。


イリスは写本の紐を解いた。


「あなたが読むのは、まず外縁写しだけ。本原本はまだ見せない」


「まだ、なんだ」


とリリエル。


「ええ。あなたはまだ入口に立っただけだから」


その言葉のあとで、部屋の奥の鏡が、かすかに音を立てた。


ちり、とも違う。

乾いた、浅い、何かが内部で擦れる音。


全員がそちらを見る。


灯りは変わらない。

何も起きていないように見える。


だが、リリエルの視界の奥にはもう白い文字が落ちていた。


> `ARCHIVE LINK AVAILABLE`


息が止まる。


入口じゃない。

もう向こうは、こちらを入口として見ている。


イリスが反射的に一歩前へ出た。


「門を閉じて」


短い命令だった。


先導の神官がすぐ動く。

背後の扉が閉まる音が、細長い室の空気をさらに硬くした。


カイルの手が、無意識に布箱へ伸びる。念話石の封じ札を確かめるだけ確かめて、そこで止まる。

母はノートではなく、鏡そのものを見ていた。書くより先に、今は位置と沈黙を覚える目だった。


イリスは鏡を見たまま、小さく言った。


「……最悪」


「最悪なんだ」


とリリエル。


「ええ。十五年黙っていたものが、あなたが部屋に入って数分で動いたから」


言いながら、イリスはもう次の手順を考えている顔をしていた。

この人もまた、動揺より先に保全へ行く人間だった。


その顔を見て、リリエルは少しだけ安心した。


神殿は、ただ祈るだけの場所ではない。少なくとも、この部屋は違う。ここには、残す人間がいる。壊れないように、沈黙ごと抱えてきた人間が。


それが分かっただけで、この場所は少しだけ怖くなくなった。少しだけ、だが。


---


イリスは写本を机の中央へ置いた。


「座って、リリエル・アストラ」


声は静かだった。けれど、その静けさの下には、もう最初の仕分けるだけの温度はない。


「あなたに見てもらう。神託文の中に、こちらがずっと読めなかったものがある」


部屋の奥の鏡は、もう一度だけ小さく鳴った。


リリエルは椅子へ腰を下ろした。


技術部の白い机は、順番を見せた。

神殿の奥の机は、順番のもっと前にあるものを掘り起こそうとしていた。


次の段階は、やはりここから始まるのだと思った。


イリスが写本を開く。


古い紙の最初の一行が、机の上へ現れる。


祈りの文句のはずだった。


けれど、リリエルの目には、その末尾のたった一語だけが先に立った。


`ARCHIVE`


そこで、心臓が強く跳ねた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ