聖遺物管理官イリス
王都へ入る時、リリエルはもう壁を見上げなかった。
六年前は「うわ」で足りた。
今は足りない。足りなくなったというより、その先に見るものが増えた。
門の内側の人の流れ。
荷車の寄せ方。
役人の札の色。
灯りの柱の並び。
遠くの中継塔の輪の向き。
王都は大きい。
その感想は変わらない。
ただ、大きいだけで終わらなくなった。
「見ない方がいいです」
とカイルが言った。
「何を」
「塔です」
「まだ見てない」
「見ようとする顔をしていました」
その返しが少しだけいつも通りで、リリエルは息を吐いた。
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神殿からの封書を受け取ってから四日。
準備の三日は短かった。
父は出立の朝も領地の顔をしていた。けれど荷車に記録箱が載るところまでは自分で見た。母は持ち込む紙を最後まで削った。ノアとミナは留守中の棚を整えきった。念話石は、同行用の一組だけを布箱へ入れた。短語限定。緊急時のみ。神殿の奥で勝手に開かないよう、封じ札まで重ねた。
「帰ってきた時に棚の並びが違ってたら怒るからね」
とミナが言い、
「それ、わたしの台詞では?」
とノアが返した。
父は最後に一度だけ言った。
「面白くなっても、勝手に潜るな」
「それ、誰に言ってるの」
「お前と、お前の隣にいる若いのだ」
カイルが珍しく、少しだけ目を逸らした。
そのあと王都までの道は、あまり話にならなかった。
急いだわけではない。
ただ、話すより先に考えることが多かったのだ。
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そして今、三人は王都神殿の東書庫門の前に立っていた。
技術部の白い建物とは空気が違う。
高い。
静か。
石が古い。
だが古いだけではない。新しい石と古い石が何層かで継ぎ足され、そのどれもが「古くからここにありました」という顔をしている。そういう建て方だった。
門の左右に立つ神官は、槍を持っていない。代わりに細い杖を持っていた。飾りではない、とリリエルは思った。長さも重心も、持ち方も、殴るための杖だった。
「アストラ工房の一行です」
母が封書を差し出す。
東書庫門の神官は封を確かめ、中の札を見てから、余計な敬意も敵意もない声で言った。
「お待ちしておりました」
待っていた、という言い方は普通だ。
だが、その普通さが少し嫌だった。歓迎ではなく、予定されていたものを予定通り受け取る声だったからだ。
門が開く。
中は薄暗い。礼拝堂の華やかな明るさではない。通路の灯りは低く、白く、必要なところだけを照らしていた。
石の床は、外の王都の石畳よりずっと滑らかだった。磨かれているのに、冷たい。壁際には古い書架が並び、ところどころに鍵付きの扉がある。扉ごとに刻印が違う。輪。枝。塔。滴のような印。見たことのない分類なのに、どれも機能で分けている形に見えた。
「止まらないでください」
先導の神官が言う。
「ここは祈りのための通路ではなく、保管区への導線ですので」
その言い方に、リリエルは少しだけ顔を上げた。
祈りのためではない。
神殿の人間が、自分でそう区切るのか。
意外というより、少しだけ安心する言い方だった。
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二つ目の角を曲がったところで、人が待っていた。
女だった。
年はセレナより少し上だろうか。背は高くない。痩せている。色の薄い髪をひとつにまとめ、灰青の上着の上へ神殿の白衣を羽織っている。祈りの人というより、紙と鍵と記録で生きている人の空気だった。
目が細い。だが冷たいというより、物の傷を見逃さない目だとリリエルは思った。
「聖遺物管理官イリスです」
女はそれだけ言った。
「リリエル・アストラ」
「はい」
「セレナ・アストラ。記録担当」
「ええ」
「カイル・ベルナール。技術部側読み」
「はい」
名前を確認する口調に無駄がない。
この人は、人を見る前にまず配置を見ている、とリリエルは思った。
イリスは三人を順に見てから、最後にリリエルの布箱へ目を落とした。
「持ち込みは記録箱、測定具、念話石一組、封じ札、補助筆記具」
「確認済みです」
と母。
「それ以上は」
「持っていません」
イリスは頷いた。
「結構。祈祷塔側の人間なら、ここでまず文句を言いますが、私は物が増えなければそれで構いません」
「神殿の人も、そんな言い方をするんだね」
とリリエルが言うと、イリスの目だけが少し動いた。
「神殿の人間も、物が増えると困るの」
それだけ言って、踵を返す。
工房の棚を守る時の声に少し似ていた。
だからこそ、たぶん油断してはいけない相手だとリリエルは思った。
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通されたのは、礼拝区でも応接間でもなかった。
細長い室。
高い天井。
壁一面の棚。
棚の中は、写本と箱と、封じられた何かで埋まっている。
そして、部屋の中央に長机が一つ。
王都技術部の白い机とは違った。もっと古い木だ。傷がある。だが置き方が正確すぎる。机の中央線と灯りの位置、椅子の間隔、筆記具の角度まで、誰かが何年もかけて一度も狂わせなかったみたいに揃っていた。
「座って」
とイリス。
「ただし、勝手に棚を見ないで。見てもいい棚と、見てはいけない棚の区別は、あなたにはまだつかないでしょうから」
「見たら分かるものもあるよ」
とリリエル。
「分かるものほど、先に触らない方がいいわ」
イリスは即答した。
そこでカイルが、ほんの少しだけ口元を動かした。笑いそうになったのだと分かる。たぶん今の返しは、この人にも少し刺さった。
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「あなたがイリス管理官か」
母が言う。
「ええ」
「封書庫上層保管群、というのは」
「名前の通りです。祈りより前に、残すことを優先する区画」
「信仰より?」
「壊れたら信仰も何もなくなるでしょう」
その言い方は平坦だった。
けれど、平坦なまま神殿の中でそこまで言える人間は、たぶん多くない。
リリエルは部屋を見回した。
棚。箱。札。封じ紐。古い金具。鍵穴。
そして、部屋の奥、机の向こうの壁に、細長い台が置かれていた。
上に何かが三つ、並んでいる。
鏡のようなもの。
鈴のようなもの。
石板のようなもの。
どれも飾りには見えない。供えられているのではなく、置かれている。待機している。そういう顔をしていた。
視線がそこへ行った瞬間、胸の奥が小さく軋む。
知っている単語と、まだ曖昧な単語が混じる。
端末。
それは丘で見た。
中継。
それも聞いた。
認証。
意味はまだ曖昧なのに、指先だけが嫌に覚えている。
「見てるわね」
とイリス。
「見えるから」
とリリエル。
「何に見えるの」
仕分けているだけだ。信じるものと、まだ信じないものを。
リリエルにはその声がそう聞こえた。
少しだけ考えた。きれいな言葉に直すと、たぶんズレる。
「祈りの道具じゃなくて」
「ええ」
「もっと……用途が狭いもの。決まった時だけ使うもの」
イリスの目が、そこで初めて少しだけ細くなった。
「誰にそう教わったの」
「教わってないよ」
「なら、なぜそう思うの」
「置かれ方がそうだから」
部屋が少し静かになった。
母は口を挟まない。母はノートを膝の上に置いたまま、台の上の紐の結び目を見ていた。結び方に年代が出ることを知っている目だった。
カイルも動かない。こういう時、二人は余計な助けを出さない。自分で置いた言葉が、自分で立つかどうかを見る。
イリスはリリエルを見たまま言った。
「面倒な子ね」
「よく言われる」
「でしょうね」
少し間があった。
「でも、祈りの道具ではない、は半分だけ正しい」
イリスは奥の台へ歩いた。鏡型のものの脇に指を置き、しかし触れずに止める。
「祈りに使われてきたのは本当よ。ただし、最初からそのために作られたかは別」
その言い方に、胸の奥の何かが少しだけ近づいた。
最初から。
作られた。
別。
言葉が、きれいに重なる。
リリエルが一歩だけ前へ出る。
その瞬間、視界の奥に白い文字がふっと浮いた。
短い。昔より、少しだけ読める。
> `TEMPLE RELAY NODE`
> `LOW POWER STANDBY`
息が止まる。
鏡のような聖遺物は、何も光っていない。部屋の誰も反応していない。見えているのは、たぶん自分だけだ。
「どうしたの」
と母。
リリエルは答えず、鏡型のものを見たまま言った。
「……待機してる」
イリスが初めて、はっきり止まった。
「何が」
「これ」
リリエルは鏡を指さした。
「眠ってるけど、死んでない」
カイルの顔色が一段変わる。この人は、そういう時だけ眉のあたりが少しだけ硬くなる。
イリスは鏡の脇に置いた指を、ようやく引いた。
「面白くないわね」
「そう?」
「ええ。封書庫上層の中でも、その鏡は十五年、誰にも応えなかったから」
その一言で、部屋の空気が変わった。
十五年。
長い。
その長さは、祈りの沈黙というより、装置の待機時間の長さに近く聞こえた。
「触らせろ、とは言わないで」
とイリス。
「まだ」
最後の二文字だけが、少し重かった。
まだ。つまり、いずれはあり得る、ということだ。
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リリエルは鏡から目を離さなかった。白い文字はもう消えている。だが感覚だけが残っている。あの丘の祠とも、王都の白い机とも違う、もっと高いところに繋がる薄い返りだった。
イリスは机へ戻った。
「話を進めるわ」
その声は、最初より少しだけ硬かった。
「あなたをここへ呼んだ理由は二つ。ひとつは、技術部提出記録の中に、封書庫保管聖遺物と一致する反応系が含まれていたこと」
「念話石?」
とカイル。
「だけではない」
イリスは即答する。
「記録の書き方。停止手順。用途限定。組み合わせの固定。技術部は成果を見ていたけれど、こちらは系統を見ていた」
カイルの指先が、膝の上で一度だけ動いた。何かを書き留めたい手つきだった。
リリエルは少しだけ背筋を伸ばした。
成果ではなく、系統。
それは技術部より一段奥の見方だった。
「もうひとつは?」
と母。
イリスは机の上に、薄い紙束を一つ置いた。
古い写本だった。紙が違う。匂いが違う。保存のされ方が違う。表紙の端に、読めない古い印。
「再読してもらうため」
「神託文?」
とリリエル。
「ええ」
イリスは頷く。
「ただし、最初に言っておく。ここにあるものは、信仰を壊すための紙ではない」
「壊すつもりもないよ」
「そう言う人間ほど、平気で土台を剥がすの」
その返しは少し刺々しかった。
だがこの人は守る側の言葉で刺してくる。そこに嘘が少ない。
イリスは写本の紐を解いた。
「あなたが読むのは、まず外縁写しだけ。本原本はまだ見せない」
「まだ、なんだ」
とリリエル。
「ええ。あなたはまだ入口に立っただけだから」
その言葉のあとで、部屋の奥の鏡が、かすかに音を立てた。
ちり、とも違う。
乾いた、浅い、何かが内部で擦れる音。
全員がそちらを見る。
灯りは変わらない。
何も起きていないように見える。
だが、リリエルの視界の奥にはもう白い文字が落ちていた。
> `ARCHIVE LINK AVAILABLE`
息が止まる。
入口じゃない。
もう向こうは、こちらを入口として見ている。
イリスが反射的に一歩前へ出た。
「門を閉じて」
短い命令だった。
先導の神官がすぐ動く。
背後の扉が閉まる音が、細長い室の空気をさらに硬くした。
カイルの手が、無意識に布箱へ伸びる。念話石の封じ札を確かめるだけ確かめて、そこで止まる。
母はノートではなく、鏡そのものを見ていた。書くより先に、今は位置と沈黙を覚える目だった。
イリスは鏡を見たまま、小さく言った。
「……最悪」
「最悪なんだ」
とリリエル。
「ええ。十五年黙っていたものが、あなたが部屋に入って数分で動いたから」
言いながら、イリスはもう次の手順を考えている顔をしていた。
この人もまた、動揺より先に保全へ行く人間だった。
その顔を見て、リリエルは少しだけ安心した。
神殿は、ただ祈るだけの場所ではない。少なくとも、この部屋は違う。ここには、残す人間がいる。壊れないように、沈黙ごと抱えてきた人間が。
それが分かっただけで、この場所は少しだけ怖くなくなった。少しだけ、だが。
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イリスは写本を机の中央へ置いた。
「座って、リリエル・アストラ」
声は静かだった。けれど、その静けさの下には、もう最初の仕分けるだけの温度はない。
「あなたに見てもらう。神託文の中に、こちらがずっと読めなかったものがある」
部屋の奥の鏡は、もう一度だけ小さく鳴った。
リリエルは椅子へ腰を下ろした。
技術部の白い机は、順番を見せた。
神殿の奥の机は、順番のもっと前にあるものを掘り起こそうとしていた。
次の段階は、やはりここから始まるのだと思った。
イリスが写本を開く。
古い紙の最初の一行が、机の上へ現れる。
祈りの文句のはずだった。
けれど、リリエルの目には、その末尾のたった一語だけが先に立った。
`ARCHIVE`
そこで、心臓が強く跳ねた。




