32話 追跡者
まるでこの世界には自分たちしかいないのではないか――そんな錯覚を抱かせるほど、不気味な静寂に包まれた渡り廊下。足元のガラス一枚隔てた先には、青黒い毒の海が渦巻いている。そこを渡りきり、ミーヴェルたちはようやく反対側のタワーへと足を踏み入れた。
重い扉をこじ開けた先は、かつての会議室フロアだった。
整然と並んでいたはずの長机や椅子は、内側から突き破るように生えた結晶によって無残に破壊され、見る影もない。壁にはかつての企業のロゴだろうか、剥げかかったエンブレムが虚しく残されていた。
そんな死んだ部屋の奥から、突如としてその声は響いた。
『ナンデ!――ナンデ!―――ナー!! アアアア!!!』
絶叫に近い、だがどこか機械的で不自然な「人間の声」。ミーヴェルは反射的に腰の剣を引き抜き、暗がりに目を凝らす。
『ミーヴェル、注意セヨ。対象、接近中』
「アイ、解析を頼む!」
アイのレンズが赤く発光し、異形の輪郭を捉える。そこにいたのは、かつてこのビルにいた人間を模したような、だが全身が結晶化した筋肉と配線で構築されたナノヘイズの怪物だった。他種族の言語を真似て獲物を誘い出し、魔力を根こそぎ奪い取る知能を持ったヘイズ生命体。
――ヘイズ・コレクターの一種。
『データ照合完了。……コノ個体、物理攻撃有効。胸部ノ結晶塊内部ニ存在、恐ラク弱点』
「……物理が通るなら、話は早い!」
ミーヴェルはルナを庇うように一歩前へ出ると、青い光を放つ怪物へ向けて地を蹴った。
距離を一気に詰める。コレクターが耳障りなノイズを発しながら、鋭利な結晶の腕を振り下ろしてきた。
「遅ぇよ」
身を低くしてその凶刃を紙一重で潜り抜ける。そして、すれ違いざま――アイの助言通り、怪物の無防備な胸部へと刃を滑り込ませた。硬質な結晶を砕く感触と共に、剣がコアを深々と貫く。
『アッ――アアアアア!!!!!!!!』
鼓膜を破るほどの断末魔を上げ、コレクターの身体にヒビが入る。次の瞬間、奴は青い光の粒子となって空中に揮散していった。
『マズイ。周辺ノ「エコー」及ビ「コレクター」ト思ワシキ反応ガ、一斉ニ強イ反応ヲ示シタ』
その報告を聞いた瞬間、ミーヴェルはクルリと踵を返した。
「よし! 帰ろう!」
「ぴ!」
即答だった。
ミーヴェルは安定を求める男である。危険は嫌い、何事も安全第一。ここまで苦労して登ってきておきながら、やばいとわかれば一秒も迷わず「帰ろう」と言い切れる潔さは、ある意味で才能だった。ルナも全力で同意している。
だが、非情なアイの言葉が、彼に苦虫を噛み潰させた。
『ザンネンナガラ無理ダ。下層階カラモ無数ノ反応ガ接近中。退路ハ既ニ断タレタ』
……嫌な事はとことん続くものである。
「マジかよ……どうするんだよ!?」
『上ヲ目指スコトダ。上層階ニアルアイノ性能変化ヲモタラス基盤ニヨッテハ、コノ状況ヲ打破デキル何カガ変ワルカモシレナイ』
「かも、かよ! そもそも階段は――」
ミーヴェルが文句を言いかけた、その時だった。
――ポォーン。
静まり返ったフロアに、場違いなほど軽快な電子音が響き渡った。
音の出処へ視線を向ける。そこには、数百年前に動力を失い、完全に死んでいたはずの『エレベーター』があった。だが今、その上部にあるパネルが、不気味な赤い光を点灯させている。
『……エレベーターガ、起動シタ』
「えっ、なんで!?」
パネルの数字が、チカ……チカ……と下から上へと切り替わっていく。それは間違いなく、『下から何かが昇ってきている』ことを示していた。
『……何者カガ、コノ階ニ向カッテ上昇中ダ』
「最悪だ……! 上も下も地獄じゃねえか!」
「ぴー!」
本気で頭を抱えたくなったミーヴェル。ルナも器用にアイにぶら下がりながら、大きな耳で自分の顔を覆うという、現実逃避のような真似をしていた。
「階段は……!? あっちか!」
ミーヴェルは叫びながら猛然と走り出した。重い非常扉を蹴破り、階段へと飛び込む。
駆け上がる。肺が焼けるような熱さを訴え、足が鉛のように重くなるのも無視して、狂ったように段差を跳ねた。だが、20階層分を必死に登りきったところで、ミーヴェルは愕然として立ち尽くした。
「また行き止まりかよ!!!」
目の前に立ち塞がるのは、無機質な灰色の壁。壁面に記された階層表記は「F60」。そこから上へと続くはずの階段は、不自然なほど綺麗に消失していた。
『……上層階ノ特別ナ身分ノ者ガ利用スル階層デハ、防犯上ノ観点カラ階段ノ配置ガ変更サレ、通路上ニ存在シナイ場合ガアル』
「……つまり、この階のどっかにある別の隠し階段かなんかを見つけなきゃ、詰みってことかよ!」
背後から、エレベーターが到着したことを告げる「ポォーン」という電子音が、階下から微かに響いてきた。
「大体なんで俺のいる階層がわかるんだ!?」
『…………』
アイは答えない。いや、答える余裕がないのか。
――ダンッ、ダンッダンッ。
複数の重い金属音が反響しながら近づいてくる。耳を澄ませば、たった今登ってきたばかりの階段の方からも、不気味な足音が迫っていた。
暗がりの向こうから姿を現したのは、数体の真っ白いセキュリティロボットだった。赤く発光する単眼が、ミーヴェルを冷徹にロックオンする。
「アイ! オーバーライドだ、こいつらを黙らせろ!」
『了解……。――、警告。アクセス拒絶。現在ノ権限デハ、ターゲットノ制御系へ介入デキナイ』
「はっ?なんで!? お前のハッキングが弾かれたのか!?」
アイのオーバーライドが通用しない。それは、この場所のシステムがアイの演算能力を上回っているか、あるいはさらに上位の存在に管理されていることを意味していた。
赤く光る単眼が、容赦なく攻撃体勢へと移行する。
「やるしかないか。アイ! キネティックアクセル!」
『了解。予測演算、完了』
瞬間、ミーヴェルの全身を異様な衝撃が貫いた。アイから発信される高精度な駆動信号が、ミーヴェルの全関節と同期し、その身体能力を強引に底上げする。筋肉が悲鳴を上げる暇すら与えない、機械的なまでの最適加速。
「換装! ドッキングシークエンス展開!」
ミーヴェルは走りながら、アイから伸びた光ファイバーを『リンク・エッジ』の柄へと叩き込んだ。バチッ! と青白い火花が散り、剣身が高周波の唸りを上げる。
『……リンク成功。定義、完了』
――ドォォォォン!!
空気が爆ぜるような音を置き去りにし、ミーヴェルは爆発的な初速で踏み出した。赤く光るセキュリティロボットの視覚センサーが捉えきる前に、青白い閃光が最前列の一体を断ち割る。
「ぴっ、ぴぃーー!!」
ミーヴェルの動きに追従するアイもまた、物理法則を無視したような軌道で宙を舞う。ぶら下がったまま、目を回しているルナを余所に、ミーヴェルは次なる標的へと刃を向けた。
『警告。心拍数上昇、筋繊維ニ過度ノ負荷。連続稼働可能時間、残リ百二十秒』
「二分もありゃ十分だ!」
ミーヴェルが地を蹴る。キネティックアクセルによって強化された脚力は、一歩で数メートルの距離を消失させた。二体目のロボットが放つ電磁警棒を最小限の動きで回避し、すれ違いざまに首元へリンク・エッジを叩き込む。高周波の刃が、厚い装甲をバターのように切り裂いた。
だが、倒しても倒しても、階段の奥から次々とセキュリティロボットが溢れ出してくる。
「キリがねえ……! アイ、隠し階段はまだか!?」
『……検索中。……発見。コノ階層ノ最奥、執務室内部ニ、別ノ「重力垂直路」ヲ確認。……タダシ、扉ノロック解除ニハ数分ヲ要スル』
「数分!? 今すぐ開けろよ!」
『不可能。外部干渉ヲ極限マデ拒絶シテイル。……ソレニ、ミーヴェル。背後ヲ見ヨ』
アイの声に冷や汗が流れる。
フロアの中央に鎮座するエレベーター。その表示灯が「F60」で止まり、再び「ポォーン」と音が響いた。プシュー、という排気音と共に、巨大な扉が左右にスライドする。
中から現れたのは、これまでとは明らかに格の違う、漆黒の重装甲を纏った個体だった。背丈はミーヴェルの倍近くあり、右腕には巨大なパイルバンカーが装着されている。単眼のセンサーは、不気味な紫色に明滅していた。
『侵入者ヲ確認……。殲滅モードニ移行』
『個体識別……「エグゼクティブ・ガード」。旧文明ノ上位セキュリティ機体。現在ハ、ナノヘイズ結晶体ト高度ニ融合シテイル』
「おいおい……あんなの聞いてねえぞ……! つーか こいつら元は人間の遺物だろ、なんで俺を襲ってくるんだよ! 俺、人間だぞ!?」
黒い守護者が一歩踏み出す。それだけで、床がミシミシと悲鳴を上げた。
「ぴ、ぴぃ……(もうダメだぁ……)」
「……アイ、全エネルギーを剣に回せ! 扉が開くまで、こいつらを一歩も通さねえ!」
ミーヴェルの叫びに応え、リンクエッジが、より一層激しく青い火花を散らした。




