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#9:「ファントム」



 我は、モヤモヤとした不思議な空間にいる。

 そこは暗くて静かで何も無くて、もし叫んだとしても誰にも届かない。

 もっとも、我は声など出せはしない。

 我は、ずっと此処にいる。

 かつては、「ファントム」と呼ばれていた様な気がする。

 その記憶も、今は何処かあやふやだ。

 いや、そもそもこれが記憶、と呼ぶべきものなのかどうかも分からない。

 「ファントム」というのは今は別の生体デバイスの名前になってしまっている様

だがーーー

 それは、我と何か関係があるのだろうか。

 それは分からない。

 我は、境界に囲まれた不可思議な場所の意思とも言うべき存在だ。

 そこにあるヒトを、導く。

 それをこの場所が現れてから、ずっと続けている。

 ーーー恐らく。



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 とある境界に囲まれた閉鎖空間の中に、箱舟はある。

 我はヒトが作った箱舟が此処に現れた時から、存在している。

 存在ーーー。

 いつも思うが、存在とは何だろう。

 我はヒトではない。動物でもない。神でもない。

 ただ、此処にいる。

 そう知っている。

 だがそれは誰にも証明出来ない。

 証明する気もない。

 ただ、この閉鎖空間を見守り、導こうとしている。


 かつて混乱の中にあった箱舟にあるヒトという生物は、徐々に落ち着きを取り戻

していた。

 周りを取り巻く境界に触れると無くなってしまうことを学習したヒトは、

 その中でだけの活動を始めた。

 やがて手の甲にあった生体デバイスを介して情報をやり取りするようになり、

 境界の内部で食料やエネルギーを生産して種の維持に努める様になった。

 この空間ではヒトは生の期限が無く、ずっと活動を続けることが出来た。

 時々閉鎖空間の環境は変わり存続の危機も何度か訪れたが、その度にヒトは善処

した。

 ある時からは次の世代も生まれる様になり、減る一方だった数もその進みは鈍化

している。

 小さな政府の様なものも出来た。

 我は時々、ヒトに対して接触を試みる。

 大抵は成功しない。

 だがごくまれに、ヒトの情報空間に対してゆらぎを起こせることがある。

 そんな時は、ある情報端末にこんな表示が起こる。

『 い ろ 』

 我はヒトの言語を理解しない。

 察するだけだ。

 故に我のメッセージはヒトには理解不能であろう。

 それが分かっていても、我は時々それを行う。

 何故なのかは分からない。

 それが、使命の様な気がする。

 そうしていつか、導くことが出来れば。

 我はそう思考する。



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 あの緑色の光を見たのは、いつだろうか。

 閉鎖空間を感じていると、時々、あの緑色の光がある。

 その度に、境界の中で何かが起こっている。

 我は、それが何なのか分からなかった。

 少なくとも、あの光は我と違い、空間内に対して何かを明確に起こせるのだ。

 我は、何かを感じていた。

 それは言葉にならない、ザワザワとする予感の様なもの。

 我は、それが何なのかを知っているのか?

 我はモヤモヤとした空間の中で、うごめいた。

 勿論動かす体などない。

 ただ、苦しさの様な感覚を、我は知っていた。

 何故なのかは分からない。

 とにかく、あの緑色の光が、我をそうさせる。

 どうすれば良いのか分からない。

 そんな時、我はまた無い体を震わせてヒトへの接触を行おうとする。

 誰かに、いつか伝わる様に。

 だがやはり、

『 い ろ 』

 としか、伝わらない。

 我は、口惜しく思う。

 これは、ヒトが感じるものと同じなのだろうか。

 だとしたら我は一体?



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 閉鎖空間の中の小さく蠢くヒトの中の一つに、我は気がついていた。

 ヒトはそれぞれ色が違う。

 だがその一つは、何処か特殊だった。

 他とは違う技術で作られた体を持ち、左右の手には武器があった。

 片方の目には調べる機械が入っていた。

 それが、あの緑色の光を間近にした時、淡い光を放つのだ。

 我はそれを興味深げに見る。

 そちらの淡い方の光には、あのザワザワ感はあまり感じなかった。

 何故なのだろうか。


 我に見えているものは、ヒトのそれとは違う。

 その淡い光の周りにいるヒトは、あまり関心を持っている様には見えなかった。


 閉鎖空間では様々なことが起き、特殊な一つもよくそれに対処している様に思え

た。

 やがてツガイの片方を見つけた様だが、ヒトはすぐ行動しない。

 周りがそれを欲している様にも見えたが、それらは種を残そうとはしなかった。

 何故なのだろう。

 それが、ヒトではないからなのだろうか。



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 我は、閉鎖空間を感じている。

 既に長い時間が、経っている。

 いや、時間など我には関係無いがーーー

 最近、あの緑色の光は現れる回数が増えている様だ。

 前はもっと静かだった様な気もするーーー

 ある時、あの緑色の光は、一つのヒトを境界の外から呼び寄せ、再び連れ去った。

 どうしてそんなことが出来るのか、我には分からなかった。

 それは、何を意味するのだろう。

 どういう原理なのか分からないが、

 あの緑色の光はこの閉鎖空間に対して何かを行おうとしている。

 それが何をもたらすのかーーーこの場所の意思たる筈の我には分からない。

 歯がゆさの様な何かで、我は震えた。

 我は、この閉鎖空間をどう導けば良いのだろう。

 震えながら『 い ろ 』の情報を送ってみたが、

 ヒトはそれに気づいているのかどうかすら分からない。


 またある時、空間内はずっとドライだった。

 ヒトが生きていくには液体が必要らしい。

 彼らは乾き、存続が難しくなった。

 そこでも緑色の光は例の特殊なヒトを導き、液体を渡した。

 我の意思は、何も及ぼすことは出来ていない。

 我は、一体何の為に存在しているのだ?

 

 またある時、閉鎖空間で箱舟を取り巻いているのは海だった。

 その海から這い出た動く小さな金属糸が箱舟に迫り、絡み付いていた。

 その過程で活動を停止したヒトもいた。

 緑色の光は微かに見えた様だったが、

 何の為に、これを起こしたのだ?

 少なくとも、この空間を害しようとしていたのではないのか?

 何も分からない。

 結局我は、それについても、何も出来ていない。

 本当に我はこの場所の意思なのか?

 既によく分からなくなっていた。

 我は相変わらず悶えることしか出来はしない。



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 我は、この閉鎖空間の小さな政府に再び情報を送ろうと試みた。

 だが何も届かなかった。

 いやーーーいつもの『 い ろ 』自体は届いていたがーーー


『………!』


 妙な感覚に、我は気がついた。

 それはーーーー、

 『 い ろ 』は、我が行ったものではなかった、

 という事実だった。


『!?』


 我はその確かな感覚に、驚いた。

 今までの『 い ろ 』も、実は我が送ったものではない?

 ならば、我は何なのだろうか。

 我は何一つ、この閉鎖空間に対して出来ることは無いというのだろうか。

 私は、この場所の意思ではないのか。

 全く違う存在なのか。

 いやもしかしたら存在ですらないーーー?

 我はモヤモヤとした空間で、声にならない声を上げた。

『        』

 こんな時、ヒトの様に叫ぶことが出来たらーーー。



 そして、その時がやってきた。

 境界の外から、閉鎖空間に向けて細長い鉄が降り注いだ。

 それは、ヒトにとって決定的な害悪だ。


『ーーーーーーーー!』


 そこで何が起きているのか、我はようやく理解した。


 我は、この閉鎖空間の意思などではなかった。

 我こそが、閉鎖空間を取り囲んでいるモヤモヤとしたものだった。

 我の中の何かが、あの細長い鉄を降らせていた。

 その赤く燃え盛る鉄線は、我の中から生まれた。

 それは我が見てきた空間を破壊せんと、次々と無数に降り注いでいた。

 境界は、そしてあの緑色の光は、そしてあの絡みついていた鉄の糸もーーー

 我から、閉鎖空間を守っていたのだ。


 我は愕然とした。

 我は、意思などではなくーーー

 むしろそれを害そうとする悪意の塊の様な存在だったのだ。


 ようやく、我は知った。

 思えば、我はこの空間に対して触れることが出来ていた。

 それは導くのとはおよそ反対の方向で。

 我の中の何かは、ヒトの不安や恐れを増大させていた。

 ヒトをおかしくする謎の粉を振りまいていた。

 箱舟の内部で起こった自己破壊の多くは、それ故に起きたのだ。

 環境の変化も、外からの我の悪意ある干渉に対応する為のものだった。

 そして今、焼けた鉄を降らせている。


 我は、それを意図したものではなかったがーーー

 それを今、確実に認識した。

 


    ✴︎   ✴︎   ✴︎



『    』

 何かが我に問いかけた。

 それが何なのか、我は知らなかった。


 その時、閉鎖空間は、気づけば液体に満たされていた。

 それが我が降らせた熱い鉄を冷やす為のものだということが分かった。

 それを行ったのは、あの緑色の光だった。

 今や我は、完全にこの閉鎖空間のテキだった。


『………!』


 その時、我は緑色の光を見た。

 箱舟の上方で、それは優しく瞬いていた。

 今は何故か、その光を見てもあのザワザワ感は無かった。

 むしろ、我がモヤモヤとした、ヒトをザワつかせる側の存在なのだ。

 ーーー存在?!

 本当に我は、存在しているのか?


 ふと、我はそんなことを思った。

 ーーー思った?

 それはやはり我に、意思があるということか。

 存在しているということか。


 ならば何故ーーー我はこの閉鎖空間に害を成そうとするのか。


 いくら思っても、分からなかった。


『        !!』


 我は、ヒトであるなら全身で悲鳴を上げていたことだろう。



 キィーーーーン!


 また緑色の光が見えた。

 それは閉鎖空間の中ではなく、その外、我の側にあった。

『……………』

 我はそれを感じた。

 柔らかく光るそれは、我の存在に気づいているのだろうか。

 我はそれに向かって手をーーー勿論イメージの話だがーーー恐る恐る伸ばした。



   ✴︎   ✴︎   ✴︎



 閉鎖空間内の水は、いつの間にか消えていた。

 ヒトはまた、元の活動に戻るのだろう。

 あの特殊な体をしたヒトの一つは、武器である片手が使えなくなっていたが、

 例のハンリョと子孫を作ることにしたようだ。

 その夜、閉鎖空間の上空には電離層が輝く現象ーーー

 恐らくヒトがオーロラと発しているものが、見えていた。

 我は、その様子をまんじりともせずに感じていた。

 ヒトはそれを時折見上げながら、それぞれ元の活動に戻ろうと苦心していた。

 そんな中、そこに異変が起きた。

 ヒトの生体デバイスーー「ファントム」と呼ばれているものだーーが、

 しばらく動いていなかったそれが、突然何かのノイズを発し始めた。

 ヒトは頭痛や目眩を訴える。

 我はーーーこれも自分が行ったことなのかと恐れを抱いていた。


 我は、最後にもう一度だけ、その小さな政府に向けて意思的なものを発してみた。


『 る な 』


 半ば無理だと思っていたが、いつもと違う何かが伝わった。

『……………!』

 意味は無いのだろうが、何処か否定を含んだ風に、我には思えた。

 我は恐れた。

 我は一体、何をしたのだ?


 ギーーーーーーー!


 空間全体に、異音がした。

 我は唸り声を上げた。

 同時に、それは閉鎖空間のヒトにも伝わったようだ。

 ヒトは口々に叫び、虚空を見上げた。


 その時ーーーー閉鎖空間の箱舟の上に、緑色の光の柱が立った。

 我はそれを驚きを持って見ていた。

 その光の柱の中から出てきたのはーー

 前にあの緑色の光と一緒に境界を越えて閉鎖空間に入り、また出て行った存在。

 あの特殊な一つとかつてツガイになろうとしていたヒトだった。


 あの特別な体を持った一つはーーーまた淡い光を放っていたがーーー

 新しいツガイの片方と、以前のツガイとの間で苦慮している様に見えた。


 これも、我が行ったことなのだろうかーーーー

 それとも、あの緑色の光が行ったものなのか。

 我にはもう分からない。

 我はまた、ザワザワとする何かを感じ始めていた。

 いけない、これはーーー。

 我は何かを思うのを止めようとした。

 何かを送ろうとするのも。

 それこそが、何らかの悪意を生み出している様な気がした。

 だがーーー我はもう知っている。

 我の意思など、もはや無い。

 どう思おうとも。

 我は『無』だ。

 ずっと『無』だった。

 それこそが、境界で仕切られた向こう側とこちら側との差。

 我はもう何者でもない。

 かつて、「ファントム」と呼ばれていたもの。

 今は何もない空間に漂う、何ものでもないもの。

 もはや、なる様にしかなるまい。

『       』

 ひときわ大きく叫びの様なものを発して、

 我はーーー閉じた。


                            (  続  )



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