第1話 読者のいない推理作家
「三十一」
久住悠人は、パソコンの画面に表示された数字を見つめた。
三十一。
昨日の夜に投稿した最新話の閲覧数である。
更新ボタンを押す。
三十一。
もう一度押す。
三十一。
「壊れてるのかな」
独り言を漏らすと、背後から声がした。
「何が?」
振り向くと、妻の真帆が洗濯物の山を抱えて立っていた。
四十歳。同い年。
結婚して十二年になるが、悠人にとってはそれよりずっと前から知っている顔だった。
二人は同じ小学校に通っていた。
もっとも、その頃から仲がよかったわけではない。話した記憶もほとんどない。
大人になってから偶然再会し、その後付き合い始めた。
だから小学校時代の真帆について尋ねられても、悠人が知っていることは意外と少ない。
「閲覧数」
「ああ、小説?」
「昨日更新したんだけど」
「何人?」
悠人は答えず画面に目を戻した。
真帆が洗濯物をソファに置き、後ろから覗き込む。
「三十一」
「言うなよ」
「見えてるんだから仕方ないでしょ」
「投稿してまだ十二時間だぞ」
「うん」
「夜中も含んでるし」
「うん」
「これから伸びる可能性もある」
「そうだね」
返事が優しすぎた。
悠人は椅子ごと振り向いた。
「絶対思ってないだろ」
真帆は笑いながらタオルを畳み始めた。
「だって前の話、最終的に何人だった?」
「百十二」
「すごいじゃん」
「総閲覧数だからな。何話も合わせて百十二だぞ」
「私だったら百人以上に読まれたら緊張するけど」
「そういう話じゃない」
悠人は趣味でミステリー小説を書いている。
始めたのは三年ほど前だ。
仕事から帰り、夕食を食べ、風呂に入り、真帆と娘が寝たあとに一時間ほどパソコンへ向かう。
一作品目は会社員が密室状態の会議室で殺される話だった。
二作品目は深夜の高速道路で起きる連続事故。
三作品目はマンションから消えた住人。
現在連載中の作品は、山荘で発生する転落死を扱っている。
自分では悪くないと思っている。
少なくとも、真面目には書いていた。
伏線も考える。
犯人の動機も考える。
なるべく途中で答えが分からないようにしながら、読み返した時にはちゃんと手掛かりが置かれていたと思ってもらえるようにもしている。
それでも読者は増えない。
悠人の小説だけを避けるように、投稿サイトの人々が歩いているのではないかと疑いたくなるくらいだった。
「お父さん、また見てるの?」
リビングに入ってきた娘の結菜が言った。
十歳。
髪を後ろで適当に結んでいて、片方だけ靴下を履いている。
「またって何だよ」
「数字」
「読者数と言ってくれ」
結菜は画面を覗き込んだ。
「三十一?」
「朝から増えてないんだよ」
「昨日も三十一じゃなかった?」
「昨日は二十九」
「あ、二人増えたじゃん」
結菜が本気で喜んでいるので、悠人は返事に困った。
真帆が吹き出した。
「よかったね」
「お前らな」
結菜が悠人の隣へ立つ。
「コメントは?」
悠人は黙った。
結菜が画面を操作しようとマウスへ手を伸ばす。
「触るな」
「ゼロ?」
「……コメントする人ばかりじゃない」
「評価は?」
「学校行く準備しろ」
「逃げた」
「逃げてない。あと片方の靴下どこだ」
結菜は自分の足元を見て、今初めて片方しか履いていないことに気づいた顔をした。
「知らない」
「なんで本人が知らないんだよ」
「お母さん、靴下ない」
「洗面所の前に落ちてたよ」
「なんで?」
「それをお母さんが聞きたい」
朝の久住家は、だいたいいつもこんな感じだった。
テレビから天気予報が流れ、トースターからパンが飛び出し、真帆が誰かの忘れ物を探し、悠人は出勤時間を気にしながらコーヒーを飲む。
特別なことはない。
ドラマになるような家庭でもない。
悠人はそれでいいと思っていた。
小説の中では人が死んでも、現実の生活まで刺激的である必要はなかった。
結菜が学校へ向かい、真帆も仕事の支度を始めた頃だった。
玄関で靴を履いていた悠人を、真帆が呼び止めた。
「そうだ、これ」
差し出されたのは一枚の封筒だった。
「何?」
「昨日ポストに入ってた」
白い封筒。
宛名は久住悠人。
差出人を見ても、すぐには分からなかった。
「同窓会?」
「みたい」
悠人は封を切った。
中には簡単な案内状が入っていた。
最初の一行を読む。
そして首を傾げた。
『○○年度 ○○市立北野小学校 三年二組同窓会のご案内』
「三年二組?」
口にすると、真帆も横から紙を覗いた。
「懐かしい?」
「全然」
「何組だったかは覚えてる?」
「三年は……二組だったと思う」
「案内来てるんだから、そうなんじゃない?」
「まあ、そうだけど」
開催は約一か月後。
場所は県外のリゾートホテルだった。
小学校の同窓会にしては、ずいぶん大がかりだ。
幹事の名前も書かれている。
野崎智也。
悠人はその名前を何度か頭の中で繰り返した。
出てこない。
「野崎っていた?」
「私に聞かれても。三年の時、私一組だし」
真帆はそう言ってから、もう一度案内状へ目を落とした。
「でも変だね」
「何が?」
「普通、小学校の同窓会なら卒業した時のクラスじゃない?」
悠人も同じことを考えていた。
六年生ならまだ分かる。
卒業。
担任。
卒業アルバム。
最後のクラス。
だが三年生だ。
九歳か十歳。
何をしていたのか、誰と遊んでいたのかすら曖昧だった。
「仲のいいクラスだったとか?」
「覚えてないの?」
「覚えてたら聞かないだろ」
「じゃあ、行かないね」
「たぶん」
悠人は案内状を鞄に入れようとして、やめた。
もう一度見る。
三年二組。
なぜ三年なのだろう。
ミステリーを書いているせいか、こういう妙な部分が目につく。
特別な理由があるのではないか、と考えてしまう。
もちろん、実際にはたいした理由などないのだろう。
幹事が三年二組の人間だった。
昔仲がよかった。
連絡が取れる人間が多かった。
そんなところだ。
悠人は紙を二つ折りにした。
その時、真帆が何気なく言った。
「でもさ」
「ん?」
「なんで六年じゃなくて、三年生なんだろうね」
悠人は答えなかった。
答えを知らなかったからだ。
その時は、ただそれだけだった。




