共犯者の夜
午前二時を回ったコンビニは、異世界のように静かだった。
店内には客はおらず、レジの店員は居眠りをこらえながらスマホをいじっている。白い蛍光灯が、棚に並ぶ商品に無機質な光を投げかけている。私は、明日の朝食兼用にパンとレトルトのスープを手に取り、レジへ向かおうとした。
その時、お菓子コーナーで、一人の女性が立ち尽くしているのに気づいた。
長い黒髪は帽子で隠れ、顔は黒い不織布マスクで覆われている。スリムな黒のパーカーにジーンズ。ごく普通の、夜中のコンビニにいる若い女性の格好だ。だが、その佇まい──背筋の伸び方、首の角度、地面に対して垂直に立つ両足の姿勢──が、どこか見覚えがあった。
彼女は、チョコレートの棚の前で、じっとしていた。手には、一枚の板チョコ(ミルク)を持っている。しかし、それをかごに入れるでも、棚に戻すでもなく、ただ見つめている。微かに首をかしげ、マスクの上に見える眉のあたりに、かすかな困惑の皺が寄っている。
まるで、初めてチョコレートを見た宇宙人が、その用途を理解しようとしているかのようだ。
私は、息をのんだ。足が、その場に釘付けになった。
もんろだ。
なぜここに? 楽屋から出ることは、原則禁止のはずだ。ましてや、夜中に一人でコンビニに? 警備は?
彼女が、ふと、こちらの方に顔を向けた。マスクの上での、私と目が合ったような、合わなかったような一瞬。彼女の目は、いつも能面の奥に隠れている時よりも、はるかに生々しく、人間的だった。薄い二重まぶた。長いまつ毛。瞳の色は、この灰色の世界では判別できないが、おそらくは黒か濃い茶色だろう。
彼女は、一瞬、目を大きく見開いた。驚いたようだ。しかし、すぐに、その目が細くなり──マスクの上で、口元がほんのわずかに緩むような動きをした。微笑んでいるのか?
彼女は、そっと手を挙げ、人差し指を唇の前(マスクの上)に立てた。“シー”の合図だ。そして、かごにチョコレートを入れ、さっさとレジの方へ歩き出した。私を無視するように。
私は、一瞬迷った。追うべきか? 監視対象が規定外の行動を取っている。報告すべきだ。
しかし、足は、報告ではなく、彼女の後を追う方を選んだ。私もパンをレジに置き、支払いを済ませる。もんろは、既に店を出て、路地裏の方へ消えていった。
私は、息を潜めてその後に続く。深夜の住宅街。街灯の間隔が空き、所々に深い闇ができている。もんろの黒いシルエットが、その闇を縫うように速く歩いていく。目的地があるようだ。
彼女は、古びた五階建てのアパートの脇にある、非常階段へと向かった。軽やかに階段を上り始める。屋上へ向かっている。
私は、数段遅れて後を追う。階段の軋む音をできるだけ立てないように。心臓が高鳴る。これは、完全な越権行為だ。それどころか、もはや監視官としての職務放棄に近い。
屋上のドアは開いていた。古い南京錠が外されている。もんろが先に来て、外しておいたのか。
ためらいながら、屋上に出る。
ここは、周囲より少し高い位置にある。見渡す限り、住宅の屋根と、遠くのビル群の輪郭が、灰色の闇の中に広がっている。空には雲が厚く、星も月も見えない。東京の夜景といっても、私の目には、様々な明るさの灰色の塊が散らばっているようにしか見えない。
もんろは、屋上の手すりの近くに立っていた。帽子とマスクを外し、夜風に髪をなびかせている。能面も外している。彼女は、こちらの方を見ていない。遠くの、何もない闇を見つめている。
「上まで来るのに、時間がかかりましたね、尚さん」
彼女は、振り向かずに言った。声は、楽屋やステージで聞くそれよりも、ずっと低く、柔らかい。しかし、どこか、脆いガラスのような張りがある。
「…なぜここに」私は、距離を保ったまま尋ねた。
「たまには、『監視』される側も、『監視』する側の気分を味わってみたくなって」彼女は、軽く肩をすくめた。その仕草は、どこか少女めいていた。「冗談です。ただ…外に出たかった。誰にも『演じ』なくていい場所に」
彼女は、ようやくゆっくりと振り向いた。屋上の非常灯の、かすかなオレンジ色の光が、彼女の顔を斜めから照らす。
私の息が止まりかけた。
混沌度が、さらに上がっている。目に見えて、顔の“変動”が激しくなっていた。左頬の皮膚が、老人のようにたるんで見えるかと思うと、右頬は少女のように張っている。口元は無表情だが、眉は悲しげに寄り、目尻は笑っているように上がっている。紗良ちゃんの母親から“借りた”三つの“星空”のそばかすは、相変わらず右頬にあったが、その周囲に、新たな、かすかなシミや、小さなほくろのようなものが、いくつか浮かび上がっているように見えた。
彼女は、私の視線を、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ受け止めている。
「私のことを、調べていらっしゃるようですね」
彼女は、静かに言った。
「厚生省の、朱雀レベルファイルに。よくアクセスできましたね。…奥様の技術でしょうか」
私は、言葉を失った。彼女は、私の不正アクセスまで把握している?
「心配しないでください。私は、告発するつもりはありません」もんろは、手すりにもたれかかった。「むしろ…ありがとうございます。誰かが、私の『来し方』に興味を持ってくれて」
彼女は、夜空を見上げた。
「107枚の能面。それぞれに、『彼女たち』が最後まで抱きしめた、一枚の顔が封じられています。恋人の顔。我が子の顔。仇敵の顔。失って二度と会えなくなった、大切な人の顔」
風が、彼女の髪をさらに乱す。
「彼女たちは、その顔を忘れたくなかった。だから、自分自身の顔を差し出して、それを守る『器』になった。そして最後に、自分ごと、能面という永遠の器に閉じ込められた」
彼女は、私を真っ直ぐに見た。その目は、今夜、何度見ても、一定の形を保っていない。時折、別人の目の形を、一瞬だけ借りてくる。
「私は、108人目です。でも、私は…彼女たちと違います。私には、守りたい『一枚の顔』が、最初からなかった」
彼女は、自分の顔を、そっと手のひらで覆った。
「私の顔は、借りてきたものでできています。西村さんの奥様の星空。あの老爺さんの初恋の人のほくろ。たくさんの子どもたちの笑顔の欠片。あなたの奥様の…桜の下の笑顔」
その言葉に、私は体が硬直した。
「でも、どれも、『私の顔』じゃない。ただの…『預かり物』です」
彼女は手を離し、ため息のように言った。
「尚さん。あなたは、どう思いますか?」
「…何を?」
「私が最後に…能面になるその時、いったい、誰の顔を覚えているでしょうか。あなたの? それとも…もし、奇跡があって、どこかに『私』というものがほんの少しでも残っているなら、その『私自身』の顔を?」
彼女の問いは、重すぎた。私は答えられず、ただ風の音を聞いていた。
「…能面になる、とは?」私は、かすれた声で尋ねた。「あの設計図は…」
「ご存じの通りです」もんろの声は、変わらず平静だった。「混沌度が95%に達したら、意識を保ったまま、生ける能面へと転写される。私の『歌』は、この国のために、永遠に鳴り続ける装置になる。それが、私の『最終処置方案』です」
「そんな…」
「当然の帰結です」彼女は、私の言葉を遮った。「私は、最初からそうなるために『発見』され、目覚めさせられたのですから。国宝としての役目を、最後まで全うするだけです」
しかし、彼女の目には、一瞬、何かが走った。諦念ではない。何か別の、熱いもの。
「でも、尚さん。一つだけ、お願いがあります」
彼女は、一歩、私に近づいた。非常に近く。彼女の顔の、絶え間ない変動が、より鮮明に見える。肌の下を、無数の影が流れていくようだ。
「私が…能面になる前に。私に、『私の顔』を見つけるのを、手伝ってください」
「…何?」
「どんな顔でもいい。借り物じゃない、誰の記憶の断片でもない、私、赫映もんろだけの、たった一枚の顔を」彼女の声に、初めて、かすかな震えが乗った。「それが、たとえ醜いものであっても、不完全なものであっても。ただ…『私』だと、言えるものが欲しい」
「どうやって…?」
「あなたが、私の過去を調べたように、もっと深く、調べてください。107枚の能面の秘密。CPDSの本当の原因。そして…私が、あの研究所の地下で、能面に囲まれて眠りにつく前に、いったい何者だったのかを」
彼女の目が、真剣に私を見つめる。
「その代わりに、私は、あなたが本当に知りたいことを、お教えします」
「…私が知りたいこと?」
「CPDSの真実です」もんろの声が、深く、低くなる。「今、人々が苦しんでいるあの症状は、病気でも、罰でもありません。それは…『呪い』です。長い長い、この国に刻まれた、ある『負の遺産』の、最終段階なのです」
私は、息を詰まらせた。呪い? 負の遺産?
「その全容を知り、真の『治癒』の方法を知りたければ…私を、助けてください」
彼女は、そう言うと、小さく、しかし確かな一歩を下がった。私との距離を開ける。交渉の姿勢だ。
「これは、取引です。私の『自我』の可能性と、この国を本当の意味で『色』を取り戻させる可能性との、交換です」
私は、頭の中で、ありとあらゆる思考が渦巻いた。これは、完全な裏切りだ。国の計画を暗中で妨害し、監視対象と共謀する。発覚すれば、全てを失う。
しかし、目の前の彼女は、もはや単なる“監視対象”ではなかった。壁一面の写真の中で笑う早織と、頬に星空を宿し、自分という“無”と戦う彼女が、私の中で重なって見える。
私は、ゆっくりと右手を差し出した。
「…わかった」
もんろは、一瞬、目を見開いた。私がこれほど早く決断するとは思っていなかったようだ。しかし、すぐに、彼女の口元が、ほんのわずか、しかし確実に、上に向いた。それは、AIが提案したどの“笑顔のテンプレート”とも違う、ごく自然な、どこか疲れた、しかし心からの微笑みのように見えた。
彼女も、右手を差し出した。その手は、夜風に冷えている。彼女の手のひらが、私の手のひらに触れる。
そして、彼女がそっと手を引く。彼女の手の中に、小さくて硬い物体が残された。
データチップだ。ごく普通のmicroSDカード。黒いケースに入っている。
「約束の、前払いです」もんろはささやくように言った。「中には、私が現時点で理解している、CPDSの真実の一端が記されています。まずは、それをお読みください」
私は、チップを握りしめた。冷たいプラスチックの感触。
「では、私は戻ります。夜間外出がばれたら、面倒ですから」
彼女は、帽子とマスクをつけ直し、能面は手持ちのバッグにしまう。完全に、さっきの“普通の女性”に戻った。
「尚さん。一つ、忠告です」
彼女が、階段へ向かう足を止めて、振り返った。
「あなたの奥様が…飛び立つ直前、おっしゃった最後の言葉は、『私の顔、覚えていてくれる?』ではありません」
氷の柱が、背骨を貫く。
「本当は、こうでした。『ごめんね…こんな顔で。でも、最後にあなたのことを考えて、笑えました』」
私は、その場に立ちすくんだ。耳を疑った。
「…なぜ…」
「あなたの記憶から、少し…借りました。昨夜、あなたが夢を見ていらした時」もんろの目が、悲しげに細まった。「記憶って、本当、都合よく美化されるものですね。辛い現実を、少しでも美しく塗り替えようとする…人間の、哀しい習性です」
彼女は、そう言うと、何の未練もなく階段を下り始めた。足音が遠ざかっていく。
私は、屋上に一人取り残され、冷たい風に吹かれながら、ただ、もんろの言葉を反芻していた。
早織は…“覚えていて”と頼んだのではなく、“こんな顔でごめん”と謝り、“最後にあなたのことを考えて笑えた”と言った?
私の記憶は、嘘だったのか? それとも、もんろの“借りた”記憶が、歪んでいるのか?
いや…直感がささやく。もんろの言葉の方が、早織らしい。彼女は、最後まで、私に心配をかけたくなかった。醜く崩れゆく自分を見せることを、恥じていた。それでこそ、早織だ。
私は、拳を握りしめた。チップが、掌に食い込む。
記憶さえ、信用できない。ならば、この目で、この手で、確かめるしかない。
彼女と結んだ、危険な共犯。
自宅に戻り、私は、早織のタブレット端末に、そのmicroSDチップを挿入した。
暗号化はされていない。中には、たった一つのテキストファイルがあるだけだった。
ファイル名は:
《CPDSの真実:それは罰ではなく、呪いである》
私は、深く息を吸い、ファイルを開いた。
画面に、簡潔な文章が現れた。もんろの、あの冷静で透明な文体で書かれているようだった。
CPDS(色彩認知剥離症)は、病気ではありません。
これは、約千二百年前から、この国の地脈と人々の集合無意識に蓄積され続けてきた、ある“負の情感記憶”の、臨界点を超えた“漏出”現象です。
歴史上、戦乱、飢饉、疫病、天変地異…その都度、多くの人々が、苦しみ、悲しみ、怒り、絶望の中で、自分や愛する人の“顔”を失いました。それらの“失われた面容”に込められた強い感情――特に、無念や悲嘆――は、消えることなく、この土地に、目に見えない“記憶の堆積層”として沈殿していきました。
“面容巫女”は、その堆積した負の情感を、自らの身体を“器”として能動的に吸収・浄化するために生まれた、自然の調整機能でした。巫女は、人々から“顔”と、その背後にある“感情”を借り受け、自身の中で“中和”しようと試みます。しかし、その負荷は大きく、巫女の自我は“借り”に侵食され、最終的には、中和しきれなかった情感と共に、能面の中に封じ込められます。
能面は、情感の“封印”です。同時に、新たな堆積を防ぐ“安全弁”でした。
しかし、約百五十年前、第107代巫女が、能面化の過程で大きな“事故”を起こしました。彼女は、自我を保ったまま能面化を拒み、その結果、体内に蓄積していた膨大な負の情感が、制御不能に“逆流”してしまったのです。
その“逆流”は、現代にまで続く、新たな“情感の堆積”の連鎖を引き起こしました。それが、現代のCPDSの正体です。人々は、過去から続く、処理されきれなかった“他人の悲しみ”の名残を、自分自身の“色”として誤認し、あるいは、その重圧に押し潰されて、自らの“色”を見失っているのです。
私は、第108代。過去107枚の能面に封印されたすべての情感と、第107代の事故によって拡散した情感の、最終的な“集約点”として目覚めさせられました。
私の“歌”が一時的にCPDSを緩和するのは、私が、聴く者から、その“誤認”や“重圧”の一部を、新たに“借り取っている”からに過ぎません。それは、根本的な解決ではありません。ただ、私という“器”の、満杯になる時間を先延ばししているだけです。
真の治癒は、この“呪い”の連鎖そのものを断ち切ること。そのためには――
文章は、ここで突然終わっていた。以下を読むには、さらに深いアクセス権限が必要だ、といった意味のテキストが続くだけだった。
私は、モニターを見つめながら、長い時間、動けなかった。
呪い。千二百年の負の遺産。巫女。能面。事故。逆流。
すべてが、恐ろしいほどに、もんろの言葉と、私が見たファイルの断片と、符合する。
そして、もんろは、そのすべてを背負い、最後には能面となる運命。
彼女は、その運命を受け入れると言いながら、私に“自分”の顔を探す手伝いを求めた。彼女の心のどこかには、抵抗があるのだろうか。それとも、能面になる前に、せめて一度だけ、“赫映もんろ”として存在した証が欲しいのだろうか。
私は、チップを抜き、厳重に隠した。
窓の外、夜明け前の闇が、一番深い。
私は、壁の早織の写真に向かって、つぶやいた。
「もし、彼女が…ただの“道具”じゃなかったら」
「もし、あの“呪い”を、本当に終わらせる道があるなら…」
「俺は…彼女を、能面にさせるわけにはいかない。そうだろ、早織?」
写真の中の早織は、変わらぬ笑顔で、私を見つめ返している。その笑顔が、今、少しだけ、もんろが屋上で見せた、あの疲れた微笑みと重なって見えた。
共犯者の夜は、まだ明けていなかった。むしろ、深い闇の中、危険な道のりが、ようやく、かすかに輪郭を見せ始めたところだった。




