呪いの真相
彼女の“癒し”は、偽りの希望だった。彼女が優しく歌い、子どもたちが色を取り戻すその瞬間でさえ、それはただ、彼女という炉へ、新たな燃料が投げ込まれているのに過ぎなかった。
ファイルの最後に、もう一つ、フォルダへのリンクがあった。
【参考資料:全107枚能面・デジタルスキャンデータ(低解像度版)】
私は、震える手でそれをクリックした。
画面に、107枚の能面の画像が、整然とサムネイル表示された。古びた木製のものから、比較的新しい漆や樹脂製のものまで。それぞれが、微妙に形を変え、表情(能面に表情はないが、その曲線や角度)が異なる。
私は、一番最後、No.107 とラベルのついたサムネイルにカーソルを合わせ、クリックした。
画像が拡大表示される。
No.107の能面は、他のものに比べ、明らかに“新しかった”。素材は白く艶やかな強化樹脂のようなもの。形は、能面としては比較的シンプルだが、その表面に、無数の、髪の毛ほどの細いひび割れが走っている。あたかも、内側から強い圧力がかかって、割れそうで割れていない、そんな印象だ。
能面の“顔”の部分は、他の能面のように特定の表情(哀傷や怒り)を固定しているわけではなかった。むしろ、無表情に近い。しかし、その無表情さが、かえって、何かを必死に抑え込もうとする、苦悶の緊張感を感じさせた。
私は、その能面の輪郭を、じっと見つめた。
額の広さ。眉の、かすかに寄りかけたようなライン。目の切れ長の形。頬骨の、ほんのりとした膨らみ。
…似ている。
いや、違う。ただの偶然の相似だ。そう思いたい。
しかし、目が離せない。能面の写真と、私の記憶の中の早織の顔とが、重なり合おうとする。
私は、狂ったように壁に向かった。そこに貼られた、無数の“最後の顔”の写真。その中央、早織の写真を、引きはがす。
桜の下で笑う彼女。その顔を、能面No.107の画像と、並べてみる。
違う。全然違う。早織の顔は柔らかく、優しい。能面は無機質で、冷たい。
だが…もし、早織の顔が、あの日、東京タイルの上で、“融け”、歪み、無数の他人の悲しみと混ざり合っていたら? その、最後の、崩壊寸前の“早織の顔”を、誰かが型取り、能面にしたら?
その想像が、私の理性を引き裂いた。
もんろの声が、脳裏にこだまする。
『記憶って、本当、都合よく美化されるものですね』
私は、手に持った早織の写真を、ぎゅっと握りしめた。フォトフレームのガラスが軋む。
違う。早織は、能面なんかじゃない。彼女は、ただの…犠牲者だ。この歪んだシステムの、悲劇の、たった一人の——
しかし、システムは、そうは見做さないだろう。第107代巫女の“事故”により拡散した情感債務。その“継承者”の一人である早織。彼女の“最後の顔”が、能面No.107と何らかのシンクロニシティ(共時性)を持っているとしても、不思議ではない。
私は、壁に貼られた、他の全ての写真——私が“桜安”を施した、あらゆる人々の“最後の顔”——を見回した。
彼らもまた、この“呪い”の、直接の犠牲者だったのか? それとも、間接的な、はみ出し者だったのか?
わからない。何もかもが、ぐちゃぐちゃに絡み合い、私の頭の中で渦巻いている。
そして、ファイルの、本当の最後。テキストの終わりから数行空けた下に、小さな声のアイコンがあった。“追加音声メモ” と記されている。
私は、ほとんど無意識に、それをクリックした。
スピーカーから、もんろの声が、かすかなノイズを伴って流れ出した。おそらく、彼女の私用タブレットなどで、こっそり録音したものだろう。息遣いが近く、囁くような声だ。
『…尚さん。これで、すべて、おわかりいただけましたか』
少し間がある。彼女が、言葉を選んでいるようだ。
『私は、この世界の“側溝”です。人々が流した、悲しみや痛みの、汚れた水が、最終的に集まってくる場所』
声が、わずかに震える。しかし、泣いているわけではない。ただ、事実を述べている。
『側溝は、必要です。なければ、街は水びたしになり、腐っていきます。でも、側溝そのものが、きれいである必要はありません。むしろ、汚れているからこそ、役に立つ』
深いため息のような音。
『だから…お願いです。私に、優しくしないでください』
その言葉が、私の胸を、鋭いナイフで刺し貫いた。
『優しくされると、側溝は、詰まってしまいます。流れるべきものが、流れなくなって。私が、ここにいられなくなって』
彼女の声が、かすかにうつむく。
『これが、私の…役目です。呪いを、終わらせるための、最後の器としての』
もう一つの、深い間。
『…音声ファイルは、これで削除します。チップのデータも、自己消去するように設定しておきました。…では』
プツン。
音声は途切れた。
静寂が、部屋を覆う。
私は、その静寂の中に、長い時間、座っていた。体が、芯から冷えていく。思考が、完全に停止した。
側溝。
彼女は、自分をそう呼んだ。
汚れた水が流れ込む、暗く、冷たく、誰も見向きもしない、しかしなくてはならない場所。
だから、優しくするな。詰まらせるな。
…ばかだ。
そんな…
私は、ゆっくりと立ち上がった。手に持った、早織の写真のフォトフレームを、じっと見つめる。ガラス越しに、彼女の笑顔が、今や、痛々しいほどに、無邪気に輝いている。
その笑顔が、すべて、 “呪い”のせいで?
彼女の苦しみが、千年前から続く誰かの悲しみの、はけ口だっただけ?
もんろの運命が、最初から、生ける能面として“処理”されることだと決まっていた?
“役目”?
“器”?
“側溝”?
私は、フレームを、思いっきり、床にたたきつけた。
ガシャーン!
ガラスが粉々に砕け散り、木製のフレームが割れる。写真そのものは、くしゃくしゃになり、床に散らばった破片の上にひらりと落ちた。
次に、壁の他の写真へと手を伸ばす。一枚、また一枚と、引きはがし、床に投げつける。ガシャン。ガシャン。バリバリ。
鈴木春子さんの、娘の結婚式の笑顔。
あの、顔の融けた患者の、最後の言葉。
無数の、私が“処理”した、名前も知らぬ人々の、“最後の清晰な顔”。
全てが、偽りだった。私の“仕事”も、彼らの“死”も、全てが、この巨大で陰湿な“呪い”の、小さな歯車の動きでしかなかったのか?
壁が、真っ白になった。写真は一枚も残っていない。床は、ガラスとプラスチックと、くしゃくしゃになった写真の紙片で埋め尽くされている。
私は、その“廃墟”の中央に、崩れ落ちるように膝をついた。
手のひらが、ガラスの破片を踏んで、切れた。血がにじむ。しかし、痛くない。
目に入ったのは、床に落ちた、早織の写真だった。くしゃくしゃになり、ガラスの破片が何枚も刺さっている。それでも、彼女の笑顔の一部は、かすかに見えている。
私は、その写真の破片に、手を伸ばした。ガラスの破片が、さらに掌に刺さる。無視する。
そっと、くしゃくしゃになった紙を、拾い上げる。破れた部分を、できるだけ丁寧に伸ばす。しかし、皺はとれない。ガラスで切れた裂け目は、元に戻らない。
私は、そのボロボロの写真を、胸に抱きしめた。額を床につける。
声が出ない。涙も出ない。ただ、体の奥底から、押しつぶされるような、重くて暗い何かが、ゆっくりと沸き上がり、喉元までせり上がってくるだけだ。
うめくような、吐息のような音が、私の口から漏れる。
早織…
もんろ…
なぜ…
部屋の中は、粉々に砕けたガラスと、引き裂かれた記憶と、無音の嗚咽で満たされていた。
窓の外、夜明けが近づいている。灰色の空が、またしても、何の変わりもない一日を、この呪われた世界に届けようとしている。
私は、壊れた写真を抱えたまま、微動だにしなかった。
何もかもが、壊れてしまった。
守るべきものも、信じるべきものも、なすべき役目も。
ただ一つ、かすかに、意識の片隅で、光るものがある。
あの、側溝と呼ばれた少女が、 “私の顔を探すのを手伝って”と、私に差し出した、冷たい手。
そして、彼女が、自らを側溝と呼びながら、私に“優しくするな”と懇願する、あの声の裏に潜んでいた、かすかすぎる、かすかすぎる、助けてほしいという、本音の響き。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
床に散らばった、早織の写真の破片を、一枚、また一枚と、拾い集め始めた。手の血が、写真を染める。それでも、かまわない。




