楽屋の崩壊
監視官の定時業務は、深夜零時に終わる。
少なくとも、表向きはそうなっている。私の勤務時間は朝九時から夜九時まで。それ以降は、もんろの生体データの遠隔モニタリングを、AIシステムと夜間担当のオペレーターに引き継ぐことになっている。
だが、三日ほど前から、ある異常なパターンに気づいていた。
もんろの「面容混沌度」が、深夜から明け方にかけて、不自然な上昇を見せていたのだ。
通常、彼女の混沌度は、日中、特に公演や治療行為のある日に上昇し、夜間の休息時間にはわずかに下降、あるいは横ばいになる。それが活動サイクルだ。
しかし、ここ数日。深夜一時を過ぎると、数値がじわじわと上昇を始め、午前二時から四時にかけてピークに達し、その後、明け方にかけて徐々に下降する。まるで、夜中に何か負荷のかかる「作業」をしているかのようだ。
今夜も、自宅のモニターから、遠隔でデータを監視していた。
23:00 - 混沌度 49%
00:00 - 混沌度 50%
01:00 - 混沌度 52%
01:30 - 混沌度 54%
上昇している。明らかに。
問題は、その理由だ。夜間、もんろは楽屋に閉じこもり、公的なスケジュールは一切ない。彼女は何をしているのか?
データは、より不安定になっていく。
01:45 - 混沌度 55%
01:50 - 56%
01:55 - 57%
そして、午前二時ちょうど。
02:00 - 混沌度 58%
一気に1%上昇した。これは、日中、一曲歌い終えた時の上昇率に近い。
何かが起こっている。
私は、モニターの前でじっとしていた。規則では、夜間の異常は夜間担当が対応し、必要に応じて緊急連絡を入れることになっている。今、私が介入するのは、明らかな越権行為だ。
しかし、夜間担当からの連絡はない。おそらく、彼らはモニタリングをAI任せにし、自分たちは他の仕事をしているか、仮眠を取っているのだろう。58%という数値は、緊急事態の閾値(60%)には達していない。システムは警告を発しない。
私は、コーヒーカップを置き、立ち上がった。
ダメだ。気になって仕方がない。
彼女は、夜中、何をしている?
私は、私用のタブレットを開き、特別なプログラムを起動した。これは、かつて妻・早織が、私の仕事の安全性を心配し、私の監視エリアのバックアップアクセス権をこっそり作り込んでくれたものだ。彼女は天才的なハッカーだった。その才能を、こんな形で使うことになるとは、彼女も思わなかっただろう。
プログラムが、もんろの楽屋のセキュリティシステムに静かに侵入する。彼女の楽屋には、公式の監視カメラは二つしかない。入り口と、メインスペースの広角カメラだ。だが、建物の構造上、楽屋の一部の壁には、古い配管用の点検口が隠されている。そこから、極小の無線カメラを仕込む余地はある。早織は、そうした「目」を、かつての私の任務のために、いくつか準備してくれていた。
私は、そのうちの一つ——楽屋のスマートミラーの真上にある換気口の格子裏に仕込まれたカメラ——を遠隔起動した。
画面がぼんやりと映る。暗い。楽屋のメイン照明は消えているが、非常灯の微かな緑色の光と、スマートミラーや各種機器のスタンバイランプの青白い光が、部屋をかすかに照らしている。
もんろの姿は、最初は見えなかった。ベッドの方向か?
しかし、データは、彼女が確かにこの部屋にいることを示している。心拍、体温、すべて検出されている。
ふと、画面の隅、床近くに、かすかな動きがあった。
ズームインする。
もんろが、床に座り込んでいた。壁にもたれ、膝を抱えている。能面は外している。暗がりの中、その顔は、はっきりとは見えない。
彼女は、何かを握りしめているようだ。小さな、薄い板状のもの。おそらく、彼女の私用タブレットか。
そのタブレットの画面の光が、彼女の顔を下から照らし出す。
私は、息をのんだ。
微表情分析グラスを通さず、生身の目で(いや、カメラ越しだが)、彼女の「素顔」を、これほどはっきりと見たのは初めてだった。
そして、それは、まさに「素顔」ではなかった。
昼間、能面の下でさえかすかに感じた「変動」が、今、この暗がりの中、彼女の無防備な表情において、むき出しの形で現れていた。
彼女の左目は、老人のように深く窪み、周囲に深い皺が刻まれているように見える。しかし右目は、幼子のように丸く、まつ毛が長く、瞳孔が大きく開いている。鼻筋は、ある瞬間は高く通っているように見え、次の瞬間には低く丸みを帯びる。口元は、ゆるやかに微笑んでいるのだが、眉は深く寄せられ、苦悶の表情を作っている。
一つの顔の中に、いくつもの年齢、性別、感情が、断片的に、しかも同時に表出している。まるで、複数の人物の写真を細かく切り刻み、無作為に貼り合わせたコラージュのようだ。しかも、その「コラージュ」が、微かに、しかし絶えず動いている。皮膚の下で、無数の顔の断片が、押し合いへし合いしているかのように。
混沌度58%。この数字が、もはや抽象的な数値ではなく、目の前の恐ろしい現実として理解できた。
もんろは、タブレットを操作し始めた。暗号化されたフォルダを開く。フォルダ名が一瞬映る。
返却待ちリスト
タブレットの画面には、無数の小さな画像ファイルが並んでいる。それぞれに、日付と、わずかなメタデータがついている。
もんろは、その中から幾つかのファイルを選択し、ドラッグして、画面中央の作業エリアに並べ始めた。
一つ目の画像を拡大する。それは、三つのそばかすが曲線を描いて並んだ、肌のテクスチャのクローズアップだ。西村紗良の母親のものだ。いや、「星空」だ。
二つ目の画像。後頸の、淡い褐色のほくろ。あの76歳の男性の初恋の女性の。
三つ目。子どものえくぼ。おそらく、どこかの公演で出会った子どもから借りたのだろう。
四つ目、五つ目、六つ目…。
老人の深い眉間の皺。女性のしなやかな首筋のライン。少年の切れ長の目尻。それぞれが、借りてきた「顔の断片」の、詳細な画像データだ。
もんろは、それらの断片を、まるでジグソーパズルを解くように、画面上で動かし、配置しようとしている。時折、二つの断片を近づけ、重ねてみる。しかし、肌の質感が合わない。色調が違う。輪郭が噛み合わない。
彼女は、次第に焦りのような動きを見せ始める。指の動きが速くなる。次々と断片を試す。組み合わせる。しかし、どれもこれも、一枚の「顔」として統合されない。
なぜなら、そもそも、それらは「一枚の顔」のパーツではないからだ。無数の他人から、ばらばらに、そして無作為に「借りて」きた、他人の人生の切れ端なのだ。それらを、たとえ物理的に貼り合わせたとしても、それは「もんろの顔」にはならない。ただの、不気味な寄せ集めにすぎない。
もんろの呼吸が、浅く速くなっている。カメラの集音マイクが、かすかな、しかし荒い息遣いを拾っている。
彼女は、突然、タブレットを置いた。そして、両手で自分の顔を覆う。肩が震え始める。
泣いているのか?
しかし、声は聞こえない。ただ、肩の震えだけが、暗い部屋の中、かすかな機器のランプの光に照らされ、微かに揺れている。
長い時間が過ぎる。五分。十分。
彼女は、ゆっくりと顔から手を離した。タブレットの画面の光を受けて、彼女の頬には、確かに涙の跡が光っている。だが、その表情は、悲しみというより、むしろ…焦燥と困惑だった。
彼女は、タブレットのマイクに向かって、低く、しかしはっきりとした、どこか機械的な声で呟いた。
「エラー」
声には、震えも嗚咽もない。先ほど肩を震わせていたのは、まるで別人のようだ。
「統合不可能」
彼女は、画面に散らばる無数の顔の断片を見つめる。
「オリジナルデータ不存在」
その言葉を聞いた瞬間、私は、体が先に動いた。椅子から立ち上がり、上着を手に取る。楽屋へ行かなくては。彼女の元へ。なぜかわからない。ただ、あの声、あの「オリジナルデータ不存在」という言葉が、胸の奥で何かを強く引き裂くような感覚を覚えたからだ。
自宅を飛び出し、車に乗り込む。深夜の道路を、法定速度をわずかに超えるスピードで、楽屋のある施設へ向かう。
私用のアクセスカードでゲートを通り、夜間警備員にうまくごまかし、楽屋ゾーンへ入る。廊下は深夜モードの薄暗い照明だけが灯っている。
もんろの楽屋の前で、私は足を止めた。
ドアの向こうからは、何の音も漏れていない。先ほどのカメラ映像では、彼女はまだ床に座り込んだまま、タブレットを見つめていた。
私は、ドアノブに手をかけた。開ければいい。中に入り、彼女に…何を言う?
「大丈夫か?」 そんな言葉が、彼女に通じるだろうか。
「無理に『自分』を探さなくていい」 それは、監視官としての言葉か、それとも?
私の役割は、彼女を「観察し、評価し、必要ならば処理する」ことだ。慰めることではない。彼女の内面の苦悩に踏み込むことなど、許されていない。
それに、彼女は果たして、私の「慰め」を、人間的なものとして理解できるだろうか。それとも、ただの「対人インタラクションプロトコル」の一環として処理するだけだろうか。
手が、ドアノブから離れた。
私は、その場にうずくまるようにして、ドアにもたれかかった。冷たい扉の感触が、頬に伝わる。
ドアの向こう。ほんの数十センチ先に、彼女がいる。世界から「自分」を失いつつある存在が。
そして、こちらの側には、世界から「大切なもの」を失った男が。
私たちは、薄い一枚の扉を隔てて、同じ闇の中にいた。
どれくらい時間が経っただろう。廊下の向こうから、警備員の定期巡回の足音が聞こえてきた。私は、静かにその場を離れ、物陰に身を隠す。警備員が通り過ぎる。
楽屋のドアの下の隙間から、ほのかな明かりが漏れている。彼女はまだ起きている。
私は、そっとその場を後にした。自宅へ戻る道中、頭の中は、あの「返却待ちリスト」というフォルダ名と、「オリジナルデータ不存在」という言葉でいっぱいだった。
翌朝、九時。私は、定刻通りに楽屋ゾーンに現れた。
もんろは、もう準備を整えていた。能面をつけ、今日の最初のスケジュール(国会公聴会のリハーサル)用の、シックなスーツスタイルの衣装を着ている。彼女は、デスクの上に広げられた書類に目を通しながら、スタッフと軽く打ち合わせをしている。
「かしこまりました。では、その部分は、証言の際に少し間を置くようにします」
彼女の声は、いつもの通り、澄んでいて、適度なトーンだ。昨夜、床に座り込み、無声で肩を震わせ、機械的な声で「エラー」と呟いた彼女の面影は、微塵もない。
スタッフが去り、私が近づくと、もんろは能面を向けた。
「おはようございます、尚さん。今朝のデータ、何か異常はありましたか?」
彼女は、ごく自然に、監視官である私への報告を求めてくる。あたかも、それが日課の挨拶であるかのように。
「…特段、ありません」私は答えた。「昨夜は、少しデータに揺らぎがありましたが、おそらくセンサーの誤差でしょう」
「そうですか」もんろは軽くうなずく。「センサー類、時々、調整が必要ですからね。お手数をおかけします」
彼女はそう言うと、デスクの上の湯呑みに手を伸ばした。お茶を一口飲む。
その時、私は見た。
湯呑みを持つ彼女の右手。人差し指と親指で湯呑みの縁をつまんでいるのだが、その指先が、かすかに、しかし確実に、震えている。
ごく微細な震えだ。一瞬見間違うかと思うほど。しかし、私は、微表情分析グラス越しに、その震えをはっきりと認識した。筋肉の微細な、制御不能な痙攣。
彼女は、湯呑みを置く。震えは止んだ。何事もなかったように、書類の次のページをめくる。
「では、そろそろリハーサル会場へ向かいます。尚さんも、いらっしゃいますか?」
「…ああ。ついていく」
私たちが楽屋を出ようとした時、私の携帯が震えた。伊達課長からの着信だ。
廊下に出て、出る。
「尚。昨夜、対象のもんろの混沌度が、夜間にもかかわらず58%まで上昇した。報告には、そのことへの言及がない。なぜだ?」
伊達課長の声には、いらだちが滲んでいる。彼も、データを監視していたのだ。
私は一瞬、間を置いた。楽屋のドアが閉まり、もんろが少し先を歩いている背中が見える。
「センサーエラーの可能性が高いと判断しました」私は、できるだけ平静を装って言った。「夜間、彼女の楽屋の温度・湿度調整システムが一時的に不調になり、それが生体センサーの読みにノイズを生じさせたようです。今朝、現地で簡易チェックしましたが、センサー自体には異常は見当たりませんでした。詳しくは、今日中に業者を呼んで点検させます」
嘘だ。そんな点検の予定はない。しかし、それでなければ、昨夜の私の越権行為(隠しカメラの使用)が露見する。
「…ふむ」伊達課長は、納得いっていないようだったが、それ以上は追求しなかった。「わかった。だが、次からは、些細な異常でも報告しろ。対象は、我々の想定以上に不安定かもしれない。油断するな」
「了解です」
電話を切る。私は、もんろの後ろ数歩を歩きながら、ポケットの中の端末を操作した。昨夜の隠しカメラの記録データを、完全削除のコマンドで消去する。
データ消去完了
画面に表示される。
これで、私が昨夜見たもの——床に座り込む彼女、無数の顔の断片、震える肩、そしてあの「返却待ちリスト」——は、公式の記録から消えた。私の記憶の中にだけ残る、禁断の真実になる。
もんろが、廊下の曲がり角で立ち止まり、私を振り返った。能面の目孔の奥の闇が、私を見つめている。
「尚さん、お電話、おわりましたか?」
「ああ。業務連絡だ」
「大丈夫でしたか?」
その質問は、単なる気遣いの定型句なのか、それとも、昨夜の何かを仄めかしているのか、判別できなかった。
「何でもない」私は答えた。
「そうですか」
もんろは、再び歩き出した。背筋はピンと伸び、歩幅は一定。完璧な「歌姫」の佇まいだ。
ただ、私のグラスが捉えた限りでは、彼女の右手の人差し指が、またごくわずか、痙攣しているように見えた。
彼女は、昨夜のことを、覚えているのだろうか。あの「エラー」の瞬間を。それとも、それは、彼女のシステムが定期的に行う「自己診断」の一部で、記憶にすら残らないルーチン作業なのだろうか。
彼女が「返却待ちリスト」と名付けたあのフォルダ。彼女は、借りたものを、心のどこかで、返したいと思っているのだろうか。
それとも、それは単なるファイル名にすぎず、彼女の深層心理とは無関係なのだろうか。
わからない。ますます、わからなくなっていく。
私たちは、リハーサル会場のドアの前に到着した。もんろは、一呼吸置き、背筋をさらに伸ばした。彼女の体全体から、「国会公聴会モード」へとシフトしていく気配が感じられる。
彼女がドアを開ける直前、私は思わず声をかけた。
「もんろさん」
「はい?」
「…無理をしすぎないでください」
もんろは、能面を私に向けたまま、ほんの一瞬、静止した。そして、かすかに、しかし確かに、首をかしげるような仕草をした。
「ありがとうございます、尚さん。でも、大丈夫です」
彼女は、ごく自然な、優しい口調で言った。
「これが、私の役目ですから」
そう言うと、彼女は迷いなくドアを開け、中へと入っていった。ドアが閉まる。中からは、すでにリハーサルが始まる気配がする。
私は、ドアの前で、しばらく立ち尽くしていた。
これが、私の役目ですから。
その言葉は、果たして、彼女自身の意志から出たものなのか。それとも、彼女に刷り込まれた、何者かが設定した「プログラム」の言葉なのか。
私には、もう、判別できなかった。




