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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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星空のそばかす

病院の特別病棟は、死よりも深い静けさに包まれていた。

廊下の壁は淡いベージュ。床は無音のクッションフロア。各病室のドアには小さな窓がついており、中の様子が覗けるようになっている。ここは、CPDS重症児専門の長期療養病棟だ。入所している子どもたちのほとんどは、自宅でのケアが困難な末期状態にある。

私と伊達課長、そしてもんろの三人が、案内の看護師に導かれ、一番奥の病室の前で立ち止まった。ドアの名札には、「西村紗良 14歳」 とある。

「紗良ちゃんは、三ヶ月前から症状が急激に進行しました」

看護師の声は、訓練で平然を装っているが、その奥に潜む無力感を隠しきれない。

「今では、両親の顔を認識できません。話しかけても反応が薄く、一日の大半をベッドの上で、窓の外の空を見つめて過ごしています。食事も自分ではほとんど摂れず、経鼻栄養が必要な状態です」

伊達課長がうなずく。「今回の特別処置の許可は下りている。記録はすべて取る。尚、お前が監視を」

「はい」

ドアが開いた。

病室は、子ども部屋というより、簡易な検査室のようだった。ベッド、点滴台、モニター類。そして、大きな窓。その窓辺のチェアに、細い体の少女が座っていた。髪は肩までストレートで、色の褪せたパジャマを着ている。彼女は、窓の外の灰色の空を、一点を見つめるように眺めていた。瞳には焦点がない。

ベッドの脇には、疲れ切った表情の母親が立っている。父親は仕事で来られないという。

「紗良ちゃん」看護師が優しく声をかける。「今日は、特別なお姉さんが、綺麗な歌を聞かせに来てくれたよ」

紗良の反応はない。目も動かない。

もんろが一歩前に出た。今日は、普段の舞台衣装ではなく、シンプルな白いワンピースを着ている。能面は手に持ったまま。

「西村紗良さん、こんにちは。私は、赫映もんろと申します」

もんろの声は、病室の静寂に溶け込むように柔らかい。しかし紗良は、相変わらず無反応だ。

母親が、もんろに小さく頭を下げた。「お願いします…少しでも、こちらの声が聞こえるようになってくれれば…」

「できる限りのことをさせていただきます」

もんろはそう言うと、伊達課長と私の方を見た。「この場では、能面は外した方が、より深く繋がれる可能性が高いと思います。規定上、いかがでしょうか」

伊達課長は眉をひそめた。「リスクが高い。彼女の顔が…」

「短時間であれば、問題ないかと。それに、紗良さんは、私の顔をまともに見ることはおそらくできないでしょうから」

もんろの言う通りだ。紗良のCPDSは末期だ。他人の顔の輪郭を認識することすら難しい。もんろの「変動する顔」を見たとしても、彼女にはただの色の曇りにしか映らないかもしれない。

「…わかった。だが、監視は厳重に。尚、お前のグラスとセンサーで、全て記録しろ」

「了解」

もんろは軽くうなずき、能面をそっと脇の台に置いた。

能面の下の顔は、相変わらず、かすかに「揺らいで」いた。昨日、楽屋で見た時よりも、その変動が少し速くなっているように感じた。あるいは、気のせいか。

彼女は、紗良の前に静かに膝をついた。二人の視線の高さを合わせる。

「紗良さん、私はこれから、歌を歌います。とても古い、ゆりかごの歌です。どうか、ゆっくりと聞いてくださいね」

もんろは深呼吸一つし、口を開いた。

《ゆりかごの歌》

しかし、それは普通の子守唄ではなかった。旋律は基本同じだが、ところどころに微妙な装飾音が加えられ、リズムがわずかに引き延ばされている。もんろの声は、マイクを通さない生の声で、さらに澄み、深く響いた。病室の空気そのものが震えているようだった。

紗良の反応は、依然としてない。ただ、窓の外を見つめる目が、ほんのわずか、まばたきの回数が増えたように思えた。

一曲終わる。

もんろは少し間を置き、紗良の様子を観察した。そして、もう一度、歌い始めた。

今度は、さらに旋律を変えていた。どこか民族的で、古謡のような響きを帯びている。私の知っている《ゆりかごの歌》からは、かなり離れている。

すると、紗良の母親が、息をのんだ。

「あの…そのメロディ…」

彼女は声を詰まらせた。

「私が、紗良が赤ちゃんの時、よく歌ってた…オリジナルの…誰にも教えてない、私だけが歌ってた子守唄…」

もんろは、歌を中断せず、母親の方にごく軽くうなずいた。そして、その“オリジナルの子守唄”を、より明確に、より力強く歌い始めた。

紗良の体が、わずかに動いた。

まず、指先が。ベッドカバスの上で、微かに震える。

次に、首が。ゆっくりと、窓の外から、もんろの方へ、とぎれとぎれに向き始める。

もんろの歌声が、クレッシェンドしていく。彼女は目を閉じ、全身で歌っている。能面を外した顔には、今、何の“モード”もない。無表情に近いが、その無表情さが、逆説的に、深い集中力を感じさせた。

紗良の目が、もんろの顔に、ゆっくりと焦点を合わせ始めた。

瞳に、かすかな光が灯る。

もんろが、歌の最後の一節を、息をひそめるような音量で歌い終えた。

静寂。

そして——

紗良の唇が、震えた。

「…………か…」

声にならない息遣い。

「……お…か…あ…」

母親が、思わず手を口に当てた。涙が溢れそうになっている。

紗良の目から、大粒の涙が、静かにこぼれ落ちた。三ヶ月間、無表情だった顔が、ゆっくりと、歪むように動き始める。それは、泣き顔というより、長く凍りついていた感情の氷が、亀裂を入れて崩れ落ちるような、痛々しいほどの表情の変化だった。

彼女の視線は、もんろから、そばに立つ母親へとゆっくり移る。

そして、紗良は、震える手を差し伸べた。母親の頬に触れる。

指が、母親の左頬の、数個の小さな茶色の点の上を、そっとなぞる。

口が、ゆっくりと動く。言葉を紡ぎ出すのに、莫大なエネルギーを使っているようだった。

「……おかあさん…」

声はかすれ、ほとんど息に近い。

「…あなたの…そばかす…」

一呼吸。

「…星空みたい…」

その言葉を聞いた瞬間、母親は崩れ落ちるように膝をつき、紗良を強く抱きしめた。嗚咽が、押し殺されたような小さな声で漏れる。

「…そうよ…紗良…そうなの…ママのそばかす、星空みたいって、あなたが小さい時、いつも言ってた…思い出して…思い出してくれたのね…!」

紗良は、母親の抱擁に、ただじっとしている。まだ完全には理解できていないようだが、涙だけが止まらずに流れ続けている。

もんろは、静かに立ち上がった。彼女の任務は終わった。彼女は、能面をつけ、一礼をすると、何事もなかったように病室を後にする。伊達課長が、満足そうにうなずき、彼女について出ていく。

私は、一瞬、病室に残った。微表情分析グラスが、紗良と母親の再会のシーンを記録し続けている。

紗良の顔には、確かに“色”が戻りつつある。涙で濡れた頬がほんのり赤みを帯び、目には生気が宿っている。母親のそばかすを“星空”と形容できた。色彩と、それに付随する情感的な記憶が、一時的だが確実に蘇ったのだ。

治癒は成功だ。

私は病室を出て、もんろたちを追った。

廊下では、もんろと伊達課長が、医師と短い報告を交わしている。もんろは能面をつけたまま、淡々と状況を説明している。自分の功績を誇る様子もなく、むしろ、事務的に。

私のグラスが、もんろの生体データを表示する。

心拍:61/分(微増)

呼吸:やや速い

発汗:軽度検出

少し緊張しているのか? それとも、治療行為そのものの負荷か。

彼女が医師との会話を終え、こちらの方へ歩いてくる。廊下の白い蛍光灯が、彼女の能面と白いワンピースを照らす。

その時、光の角度が変わった。

もんろの右頬、ちょうど顎のラインあたりに、何かが浮かび上がった。

小さな、茶色の点。三つ。

三つの点は、微妙な間隔で、三角形——いや、オリオン座の三つ星のように、緩やかな曲線を描いて並んでいる。

そばかすだ。

紗良の母親の頬にあったものと、同じ並び方。いや、正確には、紗良が“星空みたい”と形容した、あの並び方だ。

もんろは、何も気づいていないように歩いている。伊達課長も、医師も、誰もその変化に気づいていない。自然光では見えにくいが、この人工的な蛍光灯の下では、はっきりと浮かび上がっている。

彼女が私のそばを通り過ぎようとした時、私は思わず声をかけた。

「…もんろさん」

彼女が足を止め、能面を向ける。

「何か?」

「…その、頬に」

もんろは一瞬、無言だった。そして、手袋をはめた手を挙げ、自分の右頬に触れた。指が、そばかすの位置をそっとなぞる。

能面の下から、かすかに息を吐く音が聞こえた。

「…そうですか」

それだけだ。彼女は何も説明せず、手を下ろし、「失礼します」と言って、再び歩き出した。背筋は、相変わらず真っすぐだ。

伊達課長が私に近づき、低い声で言った。

「記録は全て取ったな」

「はい」

「良い結果だ。彼女の能力は本物だ。しかし…」伊達課長は、もんろが遠ざかる背中を見つめた。「代償も、確実に進行している。報告書には、『一時的な皮膚の色素沈着と思われる痕跡を確認』とでも書いておけ。詳細は、内々に」

「了解です」

その夜、私はオフィスで報告書を仕上げた。

対象:赫映もんろ

事案:重症CPDS患者(14歳女性)に対する特別治療行為

結果:患者は一時的に色彩知覚及び関連記憶を回復。治療行為中、対象の顔面に、患者の母親の特徴に類似した色素斑そばかすの新規出現を確認。治療終了後1時間経過時点でも持続。

所見:対象の『借取』能力は、物理的痕跡をも残すことが確認された。今後の経過観察が必要。

冷静で、客観的な報告だ。これで十分だろう。

しかし、私はもう一つ、個人用の暗号化ログを開いた。これは、厚生省のシステムには記録されない、私だけの観察記録だ。

今日の日付を入力し、ゆっくりと文字を打つ。

西村紗良(14)は、母親のそばかすを『星空』と呼んだ。

もんろは、その『星空』を借りた。

今、彼女の頬に、三つの小さな星が昇っている。

だが、彼女は、そのそばかすが『星空』と呼ばれていたことを、知っているのだろうか?

借りたのは、単なる色素の配列なのか。

それとも、『星空のようにきれいだね、と娘に言われて、少し照れくさいけど、とても嬉しかったあの日の気持ち』までも、一緒に借りてしまったのか。

もし後者なら——

彼女の頬に浮かんだ星は、どれほど温かいのだろう。

報告を送信し、オフィスを出る時、受付の係員が声をかけてきた。

「尚さん、お帰りですか? あ、これ、さっき届いたものですが…」

小さな封筒を手渡された。差出人は「西村」(紗良の母親)とある。中を開けると、手描きの感謝カードがあった。クレヨンで、紗良の笑顔が描かれている。その頬には、三つの茶色の点が、きれいな曲線を描いてちりばめられている。そばかすだ。いや、「星空」だ。

傍らに、母親の走り書き。

『お礼の言葉もありません。娘が、私の顔を思い出してくれました。もんろ様に、どうかお渡しください』

私はカードを手に、もんろの楽屋へ向かった。もう夜遅い。彼女は明日の国会公聴会の準備で、まだ残っているはずだ。

楽屋のドアは閉まっていたが、隙間から明かりが漏れている。ノックしようとしたその時、中から機械の作動音が聞こえた。

そっとのぞき窓から中を覗く。

もんろは、スマートミラーの横に設置された、医用スキャナーの前に座っていた。能面は外している。機械のアームが、彼女の顔の上で停止し、赤いレーザーのような光線が、彼女の右頬——あの三つのそばかすの上を、ゆっくりと走査している。

画面には、皮膚の深部まで見えるような画像が表示されていた。そばかすの色素が、表皮の深く、それどころか真皮層にまでしっかりと根を下ろしている様子が映る。

もんろは、タブレットを操作している。おそらく、レーザーによる色素除去のプログラムを起動しているのだろう。

機械が微かな発射音を立てる。青白色の光が、そばかすの一点に瞬間的に照射される。

もんろの顔が、わずかに引きつる。痛いのだろう。

しかし、画面を見る。そばかすは消えていない。かすかに薄くなったようにも見えるが、依然として確かな痕跡を残している。

彼女は、次の点に照射する。また、微かな痛みの表情。

消えない。

三つ目。結果は同じ。

もんろは、プログラムを停止させた。機械のアームが引っ込む。彼女は、スキャナーの前でじっと座ったまま、ミラーに映る自分の顔——三つの“星”をちりばめた右頬を見つめている。

長い時間が過ぎる。37分。私のタイマーが示す。

そして、もんろが、ごくかすかに、囁くように口を開いた。

「……ごめんね、星空」

その声は、彼女がこれまで使ったどんな“モード”の声とも違った。どこか、子どもが壊したおもちゃを前に、どうすればいいかわからずに立ち尽くしているような、無力で、しかしどこか優しい響きだった。

彼女は立ち上がり、スキャナーの電源を切った。ミラーも消す。楽屋は薄暗くなる。

私は、感謝カードをポケットに仕舞い直した。今、渡すべきではない。少なくとも、今夜は。

もんろは、デスクの抽斗を開け、何かを取り出した。小さな箱のようだ。それを開けると、中からは、これまでに受け取ったと思われる数枚のカードや手紙が見えた。彼女は、西村さんからのカードをしまうべき場所を探すように、それらの上に指を滑らせたが、結局、箱を閉め、抽斗の一番奥に押し込んだ。

鍵をかける音。

彼女は、能面をつけ、楽屋の明かりを消し、ドアへ向かう。

私は、そっとその場を離れた。

廊下の角で、彼女が楽屋を出てくるのを見送る。背中は、相変わらず真っすぐだ。しかし、その右頬に、蛍光灯に照らされて、かすかに三つの点が浮かび上がっている。

彼女は、その“星”を、このまま持ち続けるのだろうか。それとも、いつか、誰かに“返す”日が来るのだろうか。

私のポケットの中で、感謝カードが、少しだけ温かく感じられた。


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