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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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初恋のパレット

母たちの鎮魂歌の余韻が、まだ夜の空気に溶け残っている。

スカイツリーの周囲に広がる光の桜吹雪は、ゆっくりと消えつつあった。十万人の母親たちの合唱も、潮が引くように静まっていく。もんろの左頬は、月明かりのような滑らかな空白。彼女は、深く息を吐き、そっと胸に手を当てる。母たちの情感の重み——深く、温かく、しかし時に溺れそうになるほどの愛の奔流——を返し終えた安堵と、一抹の寂しさが、彼女の瞳をかすかに曇らせる。

そして、彼女が顔を上げ、観客席を見渡す。

その視線が移ると同時に、彼女の右頬が、急に強く輝き始めた。

左頬の穏やかな空白とは対照的に、右頬は、無数の切なく、熱い、そしてどこか恥じらいに満ちた光で渦巻いている。ピンク、赤、オレンジ、ときには嫉妬の深緑、別れの透明な青——それらが混ざり合い、激しく脈打つ。すべての「恋人」、特に「初恋」の面影が、ここに集結していた。

もんろの表情が、わずかに変わる。母への深い慈愛から、青春の戸惑いと切なさを含んだ、より儚い表情へ。彼女の口元が、ほんの少し緊張して引き締まる。そして、かすかに、声を震わせて言う。

「次は……初めて……誰かを……好きになった……あの頃の……あなたへ」

その言葉と共に、彼女の体が動き始める。

ダンス、といえるほど洗練されたものではない。むしろ、中学校の体育祭でやるような、少しぎこちない集団舞踏の動きだ。腕を振り、軽くステップを踏み、くるりと回る。その動きは、どこか恥ずかしそうで、しかし無邪気なエネルギーに満ちている。初恋のときの、あのどきどきしながらも、なぜか体が自然に動いてしまうあの感覚を、そのまま体現しているようだった。

そして、彼女が口を開く。今度は、歌詞ではない。

声そのものが、色彩へと変容していく。

一声、高く澄んだ音を上げる。

淡いピンク色が、彼女の声の軌跡に沿って、夜空に広がる。それは、放課後の教室に差し込む夕日が、好きな人の机をそっと照らす、あのほんのりとした色だ。観客席のあちこちで、人々が思わず自分の頬に手を当てる。遠い記憶の中の、あの温もりを思い出す。

次に、細かく震えるビブラート。

鮮やかな赤が、空気中に脈打つ。それは、隣に座るあの子の手が偶然触れたとき、全身を駆け巡ったドキドキの色。鼓動の速さが、そのまま色彩の強さとなって現れる。多くの人が、胸を押さえ、息を詰まらせる。

深いため息のような、低く長い音。

透明な水色が、地面から湧き上がるように広がる。卒業式の後、別れを告げるも言えず、ただ遠くから見送ったときの、切ないまでの清涼感。涙の粒ひとつひとつが、この色に包まれているようだ。

もんろの右頬では、無数の初恋の面影が、それぞれ固有の色の記憶を纏って浮かび上がる。

放課後の教室で、好きな人が残していった消しゴムのカスに宿る、夕焼けのオレンジ。

図書室で、本の間からこっそり覗いた横顔にかかる、木漏れ日の薄緑。

雨の日、傘を半分に分け合ったとき、彼の肩に滲んだ制服の、濡れたネイビーの深み。

運動会で、走り去る背中に貼られたゼッケンの、眩しい白。

彼女が渡そうとして結局渡せなかった、手作りチョコの包み紙の、下手なリボンの金茶。

初めて手を繋いだとき、二人の掌の間に生じた、熱と湿気の暖かいグレー。

一つ一つの色が、もんろの歌声——いや、色彩そのものとなって、観客席へ、そして世界中へと飛び立っていく。107の神社ネットワークが、今度はより精緻に、より個人的に、それぞれの「初恋の色」を、正しい受け手へと導く。


東京・深夜の終電車内。

中年サラリーマンが、疲れた顔で吊り革に掴まっていた。突然、彼の掌に、淡いピンク色の光の粒が、ひらりと舞い降りた。

瞬間、彼の脳裏に、三十年前の記憶が鮮明によみがえる。中学二年の春。隣の席にいた、おとなしくて絵が上手い転校生、由美子。彼女が転校する前日、彼のロッカーに、手作りの押し花のしおりを挟んだ手紙をこっそり入れていた。中には、幼い字で「好きです」とだけ書いてあった。

彼は、怖かった。友達にからかわれるのが怖く、何よりも、その純粋すぎる気持ちにどう応えていいかわからなかった。彼は、彼女が去った後、手紙を破り捨て、彼女に会いにきた友達に「何も入ってなかったよ」と嘘をついた。

それ以来、彼は由美子の顔を、意識的に忘れようとしてきた。罪悪感が、記憶を曇らせた。

だが、もんろが還してくれたこのピンク色の光——それは、彼が決して見ることのなかった、ある光景だった。もしあの時、彼が勇気を出して返事を書き、由美子に渡していたら。彼の頭の中で、無意識に、何度も描いていた幻想的な光景。由美子が、彼の手紙を読み、顔を上げ、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑む瞬間。その笑顔の色が、このピンクだった。

「……由美子……!」

彼は、吊り革から手を離し、自分の掌をじっと見つめる。涙が、こぼれ落ちる。

「あの時……返事を……書いていた……『僕も……好きだ』って……」

車内の他の乗客は、彼の突然の涙に驚き、そっと目を逸らす。が、彼にはもう周りは見えない。掌の中で輝く淡いピンクの光と、それに重なる、鮮明によみがえった由美子の笑顔だけが、彼の世界の全てだった。


地方の小さな老人ホームの庭。

車椅子に座った老女が、夜空を見上げていた。そこに、桜色の光の粒が、雪のようにひらひらと舞い降りてきた。彼女は、そっと手のひらを差し伸べる。粒が、彼女の皺くきになった手の甲に触れる。

彼女の目に、七十年前の春の日がよみがえる。高等女学校の一年生。図書委員として一緒だった、一つ上の先輩・浩一。彼は俳句が好きで、よく自作の句を小さな色紙に書いては彼女に見せた。ある日、彼がこっそり彼女の弁当箱に挟んだ色紙。そこには、こうあった。

『春の風に 君の名を書く』

彼女は、あまりの恥ずかしさに、その色紙をすぐに隠し、彼には「読んでない」と嘘をついた。実は、何度もこっそり眺め、暗記していた。戦争が始まり、彼は学徒出陣で戦地へ。戻らなかった。

彼女は、彼の顔を、ゆっくりと忘れていった。戦後の混乱、結婚、出産、老い。でも、あの一句だけは、なぜか心の奥に残っていた。

もんろが還してくれた桜色の光は、彼女が繰り返し思い描いていた光景——浩一が庭の桜の木の下で、恥ずかしそうに色紙を差し出す姿——を、鮮やかな色彩と共によみがえらせた。

老女は、目を細め、かすかに、しかし確かに微笑んだ。

「浩一くん……あなたの俳句……ずっと……覚えていたよ」

彼女の声は、かすれているが、喜びに満ちている。

「『春の風に……君の名を書く』」

その言葉と同時、彼女の目の前に、ほんの一瞬、青年の幻影が浮かんだ。軍服ではなく、学ラン姿の、少し面長で優しそうな顔の青年が、彼女に向かって、こっそりとウィンクし、消える。

彼女は、驚きもせず、ただ深くうなずいた。もんろが開いた、記憶と現実の狭間からの、ほんの一瞬の訪問を受け入れた。


このような現象は、世界中で同時多発した。

初恋の相手の幻影が、ほんの一瞬、手を振る。笑いかける。「ありがとう」と口を動かす。それらは、物理的な存在ではない。が、受け取った人々の心には、確かな温もりとして刻まれた。

もんろの能力は、単なる記憶の「返却」を超えていた。彼女は、記憶に封じ込められた未完了の情感に、一時的に「形」を与え、現実と交信させる仲介者、翻訳者として機能していた。特に、言えなかった言葉を、彼女が代弁する瞬間が、最も強く人々の心を揺さぶった。

ある老紳士の前には、戦災で亡くなった初恋の女性が現れ、もんろの口を通して、彼女の声で囁いた。

『あの時……あなたのプロポーズ……受けたかった』

彼は、跪き、六十年来の無念に泣いた。

中年女性の前に現れたのは、高校卒業と共に別れた彼氏だった。もんろが彼の口調で言う。

『ごめん……あの時、怖くて逃げちゃった』

彼女は、涙ながらに笑い、うなずいた。


右頬から、最後の初恋の面影が飛び立つ。

もんろの右頬も、左頬と同じく、滑らかな空白へと変わった。ピンクや赤の激しい光は消え、ただ、ほんのりと、夕焼けの名残のような優しい色合いが、かすかに残るだけだ。

彼女は、ダンスをやめ、胸を押さえながら、深く息を吸う。呼吸は明らかに速く、浅い。体の透明化はさらに進み、スポットライトがほぼ完全に透過している。しかし、彼女の表情は、驚くほど輝いていた。深い疲労の中に、満ち足りた喜びが浮かんでいる。

「ふふ……」

彼女が、小さく笑った。その笑みは、どこかいたずらっぽく、初恋の少女そのもののようだ。

「恥ずかしい……思い出が……いっぱい……」

彼女は、そっと自分の胸、心臓のあたりに手を当てる。

「でも……どれも……きれいでした……色が……とっても……」

今、彼女の顔に残っているのは、目とその周囲だけだ。額も頬も空白。目だけが、無数の銀河のきらめきを宿し、深く、静かに世界を見つめている。

夜は、深い。星が、まるで彼女の帰還する光の粒に呼応するように、きらめきを増している。


その夜、世界中の無数の寝室で、街角で、誰もいない場所で、人々が、ふと、空気に向かって呟いた。

「ああ……そうだね……あの時……本当は……」

言葉は、そこで止まる。続きは、それぞれの心の中だけのものだ。が、それでいい。もんろが開いてくれた記憶の扉から、ほんの一瞬、光が差し込んだ。それだけで、長年閉ざされていた何かが、少しだけ緩んだ。

東京の空は、澄み切った闇に包まれている。もんろは、再び深く息を吸い込み、残された最後の領域——目とその周囲、そして、それ以外の、より深く、より暗い記憶たちへと、意識を向け始める。

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